民権ブログ集成
《 千 挫 不 撓 》



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《2012年》


☆謹賀新年。昨年は千年に一度の大震災の渦中で、独吟連句(俳詩)を詠み継ぎました。初折(ショオリ)18句までは詠み終えました。

☆新年は気持を新たにして、名残(ナゴリ)の表(オモテ)に入ります。

◇(折立)一反にゲゲゲの女房跳び乗らん      凡一
     イッタンニ ゲゲゲノニョウボウ トビノラン

☆『冬の日』の第一歌仙の本句は、以下の通りです。門人の重五(ジュウゴ)は、名古屋の富裕な材木商人でした。

◎(折立)のり物に簾透顔おぼろなる        重五
     ノリモノニ スダレスクカオ オボロナル      
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年10頁)

☆25年前の「非核銚子歌仙」では、折立(オリタテ)を次のように詠みました。

◆(折立)ビキニ遠く鮪に鰯コンサート       凡一
     ビキニトオク マグロニイワシ コンサート
(『つくる・つなぐ・ひらく』汐文社1987年164頁)

☆校舎跡地活用事業(地域の活性化・公募)に愚生のプランが受理され、今まで調査研究をして来た幕末・明治期を中心の文書と刊行物(約1万点)を収蔵・展示する地域近代資料館が誕生することになりました。

☆想定外の余生を迎えることになります。余生?それとも余勢? 本年も御教導と御愛読を宜しくお願い申し上げます。

(2012/01/01)


☆独吟歌仙(俳詩)「3・11」は、名残(ナゴリ)の表(オモテ)の二句目です。

◇(折立) 一反にゲゲゲの女房跳び乗らん      
◇(二句目)今は津波の襲い来る世ぞ         凡一
      イマワツナミノ オソイクルヨゾ

☆『冬の日』の第一歌仙の本句は、下記の通りです。名古屋の鬼才の荷兮(カケイ)は、後年、蕉翁から離反します。(両雄並び立たずか?)

◎(折立) のり物に簾透顔おぼろなる        重五
◎(二句目)いまぞ恨の矢をはなつ声         荷兮
      イマゾウラミノ ヤヲハナツコエ
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年10頁)

☆愚生は「非核銚子歌仙」において、二句目を次のように付けました。

◆(折立) ビキニ遠く鮪に鰯コンサート
◆(二句目)空手の演武は刃の如く          凡一
      カラテノエンブワ ヤイバノゴトク
(『つくる・つなぐ・ひらく』汐文社1987年165頁)

☆『芭蕉七部集』から、武具(矢・刀・弓・刃)を詠み込んだ付句を、幾つか列挙しましょう。

◎血刀かくす月の暗きに               荷兮
 チガタナカクス ツキノクラキニ
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年18頁)

☆荷兮の、現代人にはかなり暗い印象の(オドロオドロシイ?)短句です。最期まで蕉翁の忠実な門人であった去来(キョライ)は、もっと率直で明朗ですね。

◎何事ぞ花みる人の長刀               去来
 ナニゴトゾ ハナミルヒトノ ナガガタナ
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年47頁)

◎秋風やしらきの弓に弦はらん            去来
 アキカゼヤ シラキノユミニ ツルハラン
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年78頁)

◎いまや別れの刀さし出す              去来
 イマヤワカレノ カタナサシダス
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年213頁)

◎ただとひやうしに長き脇差             去来
 タダトッピョウシニ ナガキワキザシ
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年215頁)

☆「しらき(白木)の弓」を詠んだ去来の長句を、凡一居士は長年愛唱して来ました。

☆先師蕉翁にも武具(脇差・旅刀)を詠み込んだ長句はあります。徳川幕府の道中統制策をやんわりと風刺した秀句と言えるでしょう。

◎脇指に替てほしがる旅刀              芭蕉
 ワキザシニ カエテホシガル タビガタナ
『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年299頁

☆1683(天和3)年2月、それ以前まで許されていた旅行中の刀の使用が、徳川幕府によって全面的に禁止されました。(新日本古典文学大系『芭蕉七部集』岩波書店458頁)

☆本日、次のような記事を読みました。『日本経済新聞』のコラム「風見鶏」は、「自由民権の故郷 福島よ再び」という論題でした。

◎ようやく発足する復興庁の本部は東京となり、被災地に置くよう求めた地元の願いは無視された。除染や農工業の再構築、一瞬の無駄も許されないのに。(中略)民間の最先端の知や人材を全国、いや世界から福島に集め、平成の万機公論の場を作るしかない。それこそが自由民権運動など時代を開いた先人に報いる道だろう。
(日経2012年1月8日朝刊・抜粋)

☆コラム「風見鶏」には、福島県田村郡三春町(ミハルマチ)の或る寺院の檀家において、3カ月で6人もの自殺者があった悲惨な実態が報道されています。

☆今週は、歯肉炎で歯茎から出血し、かかりつけの歯科医に駆け込みました。処置をしていただき、止血剤と化膿止めの薬を飲んでいます。身体の老化現象でしょうか・・・。

(2012/01/08)


☆今週は名残(ナゴリ)の表(オモテ)の三句目です。

◇(二句目)今は津波の襲い来る世ぞ
◇(三句目)白浜に里見の船の彷徨いて         凡一
      シラハマニ サトミノフネノ サマヨイテ

☆「白浜」は「安房白浜」です。『冬の日』の本句は下記の通りです。

◎(二句目)いまぞ恨の矢をはなつ声         荷兮
◎(三句目)ぬす人の記念の松の吹きおれて      芭蕉
      ヌスビトノ カタミノマツノ フキオレテ
(『ワイド版岩波文庫・芭蕉七部集』1991年10頁)

☆前掲書の注記に拠れば、蕉翁の付句は大盗賊の史跡を詠み込み、荒涼とした風景が眼前に浮かびます。荷兮の短句と蕉翁の長句の間に、緊迫感が漂いますね。

☆「非核銚子歌仙」では、三句目を次のように付けました。

◆(二句目)空手の演武は刃の如く
◆(三句目)若人が万歳クリフ藍の海         凡一
      ワコウドガ バンザイクリフ アイノウミ
(『つくる・つなぐ・ひらく』汐文社1987年166頁)

☆ Banzai Cliff (マッピ岬)は、サイパン島最北端の岬です。南洋諸島やリトルボーイ・ファットマンを搭載した爆撃機の発進基地の「戦地」を、実際に訪問した友人にスライドで説明して戴いたことがあります。25年以上も前に・・・。

(2012/01/15)


☆大寒の日は、房総半島でも凍えるような冷雨です。独吟歌仙(俳詩)「3・11」は、名残(ナゴリ)の表(オモテ)の四句目です。連歌師の宗祇(ソウギ)より遡って、万葉歌人の山上憶良(ヤマノウエノオクラ)に登場してもらいました。「貧窮」は「ビング」と読みました。

◇(三句目)白浜に里見の船の彷徨いて         
◇(四句目)しかし憶良の嘆きし貧窮       凡一
      シカシオクラノ ナゲキシビング

☆『冬の日』の本句は、杜国(トコク)の「しばし宗祇の名を付し水」です。宗祇には「世にふるも更に時雨の宿りかな」の名句があり、蕉翁は「世にふるも更に宗祇のやどり哉」というパロディー句(略してパロ句)を詠んでいます。

☆「非核銚子歌仙」では、四句目を次のように付けました。この句の「戦地」はサイパンとテニヤンです。

◆(三句目)若人が万歳クリフ藍の海
◆(四句目)ピースボートに戦地の旅愁      凡一
      ピースボートニ センチノリョシュウ        
(『つくる・つなぐ・ひらく』汐文社1987年167頁)

☆今週は次のようなネットニュースを読みました。薪ストーブ灰から放射性物質です。

◎福島県二本松市で、住宅の庭で保管されていた薪をストーブで燃やしたところ、灰から1キロ当たり4万ベクレルを超える放射性セシウムが検出された。・・・今回の薪は、いずれも住民が近くの山から採ってきて震災前から庭で保管していたもので、原発事故によって放射性物質が付着した。
(NHK2012年1月19日17時・抜粋)

☆エコロジー派の心痛が続きますね。

(2012/01/22)


