香取地域 商人自由党員 石田直吉 温知社・海匝の民権家たち |
NAOKICHI ISHIDA |
房総自由民権資料館
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contents 》
(1)石田直吉のプロフィール
(2)石田家所蔵の「自由党員名簿」
(3)高野麟三(準備中)
(4)人物 memo・植木枝盛
(5)服部治左衛門
(6)高野隆(準備中)
(7)千本松吉兵衛のプロフィール
千葉県香取市
★香取郡の民権家たちは、1880(明治13)年12月、民権結社の温知社を結成した。温知社の社員は140名程であった。1882(明治15)年3月には、自由党下総地方部が結成された。責任者の「部理」は飯田喜太郎で、石田直吉は「常議員」であった。(香取歴教協編『香取民衆史1』1976年)
★石田直吉ら香取地域の主だった民権家が、自由党に入党したのは1882(明治15)年の9月のことである。翌年の1883(明治16)年10月に香取地域の自由党員たち(飯田喜太郎、山来健、高野麟三等)は、自由党の理論家であった植木枝盛を招いて懇親会と演説会を開催した。懇親会の会場は石田直吉の経営する石田楼であった。政談演説会は法界寺で実施された。(『植木枝盛日記』岩波書店刊)
★石田直吉は、当時東京の板橋区に住んでいた植木枝盛を二度訪問している。1884(明治17)年の3月8日、『植木枝盛日記』には「石田直吉来る」と書かれている。2日後の3月10日にも「石田直吉外2名来訪」と記されている。3月13日に東京浅草井生村(いぶむら)楼で春期大会が開催されることになっていたから、そのための打ち合わせで訪問したのであろう。
★1884(明治17)年の5月、石田直吉は長生郡の齊藤和助(自治夫)に書簡を送っている。同年秋に大阪で予定されていた自由党大会の千葉県代表をどのように選出するかといったことや、大会派遣費用の分担方法について協議する書簡であった。(佐久間耕治著『房総の自由民権』崙書房1992年)
★旅館の石田楼は現在は残っていない。石田直吉の墓石は佐原市街の西のはずれにある。即翁禅寺の山門を入り、石段を登って行くと、裏山の中腹に石田家墓地がある。ここからは佐原市街や利根川を眺望することができる。石田直吉は1917(大正6)年5月に他界し、墓石には行年71才と刻まれている。
★千葉県佐原市に残っている1884(明治17)年の「自由党員名簿」を見ると、千葉県下に118名の自由党員の存在が認められる。この数は全国では6番目に位置し、埼玉県の121名,長野県の141名という数に近い数字となっている。自由党員は秋田県が426名でもっとも多く、次いで栃木県の283名、3番目が神奈川県の246名である。福島県は20名、高知県は5名と意外に少ない数字である。
★国会開設の請願署名者の数は、千葉県では32,015人であり、高知県の48,392に次いで全国第2位の数字である。民権結社の数では高知県が圧倒的に多く、127社を数える。次いで茨城県が99社、神奈川県が97社である。千葉県は57社で全国7番目に位置する。
★党員数は全国で6番目、署名数は全国で2番目、結社数は全国7番目というのが房総の自由民権運動の数字上の位置である。この数字は、房総の民権運動が決して低調ではなかったことを示している。署名の数字や、結社の数字は、今後調査研究が進むと更に増えると思われるのである。
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●離別状を反古に丸めて新酒かな
サリジョウヲ ホゴニマルメテ シンシュカナ
★1896年12月から『俳諧評論』という月刊誌を嚶鳴村(現旭市)で発行した。後に上京して俳人としての自立を目指した。月刊の俳句雑誌を発行するのは、財力の面でも労力の面でも大変であったと思う。『俳諧評論』(39号~52号)は国会図書館に架蔵されている。1903(明治36)年12月発行の第39号には次のような奇抜な一句が掲載されている。
●かへる日や貧乏神はまっ平だ
カエルヒヤ ビンボウガミワ マッピラダ
★服部耕雨は1851(嘉永4)年7月に海上郡琴田村(現旭市)で生まれ、1917(大正6)年2月に65才で他界した。旭市琴田の海宝寺の近くに墓碑がある。
★『明治俳人名鑑』には次のような斬新な句も記載されている。
●我は住め芭蕉ありゃこそ破れ窓
ワレワスメ バショウアリャコソ ヤブレマド
●秋の川徒歩越え行けば鯔躍る
アキノカワ カチコエユケバ ボラオドル
● 露霜や浦の破船の大錨 (48号)
ツユシモヤ ウラノハセンノ オオイカリ
● 碁敵を訪ふはよせとや霰降る (48号)
ゴガタキヲ トウワヨセトヤ アラレフル
● 除夜の燈の焰に燃えん天の川 (49号)
ジョヤノヒノ ホノオニモエン アマノガワ
● 山海嘯ありしさわきや雪解時 (49号)
ヤマツナミ アリシサワギヤ ユキゲドキ
● 煖石の冷えゆく利根の夜舟哉 (49号)
ダンジャクノ ヒエユクトネノ ヨブネカナ
★海宝寺(旭市)山門には耕雨父子の俳句が刻まれた巨石が残っている。
●穐の声銀河や墜ちて砕け舞 耕雨
アキノコエ ギンガヤオチテ クダケマウ
●甘藷の花秋の暑さを集免多利 耕石
イモノハナ アキノアツサヲ アツメタリ
★秩父事件に参加した千葉県出身者は3名いる。千本松吉兵衛(海上郡出身)、染谷愛助(東葛飾郡出身)、松本光政(望陀郡出身)の3名である。海上郡西足洗村(現旭市)出身の千本松吉兵衛について紹介してみよう。
★故井上幸治著『秩父事件』(中公新書・1968)は名著である。同書は千本松吉兵衛について詳述している。蜂起した農民から「東京ノ先生」と呼ばれていた千本松吉兵衛は、最後まで闘い抜き、長野県八ヶ岳山麓の東馬流(まながし)まで転戦した。
★私は、1984(昭和59)年早稲田大学構内において開催された「第2回自由民権全国集会」の分科会で、故井上幸治氏に質問したことがある。「最後まで闘い続けた屈強の農民たちが、東京の先生(実は千葉県海上郡出身の千本松吉兵衛)を抜刀隊長として仰いだのは何故か?」という質問であった。井上先生は疲れていたためか、あまり明快な回答はなかった。
★1993(平成5)年、夷隅郡大原町の文化センターで「第7回房総の自由民権資料展」を開催したときに、秩父事件の峠を歩き続けている知人が、千本松吉兵衛の御子孫を案内して会場を訪れた。そのとき吉兵衛の位牌や千本松家の墓碑の写真を持参して戴いた。御子孫の方は老齢の婦人で、千本松の姓ではなかったがかくしゃくとしておられ、御令弟は元千葉日報編集長であるということを資料展の会場で伺うことができた。
★群馬県側の在地オルグの一人、新井寅吉の尋問調書によると、吉兵衛は「顔細長ク、色白キ方ニテ、髭モ少シアリ、人品ヨキ」というような風貌の男であったという。吉兵衛は秩父困民党の参謀長であった菊池寛平の書記も務めていた。
★1884(明治17)年の10月31日から10日間にわたる秩父困民党蜂起は、かつては自由民権運動の「最高の段階」と評価されてきた。最近は幕末以来の「民衆闘争との類似性」が強調されている。「民権運動」か?「民衆運動」か?しかし秩父事件が近代日本最大の「民衆蜂起」であるとする評価は今も動かないのではないか、と私自身は考えている。
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