《君塚省三のプロフィール》
profile of KIMIZUKA SEIZOU


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2夷隅の豪農自由党員 井上幹(next page)





   《contents》


   (1)君塚省三肖像写真

   (2)君塚省三書簡(齊藤和助宛)

   (3)【君塚省三・中村孝年譜】

   (4)君塚省三墓碑

   (5)【人物 memo】板垣退助 

 

 

 






君塚省三(肖像写真)



《勝浦市の豪農自由党員》
wealthy farmer member
of liberal party in katuura city



君塚省三の墓碑を初めて訪ねたのは、まだ銚子在住の頃のことであった。銚子市から鴨川市の生家へ帰省する途中、しばしば民権家の史跡を訪ね歩く中で、小学生であった息子と一緒に勝浦市芳賀(はが)の妙満寺へ立ち寄った。手許に残っている写真の長男は、半袖のTシャツだから季節は夏であった。

君塚省三は1856(安政3)年4月に生まれた。12才の頃に明治維新を迎えることになる。民権家として君塚省三が最もエネルギッシュに活動したのは、1884(明治17)年の松方デフレ下のことである。夷隅郡4000余名の署名を携えて上京し、三条実美太政大臣へ地租軽減の請願書を提出しようとした。

当時、夷隅郡で署名4000名という数字はどの位の意味があったのだろうか。1軒で1人しか署名しなかったであろうから、「4000」余戸の人々の署名ということになる。この頃の夷隅郡の戸数は、およそ1万5000戸であった。3戸から4戸に1戸は署名した計算になる。当時の人口は現在の3分の1くらいであるから、現代では1万2000戸、5万人程の署名に換算できるだろう。


1884(明治17)年の3月、自由党大会(会場は東京)の終了後開催された「各地総代員相談会」において、君塚省三板垣退助と減租運動に取り組む方針について意見を交換した。君塚の主張は、地租軽減の運動にもっと「党」は積極的に取り組むべきであるという主張である。自由党「総理」板垣退助は、地租軽減の運動は「地方有志」の取り組むべき事で、「党」として運動することには馴染まないと消極的な意見を述べている(安在邦夫他編『自由民権機密探偵史料集』三一書房1981年)。党の運動方針をめぐって板垣と火花を散らしている君塚の姿は、私たちを魅了する。このとき君塚はまだ27才の青年、板垣は46才の壮年であった。

その後君塚は千葉県会議員として活躍し、衆議院議員にも選出されて、夷隅以文会の重鎮であった。1906(明治39)年5月に50才で他界した。




君塚省三書簡(齊藤和助宛)
letter from KIMIZUKA SEIZOU to SAITOU JIJIHU





1884(明治17)年1月18日(自由政談演説会の運営についての依頼)





【君塚省三・中村孝年譜】
 (*は中村孝関係記事)
chronological record of
KIMIZUKA and NAKAMURA



1856(安政3)年
4月 夷隅郡芳賀村で誕生、幼名は道太郎(議員名鑑)。

1858(安政5)年
12月 *中村孝、山辺郡上谷村で誕生(憲政功労者銘記)。

1875(明治8)年
12月 第6大区1小区副戸長になる(夷隅郡誌)。 

1880(明治13)年
11月 *民権結社以文会結成、中村孝は会幹(郵便報知)。

1881(明治14)年
2月 精農社結成(東京横浜毎日・精農雑誌)。10月 以文会が規則を改正、郡内を12区に(朝野)。

1882(明治15)年
6月 薫陶学舎入学(薫陶学校入学金収入簿)、以文会政談演説会で君塚が演説(朝野)。

1883(明治16)年
3月 県会議員に当選〜1894(明治27)年9月まで(夷隅郡誌)。4月 自由党定期大会に参加(三島通庸文書)。11月 *中村孝、自由党臨時大会に参加(自由党史)。

1884(明治17)年
3月 自由党臨時大会に参加(自由党史)、夷隅郡4000名の署名を持ち、減租請願のため上京し三条太政大臣に面会を求めた(自由)。11月 君塚、中村、大多喜警察署に拘引、12月釈放(自由・朝野)。