☆異常な寒波襲来のため、縮こまって暮らしています。特に明け方、肩の当たりが冷え込みます。昨日は立春でした。凍えながらも、独吟歌仙(俳詩)「3・11」を詠み継ぎます。
        
◇(四句目)しかし憶良の嘆きし貧窮       
◇(五句目)蓑かけて無理にも詠める子規      凡一
      ミノカケテ ムリニモヨメル ホトトギス

☆愚句の「子規(ホトトギス)」は、正岡子規を思い浮かべています。明治の青春を描いた『坂の上の雲』にも登場しました。

☆『冬の日』の本句は、荷兮(カケイ)の名吟「笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨」です。非核銚子歌仙では、凡一居士は五句目を、「初時雨‘ 歴史 ’のポスター貼り歩く」と詠みました。

☆本日、象の「はな子」サンに関して、次のようなニュースが報道されました。

◎国内飼育最高齢記録65歳に並んだ、アジア象の「はな子」の誕生会が武蔵野市の井の頭自然文化園で行われた。「はな子」には「65」を焼き入れた65個の特製パンをプレゼント。1949年9月、戦後初めてタイからやってきた雌象で、戦争中に餓死させられた上野動物園の「花子」の名を受け継いだ。
(スポーツ報知2012年2月5日13時6分・抜粋)

☆凡一居士より、3歳年上の雌象です。人に歴史があり、象にもまた歴史があります。Happy Birthday Hanako. Have a nice weekend.

(2012/02/05)


☆寒気の中、拙宅の白梅が開花しました。一週に一句ずつ、独吟歌仙(俳詩)「3・11」を詠み継いで来ました。このペースでは、大震災一周忌に「挙句(アゲク)」まで詠み終える事ができないようです。今回は7句一気に進めました。

◇(六句目)分け入りて尚一人青山     凡一
      ワケイリテナオ ヒトリセイザン
◆(非核銚子)病の息子抱いて闘い
       ヤマイノムスコ ダイテタタカイ

◇(七句目)粉々に砕けしは戦後思想家か
      コナゴナニ クダケシワセンゴ シソウカカ
◆(非核銚子)酔いどれはポンタ反核酒場にて
       ヨイドレワ ポンタハンカク サカバニテ

☆『冬の日』の第一歌仙七句目の本句は、杜国(トコク)の「しらじらと碎けしは人の骨か何(シラジラト クダケシワヒトノ ホネカナニ)」です。蕉翁の発句ではありませんが、『芭蕉七部集』では指折りの秀吟と言えるでしょう。

◇(八句目)蓮は泥田の国の眼目
      ハスワドロタノ クニノガンモク
◆(非核銚子)天保水滸義侠の一節
       テンポウスイコ ギキョウノヒトフシ

◇(九句目)戯れの謎解きもせぬ信天翁
      タワムレノ ナゾトキモセヌ アホウドリ
◆(非核銚子)反トマのキャラバン過ぎし醤油町
       ハントマノ キャラバンスギシ ショウユマチ

◇(十句目)樽詰一斗語り継ぐ冬
      タルズメイット カタリツグフユ
◆(非核銚子)二十歳の夢飛び散らず候
       ハタチノユメトビ チラズソウロウ

◇(十一句目)福島の原発浜に月冴えて
       フクシマノ ゲンパツハマニ ツキサエテ   
◆(非核銚子)被爆者の深き皺見ゆノーモアの月
       ヒバクシャノ フカキシワミユ ノーモアノツキ

◇(十二句目)膚に経書く琵琶弾きの杖
       ハダニキョウカク ビワヒキノツエ
◆(非核銚子)三十九年の恨みを放ち
       サンジュウクネンノ ウラミヲハナチ

☆十一句目は月の定座(ジョウザ)です。名月ではなく、前句を受けて寒月を詠み込みました。「非核銚子」では8月の夏の月でしたが・・・。

☆今週は次のような痛々しい記事を読みました。3・11大震災の傷痕の深さを再認識し、犠牲者の御冥福を心よりお祈りします。

◎東日本大震災の発生から11日で11カ月となるのを前に、宮城県警は石巻市の北上川河口部で重点捜索を実施した。現場は全校児童の7割が津波の犠牲になった大川小から約4キロの距離。北上川右岸の尾崎地区では骨が4本見つかり、県警は人骨かどうか今後鑑定する。周辺では大川小児童4人と教員1人を含む計約140人が行方不明。
(河北新報2012年2月11日6時10分・抜粋)

☆もうすぐ一周忌がやって来ます。残る所は、「名残の裏」六句です。 See you again. Have a nice weekend.

(2012/02/12)


☆寒中、世界恐慌とニューディールの資料を読み返していましたら、ローズヴェルト大統領の1933年の3R政策に再会しました。

☆下記の3項目です。

◎Relief(救済)・・・緊急銀行救済法、緊急(貧民)救済法。
◎Recovery(回復)・・・農業調整法(農産物の買い上げ)、全国産業復興法(労働条件改善と産業統制)。
◎Reformation(改革)・・・TVA( Tennessee Valley Authority )

☆現ニホン政権の消費税アップ「一体改革」( social security and tax reform )は、雇用問題と電力問題の解決につながるのかどうか・・・。

☆今週は次のような記事を読みました。

松戸市が小中学校に勤務している臨時学校事務職員64人に伝えた「解雇通告」が波紋。市は4月から設置する「スクールアシスタント」での再雇用案を示したが、賃金は大幅ダウン。年収に換算して約110万円、現行の約160万円に比べ3分の1カット。勤務時間は7時間半から5時間45分に短縮で、非常勤職員。
(千葉日報

☆独吟歌仙(俳詩)「3・11」は、ようやく名残の裏に到着しました。今週は連続二句、二つの「地域」を詠み込みます。

◇(一句目)馬の柵嶺岡牧の夕焼けに
      ウマノサク ミネオカマキノ ユウヤケニ
◆(非核銚子)母思う子供ら生きよゲン生きよ
       ハハオモウ コドモライキヨ ゲンイキヨ

◇(二句目)身に吉里吉里の尾根の頂
      ミニキリキリノ オネノイタダキ
◆(非核銚子)シェルター嘆く初老の外科医
       シェルターナゲク ショロウノゲカイ

☆「ゲン」は、中沢啓治氏の『はだしのゲン』でした。故井上ひさし氏のユニークな大著『吉里吉里人』には、サクマ姓なる姉弟が登場して大変印象的です。

☆今春初めて「蕗の薹」を採取し、味噌汁の具にして家族で食しました。高浜虚子に下記の秀句があります。

◎夙くくれし志やな蕗の薹     虚子
 ト(疾?)ククレシ ココロザシヤナ フキノトウ

☆若い頃『層雲』の自由律俳句に影響を受けた愚生は、下記のような新句を詠みました。「蕗の薹」には整腸の効能があると言われています。

◇老骨ゲップに蕗の薹の香る    凡一
 ロウコツ ゲップニフキノトウ ノカオル

☆俳諧連歌抄の『新撰犬筑波集(シンセンイヌツクバシュウ)』には、次の二句(後句・前句)が載録されています。室町時代に、「蕗の薹」がニホン人の春の食用野草であったことを証明する俳諧連歌ですね。

◎苦々しくも尊かりけり
 ニガニガシクモ トウ(薹?)トカリケリ
◎みな人の参るやふきのたう供養
 ミナ(皆)ヒトノ マイルヤフキ(蕗)ノ トウ(薹=塔?)クヨウ

☆三寒四温、来週は少し暖かくなるでしょう。

(2012/02/19)


☆独吟歌仙(俳詩)「3・11」は、今週も連続二句を詠みました。

◇(三句目)夢の夢子々孫々も祈るべく
      ユメノユメ シシソンソンモ イノルベク
◆(非核銚子)空襲の銚子哀しや浜の俳諧
       クウシュウノ チョウシカナシヤ ハマノハイカイ

◇(四句目)今日は孤老の雪かきを見て
      キョウワコロウノ ユキカキヲミテ
◆(非核銚子)映画館からザ・デイ・アフター
       エイガカンカラ ザデイアフター

☆市内の書店の店頭で購入した青木美智男『小林一茶』(山川出版2012年)を一読しました。参考文献に挙げられている田辺聖子『ひねくれ一茶』(講談社1992年)程のインパクトはありませんが、次の引用句(『一茶全集』信濃毎日新聞社)が近世史研究の碩学らしいと思いました。

◎田の雁や村の人数はけふもへる      一茶
 タノガンヤ ムラノニンズワ キョウモヘル
(前掲書27頁)
◎雪ちるや七十顔の夜そば売        一茶
 ユキチルヤ シチジュウガオノ ヨソバウリ
(前掲書65頁)
◎世が直るなをるとでかい蛍かな      一茶
 ヨガナオル ナオルトデカイ ホタルカナ
(前掲書74頁)

☆凡一居士も還暦を過ぎて、通院や検査の回数が増えました。体力の衰えには逆らいようがないようです。来週はもう3月です。

(2012/02/26)


☆今週は再度、俳諧連歌『犬筑波集』に挑みます。「下の句(シモノク)」(七・七)に、「上の句(カミノク)」(五・七・五)を付ける方が俳諧らしくて楽しいですね。

●きりたくもあり切りたくもなし(七・七)

◎盗人をとらへて見れば我が子なり
 ヌスビトヲ トラエテミレバ ワガコナリ(五・七・五)
◎さやかなる月を隠せる花の枝
 サヤカナル ツキヲカクセル ハナノエダ(五・七・五)
◎心よき的矢の少し長きをば
 ココロヨキ マトヤノスコシ ナガキヲバ(五・七・五)
(山崎宗鑑編『犬筑波集』)

☆一句目の、「我が子」は切れないでしょうね。二句目の「さやかなる月」の季節は秋で、「花の枝」は春ではないでしょう。三句目の「的矢」は、的を射るための矢のことですね。

☆当世風に詠み変えて、次のようなパロディー俳句(略してパロ句)を作りました。御笑覧をお願い申し上げます。

◆きりたくもあり切りたくもなし

◇寒去れば小沢に稚鮎群れるなり
 カンサレバ オザワニチアユ ムレルナリ
◇雪散るや一路に掛かる松の枝
 ユキチルヤ イチロニカカル マツノエダ
◇田中なる槙に婿殿居直れば
 タナカナル マキニムコドノ イナオレバ

☆自注を少し記します。一句目の「寒」は、前総理の「カン」某氏。「稚鮎」は一回生議員のパロディーで、「オザワ」某氏は言わずもがな。 

☆二句目の「雪」は元総理の「ユキ」、「一路」は元幹事長の「イチロー」で、「松」は脱党した「マツキ」某氏。 

☆三句目の田中の「槙」は「マキ」で元外相、「直」は「ナオ」で現防相。 凡一居士編『ドジョウ?筑波集』とでも名付けましょうか?

☆昨夏の8月以来、延々と詠み続けてまいりました。独吟歌仙(俳詩)「3・11」は、名残の裏五句目で「花」の定座(ジョウザ)です。

◇(五句目)渓流へ奥入瀬川も花開き        凡一
      ケイリュウヘ オイラセガワモ ハナヒラキ

◆(非核銚子)街めぐる心に紅い薔薇を挿し
       マチメグル ココロニアカイ バラヲサシ

☆本日、次のような記事を拝読致しました。

◎東日本大震災から1年になるのを前に、児童と教職員計84人が死亡・不明となった石巻市立大川小学校の一周忌法要が4日、市内のホールで営まれた。無事だった大川小の児童も含め計約500人が出席。2児を亡くした遺族会会長は「寄り添い助け合い、懸命に生きていこうではありませんか」と呼び掛けた。
(福島民報2012年3月4日17時・抜粋)

☆来週の日曜日は3月11日で、ようやく歌仙一巻の挙句(アゲク)です。三十六句を無事に詠み終えることができましたら、次は「民権」術語考を連載の予定です。

(2012/03/04)


☆挙句(揚句)を三句列記します。まずは『冬の日』第一歌仙からの引用です。季節は春、安心・平和な情趣を表出した佳い短句です。俳人の重五(ジュウゴ)は名古屋の材木商でした。

(挙句)廊下は藤のかげつたふ也    重五
 ロウカワフジノ カゲツタウナリ

☆句意は、藤の花ぶさの影が長く伸びて、穏やかに廊下に映っているというものです。

☆25年前の「非核銚子歌仙」において、凡一居士(ボンイツコジ)は挙句を下記のように詠みました。骨董に詳しい友人御一家の影響を受けたようです。

(挙句)骨董の塵非核元年       凡一
 コットウノチリ ヒカクガンネン

☆東日本大震災一周忌を迎え、独吟歌仙(俳詩)「3・11大震災」の挙句は、パロディー短句ながら定石通り静かに着地するよう心がけました。

(挙句)燈下は海の凪謡う也      凡一
 トウカワウミノ ナギウタウナリ

☆房総半島の燈台の灯りを思い浮かべて戴けますように。銚子市犬吠埼、いすみ市太東埼、南房総市野島崎、館山市洲崎。穏やかな朝凪(アサナギ)・・・。

☆大震災で御逝去された皆様の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

☆そして今週も、10年以上続く次の記事を読むことになりました。ニホンの戦後「復興」における「人権」尊重の底の浅さが、延々と露呈し続けるかのようです。

◎全国の自殺者が14年連続で3万人を超えた。「学生・生徒」が1978年以降初めて1000人を超えた。「この先に良い人生が待っていると思えない」。東京都港区の住職は「苦しんで自分らしい生き方を見つける場がもっと」と話す。
(読売2012年3月9日14時・抜粋)

☆大震災の犠牲者数よりも、年間自殺者数が多いこのニホン。(要医療・要介護の?)私達の世代は、この惨酷社会(=絶望国家)の現実に耐えられるでしょうか。

☆福島原発汚染は原因だったか、それとも結果だったか? 跋(バツ)の長句は、愚生の英文俳句です。

◇We should survive
 Every summer, young leaves put forth
 Even when crying

(2012/03/11)


※独吟歌仙(俳詩)「3・11大震災」
☆序
大津波と原発汚染に恐れおののき詠む、序の愚句。
◇浪の江にこおる涙や水ひつぎ     凡一
☆初折の表
(発句)パロ句秋風の身は蕉翁ににたる哉
(脇 )黄昏れにちる肩のコスモス
(第三)十六夜のどんどと酒屋はしごして
(四句目)カシラを赤く唐辛子ふる
(五句目)韓流のラブコメずきの笑いなき
(折端)人散り散りに霜夜にいかる
☆初折の裏
(折立)わが家は牛に軒かす村時雨
(二句目)髪そめる間をなでしこの恋
(三句目)指先のいとしとフラを踊りいで
(四句目)波を墓標にタンポポもさく    
(五句目)春光の終日寒く故紙をたき    
(六句目)姑は独りたえし古民家
(七句目)棚田なる古代は早苗くれる頃
(八句目)義理に異をたて駿馬か駄馬か
(九句目)東を夏至にながめる月近し
(十句目)スカイツリーは六三四の夕立
(十一句目)先帝に吉野の花の便りきく
(折端)蝶はつるぎに双びおびえる
☆名残の表
(折立)一反をゲゲゲの女房跳びのらん
(二句目)今は津波の襲いくる世ぞ
(三句目)白浜に里見の船のさまよいて
(四句目)しかし憶良のなげきし貧窮
(五句目)蓑かけて無理にもよめるホトトギス
(六句目)わけ入りてなお一人青山        
(七句目)粉々にくだけしは戦後思想家か
(八句目)ハスは泥田の国の眼目
(九句目)戯れの謎ときもせぬアホウドリ
(十句目)樽詰一斗語りつぐ冬
(十一句目)フクシマの原発浜に月さえて
(折端)膚に経かく琵琶ひきの杖
☆名残の裏
(一句目)馬のさく嶺岡牧の夕焼に
(二句目)身にきりきりの尾根のいただき
(三句目)夢の夢子々孫々もいのるべく
(四句目)今日は孤老の雪かきをみて
(五句目)渓流へ奥入瀬川も花ひらき
(挙句)燈下は海の凪うたうなり
☆跋
いかなる宇宙空間の、いかなる時代に遭遇しているのか。パロディー俳句(略してパロ句)三十六句を詠み終えて締めくくる、跋の英文俳句。
◇We should survive
 Every summer, young leaves put forth
 Even when crying
(大津波、原発被災一周忌に擱筆)