1885(明治18)年
3月 夷隅事件公判始まる、弁護人は大井憲太郎、板倉中等(自由灯)。11月 井上幹らの出獄を東京市ヶ谷で出迎える(めざまし)。

1887(明治20)年
* 中村孝、自宅に丁亥義塾を開設(憲政功労者銘記)。6月 めざまし新聞の再建に取り組む(君塚書簡)。7月 大阪事件の救援活動(君塚書簡)。10月 浅草鴎遊館の大同団結連合懇親会に出席(めざまし)。12月 君塚省三と高野麟三は、3郡96カ村528人の総代として三大事件建白書を県庁へ出願(めざまし)。保安条例により首都退去(2年半)(公文雑纂所載名簿)。

1888(明治21)年
10月 千葉町の関東八州大懇親会に参加(東海新報)。

1889(明治22)年
6月 総野村初代村長(憲政功労者銘記)。*7月 中村孝、豊浜村初代村長(夷隅郡誌)。

1893(明治24)年
以文会第2次会長(憲政功労者銘記)。

1892(明治25)年
4月 県会議長に選出(議員名鑑)。

1893(明治26)年
12月 総武鉄道取締役に就任(憲政功労者銘記)。

1894(明治27年
9月 第4回衆議院総選挙に当選〜1897(明治30)年12月まで(夷隅郡誌)。

1898(明治31)年
5月 千葉地方森林会議員になる(議員名鑑)。

1899(明治32)年
千葉遠洋漁業会社重役に就任(議員名鑑)。

1901(明治34)年
11月 日本赤十字社千葉支部商議員(憲政功労者銘記)。

1906(明治39)年
5月 死去、満50才(憲政功労者銘記)。墓地は勝浦市芳賀の妙満寺にある。

1911(明治44)年
2月 *中村孝病没、満52才(憲政功労者銘記)。


君塚省三墓碑(写真中央)
the grave of KIMIZUKA SEIZOU





勝浦市妙満寺
myoumanji temple in katuura city












人物 memo
板垣退助 ITAGAKI TAISUKE 1837(天保8)年〜1919(大正8)年 旧姓は乾(いぬい)、名は正形で、退助は通称。1861(文久1)年江戸藩邸詰となり、ついで山内容堂の側用役などをつとめた。戊辰戦争に東山道先鋒総督府参謀として従軍し、会津攻略を指揮した。
維新後は藩の大参事を経て、1871(明治4)年新政府の参議に就任。1873(明治6)年10月征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、西郷隆盛らとともに辞職。翌年1月、ともに下野した江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らと民撰議院設立建白書を政府に提出し、自由民権運動の契機をつくった。
1874(明治7)年4月帰郷して立志社を結成。1878(明治11)年9月愛国社を再興し、国会開設を求める運動を推進した。1881(明治14)年10月自由党の結成にあたって総理に推され、翌年4月遊説途中の岐阜で刺客に襲われ負傷した。〈板垣死すとも自由は死せず〉のエピソードは、彼の経歴の象徴である。
1882(明治15)年11月一部党員の反対をおしきってヨーロッパ諸国を外遊した。翌1883(明治16)年6月帰国するや自由党の解党を提起した。党員の反対によって一時保留したが、党財政の窮乏化と下部党員の急進化がすすみ、1884(明治17)年10月党幹部は解党を決定した。
1887(明治20)年伯爵となる。1890(明治23)年立憲自由党に参加し、翌年一時離党したが復党して、党名を自由党と改称した際、再び総理となった。1895(明治28)年自由党は第2次伊藤博文内閣と提携し、翌年同内閣の内務大臣にむかえられた。1898(明治31)年6月自由・進歩両党の合同により憲政党が結成され、第1次大隈重信内閣が成立すると、内務大臣として入閣した(隈板内閣)。しかし党内対立のため内閣はわずか4ヵ月で総辞職。
1900(明治33)年憲政党の解党、立憲政友会の結成を契機として政界を引退し、以後社会事業にとり組んだ。彼の監修による『自由党史』(1910年)は、貴重な史料の引用とともに明治前半期についての優れた史論として評価されている。
参考資料『世界大百科事典』CD-ROM(日立デジタル平凡社)





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