☆愚詠、当館において。
◇撫子の二鉢ありて白と紅    凡一
 ナデシコノ フタハチアリテ シロトベニ
◇馬鈴薯も紫時に咲きにけり   同 
 ジャガイモモ ムラサキトキニ サキニケリ

☆北総の巨大バラ園で、愚妻と。
◇魂は今日の日射しに薔薇の空  凡一
 タマシイワ キョウノヒザシニ バラノソラ
(2012年5月)


☆愚息と共に菜園で作業。
◇大豆苗掘るや軍手の破れ穴   凡一 
 ダイズナエ ホルヤグンテノ ヤブレアナ
◇麦を刈る鎌掌に傷一つ     同
 ムギヲカル カマテノヒラニ キズヒトツ

☆親父ギャグ。一億総菜園亭主人論。サイエンティスト=菜園亭主人=scientist=自然科学者。
◇新ジャガ我総菜園亭主人論   凡一 
 シンジャガ ワレソウサイエン ティストロン

☆雑草の中に、鍬を持つ。
◇入梅葱の強さに打たれけり   凡一
 ニュウバイ ネギノツヨサニ ウタレケリ

☆中江兆民[1847-1901]の著書『一年有半』(1901/9/3)、『続一年有半』(1901/10/15)と、正岡子規[1867-1902]の日録『仰臥漫録(ギョウガマンロク)』、随筆『病牀六尺(ビョウショウロクシャク)』を同時に再読。

☆共通するのは「余命」ということ。子規の句が痛々しい。
◇秋の蝿叩き殺せと命じけり   子規(1901年9月17日)
 アキノハエ タタキコロセト メイジケリ
(『仰臥漫録』角川文庫49頁)
◇筆も墨も溲瓶も内に秋の蚊帳  同(同年9月24日)
 フデモスミモ シビンモウチニ アキノカヤ
(同書75頁)

☆子規には、民権青年であった頃の演説草稿が残っている。「自由何クニカアル」「天将ニ黒塊(コッカイ)ヲ現ハサントス」(『子規全集』講談社、第九巻112頁~121頁)

☆子規には、板垣退助を批判した新体詩「板伯入閣」(1897年)もある。一部分のみ紹介。
◇自由よ。汝はもろともに
 轗軻不遇のはた年を
 過ごせし友を失ひき。
 (後略)
(『子規全集第八巻』講談社458頁~459頁)

☆「轗軻不遇(カンカフグウ)」は志を得ないさま、「はた年」は20年、「友」は第2次伊藤博文内閣に入閣した内務大臣の板垣退助。

☆大江健三郎氏は、晩年の兆民と子規を比較して解説を書いている。
◇兆民は死を前にして、根源的なところでデモクラティックでない。世界、死生について・・・デモクラティックであるのは子規だ。
(『子規全集第十一巻』講談社602頁)

☆大江氏は、「デモクラティック」を次のような文脈で使ったようだ。
◇子規はすべての他者の前に立つ。・・・他者に、かれ自身の綜合的な全体像をあきらかに示す。
(『子規全集第十一巻』講談社601頁)
◇自分の主体がかれ自身の精神と肉体をもふくめて、あらゆることどもを相対化する。
(同書603頁)

☆司馬遼太郎も、正岡子規に対して大変好意的である。
◇中学四年生のころは子規は当時はやりの自由民権運動の演説に熱中していた。・・・要するにおもしろいからやっているのではなく、おもしろいかどうかを考えもとめているのだ、と子規はいう。
(『坂の上の雲一』文春文庫107頁)

☆愚生は、かつて『坂の上の雲』全巻を、闘病中に病床で読んだ。

☆子規より20歳程年上の兆民(満53歳)は、『一年有半』(原著及び全集を当館所蔵)で遺言のように書いた。
◇民権これ至理なり、自由平等これ大義なり。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫56頁)
◇百の帝国主義ありといへどもこの理義を滅没することは終に得べからず。
(同書56頁)

☆20歳年下の子規は、次のように書いた。( )と句読点は筆者。
◇居士(兆民)は咽喉に穴一ツあき候由、われら(子規)は腹背中臀ともいわず蜂の巣の如く穴あき申し候、一年有半の期限も大概は似より候。
(『仰臥漫録』角川文庫118頁)

☆やはり、痛ましい。

☆日録『仰臥漫録』には、房総を詠んだ穏やかな佳句も記載されている。高浜虚子選『子規句集』にも採録されている。
◇下総の国の低さよ春の水    子規
 シモウサノ クニノヒクサヨ ハルノミズ
(高浜虚子選『子規句集』岩波文庫285頁)

☆確かに、房総は低山が多い。500㍍以上の山は皆無である。
(2012年6月)


☆正岡子規は、高浜虚子が送り届けた『一年有半』を病床で通読した。
◇10月17日、雨、虚子病気にて来らず、・・・余へ雲丹と『一年有半』を贈り来る。
(『仰臥漫録』角川文庫120頁)
◇10月18日、雨、終日無客、新聞などあらまし見る、夜『一年有半』を見る。
(同書121頁)

☆「雲丹」はウニ。虚子の心配りだろう。

☆兆民と子規の異なる点を、暫く列挙する。貧窮について兆民は次のように書き、いかにも明治期屈指の思想家らしい。
◇家に逋債ありて貯財なし、而してこの重症に罹る、・・・妻にいひて曰く、・・・余と倶に水に投じて直ちに無事の郷に赴かん乎(後略)。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫40頁)

☆「逋債(ホサイ)」は負債、借金のことである。「貯財(チョザイ)」は財産、金銭である。「重症」は咽喉(食道)癌であった。

☆欄外には、中国の杜甫の七言律詩「狂夫」が引用されている。
◇自笑狂夫老更狂
 ミズカラ、キョウフヲ、ワラウモ、オイテ、サラニ、キョウ
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫203頁)

☆「風狂」の精神は、芭蕉のオリジナルではない。

☆子規は晩年、経済的には余裕があった。次のように記している。
◇今は新聞社の四十円とホトトギスの十円・・・以て満足すべきなり。
(『仰臥漫録』角川文庫94頁)

☆1901年9月30日、子規の朝食は、御飯3杯、佃煮2種、茄子の奈良漬、更に牛乳5勺(約90ml)、菓子パン、塩センベイ。昼食には、カジキ鮪の刺身や林檎が食膳に並んだ。
◇鶏頭や糸瓜や庵は貧ならず    子規
 ケイトウヤ ヘチマヤイオ(アン)ワ ヒンナラズ
(『仰臥漫録』角川文庫94頁)

☆悲運を嘆いた句には受け取れない。

☆翌日の10月1日、夕食は、親子丼(御飯の上に鶏肉と卵と海苔)、焼茄子、奈良漬、梨、林檎。この日、新聞『日本』社長の陸羯南[1857-1907](『近時政論考』の著者)が、子規庵を訪問した。話題は目下の中国・朝鮮問題であった。

☆同日の吟。
◇痩骨をさする朝寒夜寒かな    子規
 ヤセボネ(ソウコツ)ヲ サスルアサザム ヨサムカナ
(『仰臥漫録』角川文庫97頁)

☆司馬遼太郎は、新聞『日本』社長の羯南を、中道のジャーナリストと評価した。羯南は子規の叔父(外交官)の友人であった。
◇ホンモノの固陋な保守はむしろ藩閥主義であり、国権主義というのはむしろ新しい概念。
(『坂の上の雲二』文春文庫309頁)
◇羯南は「国家」という立場から社をあげて藩閥内閣に反抗してきたから、左右の感覚でいえば中央に位置する。
(同書310頁)

☆自立主義を唱えた卓抜な現代思想家の吉本隆明は、羯南に対してもっと手厳しい評価を下した。
◇羯南によって象徴される知識人の進歩的「ナショナリズム」は、すでに社会ファシズム論の形を明確にもった。
(吉本編『現代日本思想大系4・ナショナリズム』筑摩書房1964年36頁)
◇社会ファシズム論は羯南から昭和の中野正剛にいたるまで支配層のイデオロギーとなりえたことはない。
(同書36頁)(後に、『自立の思想的拠点』や『吉本隆明全著作集13・政治思想評論集』に再録)

☆吉本は、社会ファシズム(中野)を農本主義ファシズム(橘、北、大川)と峻別し、「自覚された国権と民権との綜合」、「資本制生産力ナショナリズム」と解説に書いた。中野正剛[1886-1943]は東方会総裁で「国家改造計画綱領」を策定。

☆陸羯南の『近時政論考』は、若い頃の中江兆民を「新自由論派」に分類している。
◇その説は深遠にしてかつ快活・・・理論を主として実行を次にし、いわゆる論派(スクール)たるの本領を具えた(後略)。
(吉本編『現代日本思想大系4・ナショナリズム』筑摩書房1964年275頁)(岩波文庫1972年では39頁)

☆司馬も吉本もすでに故人である。

☆兆民と子規の差異について「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)の基軸から考えてみる。「傾城」を詠み込んだ句を取り上げる。
◇傾城を買ひに往く夜や鮟鱇鍋       子規
 ケイセイヲ カイニユクヨヤ アンコウナベ
(高浜虚子選『子規句集』岩波文庫283頁)

☆初出は、新聞『日本』(1902年3月4日)に発表された「鮟鱇十句」である。病床で身動きのとれなかった子規の句とも思われない、不可解な句である。愚生は、駄句であると考える。「傾城」には二つの意味があるが、「国を傾ける程の美女」では無く、「遊女」の意味で詠まれている。

☆『子規全集』(講談社)には、「傾城」を詠んだ句が少なくない。良識的と評価される高浜虚子選『子規句集』には、1893年吟の次のような句も採録されている。
◇傾城をよぶ声夏の夜は明けぬ       子規
 ケイセイヲ ヨブコエ ナツノヨワアケヌ
(高浜虚子選『子規句集』岩波文庫49頁)

☆虚子の選句眼を疑いたくなるが、懐の深さなのであろう。高浜虚子自身の『虚子五句集』(岩波文庫)には、「傾城」を詠み込んだ句は無い。

☆子規が高く評価した与謝蕪村や、夏目漱石の「傾城」を詠んだ句には、救いのようなものが感じられる。
◇傾城は後の世かけて花見かな       蕪村
 ケイセイワ ノチノヨカケテ ハナミカナ
(『蕪村俳句集』岩波文庫42頁)

☆蕪村の「後の世かけて」という俳句表現には、もし生まれかわることができるなら、今生とは異なる境遇で暮らすようにという憐憫の心が読み取れる。佳句であると思う。

☆漱石の珍しい一句。
◇傾城に鳴くは故郷の雁ならん       漱石
 ケイセイニ ナクワコキョウノ カリナラン
(『漱石全集』岩波書店、俳句・詩歌、1907年2010番)

☆雁の「鳴く」声が、「故郷」を想う遊女(公娼か?)の「泣く」声に重ねられていると解釈できる。上掲の子規の「傾城」句は乾いていて、蕪村や漱石のようなウエットな同情心が感じられない。「買ひに往く」、「よぶ」と「後の世」、「鳴く」の違いである。

☆兆民晩年の『一年有半』は、「芸妓」、「娼妓」についてもっと別様に述べている。
◇芸妓及び一切割烹店の婦女はこれを放つべし。・・・伝染病毒を媒介するの恐れあり。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫48頁)

☆兆民の、理想主義的な学者思想家らしい主張である。「芸妓」は、歌舞音曲で酒宴を取り持つ女性のこと。

☆兆民は公娼制度について、妥協的な意見を述べている。
◇娼妓は余これを保存するを欲す。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫49頁)

☆兆民の、現実主義的なジャーナリスト政治家の顔が垣間見える。汚点として指弾すべきか?「娼妓」は公認された売春婦、遊女のこと。

☆反公害の社会運動家であった田中正造は、自伝において「娼妓」体験について独白したことがある。
◇十五歳の時、悪友に唆かされて、梁田の青楼に遊ぶ、妓を擁すること一回にして終に三年不治の黴毒病に罹れり。
(「田中正造昔話」『田中正造全集第一巻』岩波書店6頁)

☆誰にも若い頃の過誤は有るものだが、この比類なき義人でも上記のような性病体験があったのである。人生が誰にとっても、如何に危ういかを物語っている。「梁田(ヤナダ)」は地名か?『田中正造全集』は当館所蔵。

☆田中正造は晩年まで、「底点」問題を引きずっている。1913年の『日記』に、「傾城」の実態について克明に記す。
◇足利郡の田舎、陰売婦一郡三百人。公娼七十人、十九才以上。・・・村落山間ニ至る。
◇火青く水濁り、山崩川埋り人畜流亡。
(『田中正造全集第十三巻』岩波書店447頁)

☆兆民の『一年有半』(原著)には、田中正造の綽名である「栃鎮(トツチン)」という語彙が一カ所記載されている。(岩波文庫版では不掲載)「栃鎮」は「栃木鎮台」の略語のようだ。

☆兆民は第1議会(1890年)の頃、田中正造と会談したことを『自由新聞』に記事として執筆した。正造が足尾鉱毒問題について国会(第2議会)で質問をする前だが、傑出した政治家として高く評価した。下野(栃木県)の奇人と、土佐(高知県)の奇人の対面である。( )は愚生記。
◇此人(正造)や・・・談話も亦率直にして明白にして簡単なり、余(兆民)一日此人と倶に食堂に入り相対して卓に就けり、余は麦酒を飲む、此人は洋食を喫す。
(『中江兆民全集12』岩波書店160頁)

☆ビールを飲む兆民(43歳)、洋食を食べる正造(49歳)。名場面である。二人とも第1回総選挙に当選した衆議院議員であった。

☆次に、『一年有半』の「考へることの嫌いな国民」という批判文について考えてみよう。兆民は自国民に対してどのような苦言を呈したか。
◇わが邦人は利害に明にして理義に暗らし。事に従ふことを好みて考ふることを好まず。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫56頁)

☆この病弊、現代でも変わらないようだ。病魔と闘った晩年、兆民は死後にどのような期待を寄せたか。
◇要する所は、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るにあり。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫57頁)

☆その後、哲学的偉人は現れたか。ニホン国民の「利害に明、理義に暗」という病弊を治癒させようとした思想家は、近現代史に何人誕生したか・・・。

☆兆民の『一年有半』には「考へざるべからず」という新聞論説も収録されている。次のことを、よく考えよと書き残した。『中江兆民評論集』から引用する。
◇請ふ一考せよ。第一、内閣といひ政府といひこれ何者なるか。
(『中江兆民評論集』岩波文庫372頁)
◇少しく考へざるべからず。・・・人民の代表者たる政党人は何の状をなしつつあるか。
(同書377頁)
◇既に財布を盗まれ、また輿論を盗まる、なほこれにても考へざるか。
(同書377頁)

☆「財布を盗まれ」とは、租税を収奪されているのにという意味である。「輿論を盗まる」とは、「民権は陳腐」と言いくるめられてしまっていることのようだ。老いた思想家兆民の表情は苦渋に満ちている。

☆子規は自国民の病弊について、それ程辛辣に語っていない。
◇明治維新の改革を成就したものは二十歳前後の田舎の青年であって幕府の老人ではなかった。
(『病牀六尺』岩波文庫67頁)
◇俳句界の改良せられたのも同じく後進の青年の力であって昔風の宗匠はむしろその進歩を妨げようとした。
(同書67頁)

☆子規の愛弟子の虚子は、病死した先師の思想方法を鋭敏に指摘している。子規は良い弟子に恵まれた。( )は愚生。
◇今まででも必死なり。されども小生(子規)は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり。
(高浜虚子『回想子規・漱石』岩波文庫58頁)
◇いわゆる「自立の決心いよいよ深くなれり」と言った居士(子規)は何人にも頼むところなく万事を自己一人の力で遣って行こうという決心を堅くした。
(同書66頁)

☆虚子の懐の深さは何処から来ているのだろうか。兆民訳の『維氏美学(イシビガク)』(1883年上冊刊・1884年下冊刊)を、少年期に読んだことも記している。
◇文学上の書籍に親しんだのは中学卒業の一年前位からの事で、・・・中江篤介訳『維氏美学』、それらを乱読して東都の空にあこがれていた。
(高浜虚子『回想子規・漱石』岩波文庫14~15頁)

☆60年安保闘争の後に自立主義の道(論誌『試行』の発行)を歩んだのは、故吉本隆明であったが、俳誌『ホトトギス』を指導した子規は、明治の自立主義者と呼ぶべきかもしれない。種は播かれた。吉本もきっと良い後継者が現れるだろう。

☆田中正造晩年の境地は、健脚であったからもっと行動的である。
◇山川を愛するものハ深く水源地ニ入る。人を愛するものハ人道に入る。共に深きを要せり。
(『田中正造全集第十三巻』岩波書店頁456頁)

☆深く「水源地ニ入る」という方法は、理解できる。深き愛の「人道に入る」とはどういう事か。正造は「人ハ聖人のみ尊きニあらず」と書き残しているが、肩を寄せ合い孤立する民衆と相渉ることか・・・。

☆正造は晩年、次のような短歌も詠んでいた。彼の捉えた自国民の病根もかなり深い。
◇飢に泣く声打消して響けるハ人を嚙み食ふ毒の荒波
 ウエニナク コエウチケシテ ヒビケルワ ヒトヲカミクウ ドクノアラナミ
(『田中正造全集第十三巻』岩波書店436頁)

☆3・11後の今、情況は変わるだろうか。自ら命を絶つ人、仕事も無く生きる自国民の群れ。現代の「毒」は放射性物質だから、スパン(時間の幅)は何万年である。

☆兆民の「哲学的偉人を得る」日は何時か?
(2012年7月)



☆俳句と「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)について、考察を続ける。『子規全集』には、そのための貴重な資料がある。蕪村句の輪講(1898年)を検討する。
◇朝霜や室の揚屋の納豆汁       蕪村
 アサジモヤ ムロノアゲヤノ ナットジル
(句意=霜が一面に降りた遊郭の寒い朝、ほかほかの湯気の立つ納豆汁が供された)
(『蕪村全集第一巻』講談社296頁)
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社99頁)

☆「朝霜」の句は、1775(安永4)年の吟である。この句について、子規より高齢の内藤鳴雪は次のように批評した。
◇播州室の遊女の事・・・納豆汁は侘びて禅味のあるもの。
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社99頁~100頁)

☆子規は鳴雪の鑑賞に批判的な発言をしている。
◇遊女屋を句にするに全盛の事を言はずに朝の淋しさを見つけた処は蕪村の力であります。
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社100頁)

☆虚子は「蕪村句集講義」の議論に苦言を呈している。
◇納豆汁を客一人で食ふとか遊女も共に居て食ふとかの議論の如きは・・・句の趣味の上には影響するところ甚だ少し。
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社101頁)

☆「室(ムロ)の遊女」については、蕪村にもう一句ある。1776(安永5)年の吟である。
◇梅咲て帯買ふ室の遊女かな       蕪村
 ウメサイ(キ)テ オビカウムロノ ユウジョカナ
(句意=梅が咲いて早春の活気に満ちた室の港町、遊女が商人の並べる帯の品定めに夢中である)
(『蕪村全集第一巻』講談社300頁)
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社197頁)

☆「梅咲て」の句について、子規はあっさりとした批評を述べた。
◇この句は其儘。
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社101頁)

☆鳴雪はもっと情緒的な鑑賞をしている。
◇冬の寒さもいくらか薄らいで来て、室の遊女も春めいて、多少郭の繁昌になりかけた所。
(「蕪村句集講義」『子規全集第十七巻』講談社101頁)

☆愚生には、帯を買おうとする「底点」の女性の憐れな心情を酌み取って、蕪村が詠んでいるように感じられる。蕪村の出自に、『ホトトギス』の俳人達(旧士族)の想像を越えるような闇があるのかもしれない。

☆「蕪村句集講義」には「若竹や橋本の遊女ありやなし」の批評も掲載されている。(『子規全集第十七巻』講談社395頁)

☆蕪村が「傾城(遊女・白拍子)」を詠んだ句を、全集と文庫から年代順に列挙する。句意は引用しない。簡便な角川ソフィア文庫の『蕪村句集』(玉城司訳注)を参照されたい。
(1)沢潟による傾城や御祓川(1769年)
 オモダカニ ヨルケイセイヤ ミソギガワ
(『蕪村全集第一巻』講談社137頁)

(2)みじか夜やいとま給る白拍子(1775年)
 ミジカヨヤ イトマタマワル シラビョウシ
(『蕪村全集第一巻』講談社279頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫227頁)

(3)若竹や橋本の遊女ありやなし(1775年)
 ワカタケヤ ハシモトノユウジョ アリヤナシ
(『蕪村全集第一巻』講談社283頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫230頁)

(4)朝霜や室の揚屋の納豆汁(1775年)
 アサジモヤ ムロノアゲヤノ ナットジル
(『蕪村全集第一巻』講談社296頁)

(5)梅咲て帯買う室の遊女かな(1776年)
 ウメサイテ オビカウムロノ ユウジョカナ
(『蕪村全集第一巻』講談社300頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫244頁)

(6)ほとゝぎす歌よむ遊女聞ゆなる(1777年)
 ホトトギス ウタヨムユウジョ キコユナル
(『蕪村全集第一巻』講談社338頁)

(7)住吉の雪にぬかづく遊女哉(1777年)
 スミヨシノ ユキニヌカヅク ユウジョカナ
(『蕪村全集第一巻』講談社421頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫362頁)

(8)花に舞ハで帰るさにくし白拍子(1780年)
 ハナニマワデ カエルサニクシ シラビョウシ
(『蕪村全集第一巻』講談社458頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫407頁)

(9)傾城はのちの世かけて花見かな(1780年)
 ケイセイワ ノチノヨカケテ ハナミカナ
(『蕪村全集第一巻』講談社458頁)
(『蕪村句集』角川ソフィア文庫408頁)

☆問題になるのは、(6)の「ほとゝぎす」の句である。同句は 、『蕪村句集』(角川ソフィア文庫)や『蕪村俳句集』(岩波文庫)には、採録されていない。尾形仂・森田蘭校注の『全集』は次のように句意を注記する。
◇あれは歌詠みの遊女として知られた亡母の霊魂の化身ではなかろうか。
(『蕪村全集第一巻』講談社338頁)

☆もし、蕪村の「亡母」が「歌詠みの遊女」であるとするならば、上掲の九句は新たな解釈が求められる。それだけでなく、蕪村全句の解釈に重い影響を及ぼすことになる。

☆「ほととぎす」は「子規」であるのだが・・・。
(2012年8月)


☆「傾城(遊女・白拍子)」を詠んだ正岡子規の全句を、「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)のパラダイム確立のために、煩瑣を厭わず『全集』から年代順に列挙する。

☆「傾城」が詠まれるのは「寒山落木・巻一」からである。非常に多いので困惑する。
(1)傾城の息酒くさし夕桜     (1892年春)
   ケイセイノ イキサケクサシ ユウザクラ
(『子規全集第一巻』講談社58頁)

(2)烏帽子着て送り火たくや白拍子 (1892年秋)
   エボシキテ オクリビタクヤ シラビョウシ
(『子規全集第一巻』講談社98頁・105頁)

(3)傾城の燈籠のぞくや寶嚴寺   (1892年秋)
   ケイセイノ トウロウノゾクヤ ホウゴンジ
(『子規全集第一巻』講談社104頁)

☆松山市の「寶嚴寺」はホウゴンジと読む。

(4)遊女一人ふえぬ日はなし京の秋 (1892年秋)
   ユウジョヒトリ フエヌヒワナシ キョウノアキ
(『子規全集第一巻』講談社104頁)

☆1892(明治25)年11月11日(金)、正岡子規は帰郷の途次、京都の聖護院に下宿していた第三高等学校在学中(その後中退)の高浜虚子を訪ねた。(『子規全集第二十二巻』講談社198頁)((高浜虚子『回想子規・漱石』岩波文庫18頁))

(5)傾城に電話をかけん秋のくれ  (1892年秋)
   ケイセイニ デンワヲカケン アキノクレ
(『子規全集第一巻』講談社105頁)

(6)月蝕や笠きて出たる白拍子   (1892年秋)
   ゲッショクヤ カサキテデタル シラビョウシ
(『子規全集第一巻』講談社114頁)

(7)傾城に歌よむはなしけふの月  (1892年秋)
   ケイセイニ ウタヨムハ(ワ?)ナシ キョウノツキ
(『子規全集第一巻』講談社123頁)

(8)傾城は屏風の萩に旅寝哉    (1892年秋)
   ケイセイワ ビョウブノハギニ タビネカナ
(『子規全集第一巻』講談社147頁)

(9)色里や時雨きかぬも三年ごし   (1892年終りの冬)
   イロザトヤ シグレキカヌモ ミトセゴシ
(『子規全集第一巻』講談社163頁)

☆「色里」は遊郭のある街のことであるが、舞台は道後か京都か。正岡子規はこの冬、満25歳であった。『全集』の「年譜」には、「11月18日(金)・・・陸(羯南)に呼ばれ、日本新聞に毎日出社の事決まる。月給十五円。」(『子規全集第二十二巻』講談社198頁)とある。

☆1892年は、正岡子規が帝国大学を中退する決意をした年である。丁度120年前である。
(2012年9月)


☆「寒山落木 抹消句」にも、「傾城」を詠んだ句があるので筆記しておく。初出は1981(明治24)年である。国会開設の翌年である。

(1)五月雨や傾城のぞく物の本
(『子規全集第一巻』講談社424頁)

(2)葉桜や傾城しらぬ夏の景
(『子規全集第一巻』講談社424頁)

(3)傾城にまことありけり秋のくれ
(『子規全集第一巻』講談社425頁)

(4)傾城に問へども知らず秋の風
(『子規全集第一巻』講談社426頁)

☆佳句であるならともかく、抹消句であるので批判的検討は不要であると考える。

☆1982(明治25)年の「寒山落木 抹消句」にも、「傾城」を詠んだ句が複数残存する。

(1)初ゆめや女郎と論語の巻の一
(『子規全集第一巻』講談社429頁)

(2)傾城の門まで出たり凧
(『子規全集第一巻』講談社430頁)

☆「凧」は「タコ」であるが、「イカノボリ」と読まなければ音数が合わない。
(2012年10月)


☆「傾城」がしばしば詠まれるのは、1893(明治26)年も同様である。『子規全集』から少しずつ転記することにする。

(1)傾城の涙にやれし紙衣かな  (1893年はじめの冬)
   ケイセイノ ナミダニヤレシ カミコカナ
(『子規全集第一巻』講談社181頁)

☆「やれし」は「破れし」である。この句は少しウェットである。
 
(2)傾城の噂を語れ納豆汁  (1893年はじめの冬)
   ケイセイノ ウワサヲカタレ ナットウジル
(『子規全集第一巻』講談社182頁)

☆子規の区分に依ると、「はじめの冬」は「一月一日より二月立春に至るまで(新年の句を除く)」である。「をはりの冬」は「十一月立冬より十二月三十一日に至るまで」である。(高浜虚子編『子規句集』189頁岩波文庫)

☆この句は、前述の与謝蕪村の「朝霜や室の揚屋の納豆汁(アサジモヤ ムロノアゲヤノ ナットジル)」(1775年)を踏まえていると考えられる。しかし子規の「納豆汁」の句は駄句のような気がする。

(3)梦に見ん遊女もしらず春の雨  (1893年春)
   ユメニミン ユウジョモシラズ ハルノアメ
(『子規全集第一巻』講談社203頁)

☆「梦」は「夢」の異体字である。

(4)傾城の菫は痩せて鉢の中  (1893年春)
   ケイセイノ スミレワヤセテ ハチノナカ
(『子規全集第一巻』講談社240頁)

☆「春の雨」の句も、「菫は痩せて」の句も幾分ウェットで悪くはないが、「遊女」や「傾城」が風景に溶け込んでしまっていて、感情移入の一歩手前で留まっている。「傾城」を詠むときの子規の方法的欠陥である。

(5)六月や太夫となる身罪深し  (1893年夏)
   ロクガツヤ タユウトナルミ ツミフカシ
(『子規全集第一巻』講談社244頁)

☆「罪深」い「身」は、いったい誰か。

(6)鏡見ているや遊女の秋近き  (1893年夏)
   カガミミテ イルヤユウジョノ アキチカキ
(『子規全集第一巻』講談社244頁)

(7)秋近し七夕恋ふる小傾城  (1893年夏)
   アキチカシ タナバタコウル コケイセイ
(『子規全集第一巻』講談社244頁)

(8)憎らしや夏を肥たる小傾城  (1893年夏)
   ニクラシヤ ナツヲコエタル コケイセイ
(『子規全集第一巻』講談社245頁)

☆「小傾城」は遊女になったばかりの女性(7)か、二流の遊女(8)を意味するようである。子規は両様の意味で詠んでいる。

(9)だまされて夜は明やすし絹蒲団  (1893年夏)
   ダマサレテ ヨワアケヤスシ キヌブトン 
(『子規全集第一巻』講談社247頁)

(10)傾城をよぶ聲夏の夜は明けぬ  (1893年夏)
   ケイセイヲ ヨブコエナツノ ヨワアケヌ
(『子規全集第一巻』講談社247頁)

☆前述したように、この句は虚子編『子規句集』(岩波文庫)に採録されている。「夏の夜は明けぬ」は爽やかな印象を放つが、「よぶ聲」は非人道的で、「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)の人々にはより一層悲惨である。

11月17日(土)と18日(日)、福島県喜多方市へ講演旅行に出かけました。久し振りにお会いした方もいました。原発被災の浪江町から、喜多方市で避難生活を強いられている御老人とお話をすることも出来ました。『福島民報』の記事を紹介します。(喜多方市HP参照)

喜多方事件の130周年記念集会・シンポジウムは18日、喜多方プラザで開かれた。約100人が参加。岩手県の「市民の歴史探究館」館長、山形県の「ワッパ騒動義民顕彰会」事務局長、石川町の石陽社顕彰会事務局長、新潟県の高校教諭、埼玉県の秩父事件研究顕彰協議会メンバーが研究や顕彰活動を紹介した。千葉県の房総自由民権資料館長が「房総自由民権資料館の創業」と題して講演した。
( 2012/11/19福島民報・抜粋 )

先日、パソコンが少し故障(インターネットへの接続部分)しましたのでメーカーに修理を依頼しました。ブログは暫く冬眠します。

(2012年11月)


パソコンの修理が終わったので「底点俳諧論」を続けます。修理代は保証期間なので無料でした。
☆松尾芭蕉には「遊女」を詠んだ名句がある。『おくのほそ道』(市振)には「新潟と云ふ所の遊女」と記されている。
◇一つ家に遊女も寝たり萩と月
 ヒトツヤニ ユウジョモネタリ ハギトツキ
(『新版・おくのほそ道』角川文庫50頁)

☆句意は明瞭である。ドナルド・キーン氏の英訳は穏当な直訳である。
◇Under the same roof
 Prostitutes were sleeping
 The moon and clover.
(『英文収録・おくのほそ道』講談社学術文庫108頁)

☆旅宿の隣室から聞こえた遊女達の会話を、芭蕉は次のように記述している。ドナルド・キーン氏のラディカルな英訳を先に読んでみよう。

◇Like fisherwomen, we have dived to the depths of this world.
(『英文収録・おくのほそ道』講談社学術文庫108頁)

☆複数形の the depths は「最深部」とか「どん底」という意味である。上記の表現は「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)という概念と重ねて鑑賞できる。

☆角川文庫の『おくのほそ道』の原文は以下の通りである。
◇海士のこの世をあさましう下りて、定めなき契り・・・。
(『新版・おくのほそ道』角川文庫49頁)

☆角川文庫の現代語訳も紹介しておく。穎原退蔵(エバラ・タイゾウ)と尾形仂(オガタ・ツトム)の訳である。
◇漁師の子のような所定めぬ情ない境涯にまでこの世を落ちぶれ果てて、夜ごとに変わるはかない契り・・・。
(『新版・おくのほそ道』角川文庫131頁)

☆発見された芭蕉自筆『おくのほそ道』にはどのように仮名表記されていたか。
◇あ(安)ま(万)の(能)この世をあさましうくだりて定めなき契り・・・。
(『芭蕉自筆・奥の細道』岩波書店1997年55頁)

☆ほとんどの国文学者が「あま」を、男性の漁師と解釈する。しかしドナルド・キーン氏は、fisherwomen(海女達)と英訳して、深淵かつ独創的である。誤訳ではないと思う。

☆芭蕉は連句においても遊女を詠んでいる。恋句(コイク)として詠んでいる。『おくのほそ道』の旅の途次に詠んだ歌仙「馬かりての巻」(山中)から、二句だけ取り出してみよう。
◇遊女四五人田舎わたらひ       曾良
 ユウジョシゴニン イナカワタライ
◇落書に恋しき君が名も有て      芭蕉
 ラクガキニ コイシキキミガ ナモアリテ
(東明雅『芭蕉の恋句』岩波新書139頁)

☆同書の現代語訳も引用する。
◇田舎をめぐり歩いて渡世する四五人の遊女が泊った宿   (曾良)
◇落書の中にふとなつかしい人と同じ名があるのを見つけた (芭蕉)
(東明雅『芭蕉の恋句』岩波新書139頁)

☆遊女達の精神にプラトニックな恋心のあるのを洞察し諷っている。正岡子規には気の毒であるが、松尾芭蕉の俳諧の深淵に遠く及ばない。

☆子規の同郷の後輩に河東碧梧桐がいる。碧梧桐も「傾城」を詠んだ句がある。全集から一句だけ取り上げる。
◇傾城の二日灸こそはかなけれ
 ケイセイノ フツカキュウコソ ハカナケレ
(『河東碧梧桐全集』第三巻、短詩人連盟150頁)

☆佳句である。師匠の子規の傾城句よりウエット(しっとり)である。「二日灸」は陰暦2月2日または8月2日にすえる灸である。歳時記では春の季語である。

☆『ホトトギス』の編集を担当し、子規の後継者になった同郷の高浜虚子にも傾城句がある。
◇傾城の昼寝に雲はなかりけり
 ケイセイノ ヒルネニクモワ ナカリケリ
(『定本高浜虚子全集』第一巻、毎日新聞社244頁)

☆他愛のない淡泊な句であるが非凡である。これも一つの才能なのであろう。

☆二人は少年時代は親友であった。京都や仙台の旧制高校を危なっかしく渡り歩いた。後に袂を分かつが、仲の良かった頃に一緒に「傾城」を詠んだことがある。1893(明治26)年8月の「籠十二ヶ月」と題しての競吟である。
◇文月や籠より出る京女郎         虚子
 フミヅキヤ カゴヨリイズル キョウジョロウ
◇はつあらし籠のあぐらのくづれけり    碧梧桐
 ハツアラシ カゴノアグラノ クズレケリ
(『定本高浜虚子全集』第二巻、毎日新聞社297頁)

☆競吟ではある。しかし両句とも破格で、品位のある句とは思えない。

☆碧梧桐の代表的な句は「赤い椿白い椿と落ちにけり」(『碧梧桐俳句集』岩波文庫16頁)、「空をはさむ蟹死にをるや雲の峰」(同書70頁)であるが、こんな造形的な句に碧梧桐を押し込めてしまってはいけない。

☆同年の競吟に次の秀句がある。
◇夏川や闇のそこ行く籠の音       碧梧桐 
 ナツカワヤ ヤミノソコユク カゴノオト
(『定本高浜虚子全集』第二巻、毎日新聞社297頁)

☆「そこ」は「底」であるだろう。ストレートに「傾城」を詠んではいない。しかし子規や虚子よりも「底点」の世界(the depths of this world)の深淵に肉薄している。

☆碧梧桐には『雨月物語』のような幻想的な遊女句もある。
◇遊女屋のありて舟つく花芒
 ユウジョヤノ アリテフネツク ハナススキ
(『碧梧桐俳句集』岩波文庫79頁)

☆後継者という言葉の意味について、ここで少し触れておこう。虚子は「子規居士と余」で懐の深さを披瀝している。なかなかこのように書けるものではない。( )は筆者。
◇私(子規)はお前(虚子)を自分の後継者として強うることは今日限り止める。
(高浜虚子『回想子規・漱石』岩波文庫57頁)
◇居士(子規)全体を継承していないまでも居士(子規)の何物かを受けて、各々これを祖述しつつある。これがむしろ正当の意味に於ける後継者である。
(同書59頁)
◇虚子を居士(子規)の意のままに取り扱いたいと考えたことはやや無理な註文であったともいえる。
(同書59頁)

☆単なる学者ではなく、大文学者を標榜した虚子らしい回想である。

☆虚子は、同郷の子規の芭蕉論を「大主観」、「背景論」の観点から根底的に批判した文章も残した。
◇子規君の客観論によると芭蕉よりも蕪村の方がえらくなってこなければならぬ。しかし今日我々からみると蕪村はとても芭蕉に及ばない。
(高浜虚子『俳句の作りよう』角川文庫117頁)

☆同郷の師弟関係では土佐の中江兆民と幸徳秋水のラディカルな事例がある。秋水は合計三回ほど兆民の家に寄宿した。
◇明治21年18歳にして初めて中江兆民の学僕、・・・24年4月再び中江家の書生、・・・26年3月三たび中江家玄関に寄寓。
(幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』岩波文庫80頁)

☆秋水は次のように兆民先生を批判的に記述している。(  )は筆者記。
◇先生(兆民)・・・気を負ふて放縦・・・深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。
◇先生(兆民)の曾て群馬に娼楼を設けんとするや、予(秋水)其先生の徳を累せんことを言ふ。
(幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』岩波文庫26頁)

☆明治初期、村上英俊はフランス学の泰斗であった。その塾を「放縦」によって「破門」されたというのである。群馬県の「娼楼」については、前述したように兆民は公娼制度を否定しなかった(『一年有半・続一年有半』岩波文庫49頁)。

☆兆民は後輩の秋水に対し、長崎滞在中の坂本竜馬の風貌についても語ったようだ。(  )は筆者記。
◇彼(竜馬)の眼は細くして其額(ヒタイ)は梅毒の為め抜上がり居たりき。
(幸徳秋水『兆民先生・兆民先生行状記』岩波文庫8頁)

☆兆民は、自分が媒酌した女性(師岡千代子)と元書生の秋水が離婚したことを知らずに他界した。大逆事件による秋水の刑死まで生きていたら、どのように評しただろうか。

☆木下尚江[1869-1937]は『廃娼之急務』の「無期の醜業」で、公娼制度についてキリスト者らしい論理で批判している。
◇娼妓は借金を負て此の濁流に沈没せるものなり。故に前借金にして皆済とならざる限りは、再び浮び来ること能はず。
(『木下尚江全集第一巻』教文館91頁)
◇売淫は売る者と買ふ者と同罪なり・・・愛情汚辱の男女二罪人あるを見るなり。
(前掲書148頁)

☆「愛情汚辱」と「男女二罪人」は傾城句を鑑賞するときに大切な批判的規範である。子規の俳句にはその規範的な基軸が無い。

☆尚江(ナオエ)は「底点」(肩を寄り添い合う・孤立する民衆)の女性を詠んだ次のような短歌を残した。
◇迷フマジ苦海ノ底ニ沈ム身ノ
  如何ニ再ビ世ニハ逢フベキ
◇人ノ世モ男心モ頼マレズ
  翠(ミドリ)ノ髪ヲ断チシ君カナ
(「柳田泉宛書簡1903年」『木下尚江全集第十九巻』教文館314頁)
(村上信彦『明治女性史(四)』講談社文庫154頁)

☆英文学者でミルの『自由論』の卓抜な翻訳があり、明治文化全集の編集にも携わった柳田泉(ヤナギダ・イズミ)の『日本革命の予言者 木下尚江』(春秋社)を参照されたい。

☆「苦海(クガイ)」は公娼の「苦界」である。「苦海ノ底」は前述した『おくのほそ道』の the depths of this world に通底する。村上信彦は「明治最大の人権闘争が廃娼運動だった」と前掲書(172頁)で結語している。

☆尚江は1900年6月に『足尾鉱毒問題』を出版し、同年10月に『廃娼之急務』を出版した。中江兆民が『一年有半』と『続一年有半』を書いた後に他界したのは、翌年の1901年12月である(54歳)。子規の逝去は翌々年の1902年9月であった(36歳)。

☆尚江は田中正造翁について先駆的な評伝も執筆した(『田中正造翁伝記』新潮社1921年)。『木下尚江全集』、『中江兆民全集』、『子規全集』、『田中正造全集』は当館架蔵。
(2012年12月)