2025年9月

《掲示板》

◎9月の行事
9月 2日(火):亀太郎忌
9月23日(火):秋分の日(墓参) 

◎みんけん林園
♣野菜:生姜(収穫)、オクラ(収穫)、ミニトマト(収穫)。

果樹:富有柿(収穫)、甘夏(緑葉)、柚子(緑葉)、柘榴(収穫)、栗(イガ)、枇杷(緑葉)、金柑(緑葉)、パール柑(緑葉)。

♠樹木:楠(緑葉)、樫(常緑)、榎(緑葉)、橡(緑葉)、楓(緑葉)、檜(常緑)、椿(常緑)、山茶花(常緑)、檜葉(常緑)、岩躑躅(落葉)、高野槙(緑葉)、南天(常緑)、百日紅(落花)、辛夷(緑葉)、金木犀(開花)、榊(常緑)、朴木(緑葉)、柏(緑葉)、山桜(緑葉)、山茱萸(緑葉)、チャノキ(緑葉)、モチノキ(常緑)、シュロ(常緑)、ソテツ(常緑)。


竹林(孟宗竹)

◎異常気象・災害・感染症
▼国内各地で猛暑日連続。
▼四日市市で大雨、地下駐車場被害。
▼牧之原市で巨大竜巻被害。

◎みんけん館寄贈寄託資料・連絡通信コーナー
□仏具「桜井(吉川)静ゆかりの人物御位牌」(関係者御子孫から寄贈2025年3月)
□冊子『要覧』(高知市立自由民権記念館2025年6月)
□通信『全国みんけん連ニュース№13』(全国自由民権研究顕彰連絡協議会2025年8月1日)



戊辰戦争と漢詩集 みんけん連続詩話
猛暑が収まりませんが皆様お元気でしょうか。8月は大久保利通(一蔵)の七言絶句を鑑賞しましたので、今月は木戸孝允(準一郎)の七言絶句を鑑賞しましょう。

西郷隆盛(吉之助)の漢詩と同様、木戸孝允の漢詩はビックリするほど沢山、明治期の漢詩集(アンソロジー)に収録されています。国会図書館のデジタルコレクションにアクセスすると、その殆どを自宅のパソコンで閲覧できます。

木戸孝允(桂小五郎)作「戊辰之歳」※別題に「戊辰ノ作」、1868年1月頃の作(推定)
去歳千軍逼我疆 ●●○○●●韻
今朝孤剣入他郷 ○○○●●○韻
浮生萬事變如夢 ○○●●●◎◎
一片依然男子腸 ●●○○◯●韻

平仄記号の○は平声、●は仄声、◎は両用、韻は下平七陽(疆・郷・腸)です。起句の七字目は「境(●)」では押韻になりませんので、「疆(○)」の字が正しいでしょう。二四(にし)不同、二六対(つい)、下三連(しもさんれん)不可、四字目の弧平(こひょう)不可の平仄規則が厳守されています。

『明治詩話』(岩波文庫2015年)では、起句の「逼」は「迫」となっています。転句の「浮世」は「回頭」、「萬事變」は「世事渾」となっていて、結句の「男子」は「鐵石」となっています。明治大正期に出版されたアンソロジーの漢詩集には様々な異稿(異句)が残っています。

『木戸孝允文書第八』(非売品1931年)には1867年作と思われる「丁卯(ていぼう)三月入筑前」という七言絶句が収載されています。詩句が大変よく似ていますが、この年の3月、木戸孝允は太宰府に行き三条実美に会っています。

当館HPでは『松菊先生遺墨集』(民友社1928年)所載の直筆を底本にしました。初出誌の漢詩集『近世詩史』(1876年)や『近世名家詩文』(1877年)等の詩題は「戊辰ノ作」となっています。

1868(慶応4・明治元)年作であることは間違いない所ですが、何月の作かは不明です。『松菊木戸公傳・上』(明治書院1927年)の詳細な年譜に「正月七日、この日公(木戸孝允)に密命を含めて岡山に赴(おもむ)かしむ。」と記載されています。同書本文には「伊藤博文宛の木戸孝允書簡1868年1月8日付」が引用されています。(『木戸孝允文書第三』非売品1930年収載書簡を参照)

私は「鳥羽・伏見の戦い」前後の作ではないかと推定しています。密命は「討幕」の多数派工作で、承句の「他郷」は岡山藩であると思います。岡山藩主(池田茂政)は15代将軍(徳川慶喜)の異母弟で、両人の実父は御三家の水戸藩主(徳川斉昭)でした。

木戸孝允の代表的な漢詩は「夜坐思亡友」(七言古詩)と言えるでしょう。「夜坐(やざ)し亡友(ぼうゆう)を思う」の初出ははっきりしていて、1869年10月9日付けの菱田重禧(ひしだしげよし)宛木戸孝允書簡(上掲『木戸孝允文書第三』所収)の末尾に記載されています。

菱田重禧は元大垣藩士で「戊辰(ぼしん)人日(じんじつ)前(まえ)の一夕(いっせき)、縛(ばく)に就(つ)き将(まさ)に腹(はら)を屠(ほふ)らんとし之(これ)を賦(ふ)して自ら貽(おく)る」(上掲『近世詩史』)という詩題の七言絶句を残しています。戊辰戦争を題材にした七言絶句なので後日鑑賞の予定です。「人日」は1868(慶応4)年の1月7日のことで、「鳥羽・伏見の戦い」の渦中でした。

訓読「戊辰(ぼしん)の歳(とし)」
去歳(きょさい)千軍(せんぐん)我(わ)が疆(くにざかい)に逼(せま)る
今朝(こんちょう)孤剣(こけん)他郷(たきょう)に入(い)る
浮生(ふせい)万事(ばんじ)変(へん)じて夢(ゆめ)の如(ごと)し
一片(いっぺん)依然(いぜん)たり男子(だんし)の腸(はらわた)

当館の現代語訳
 過ぎ去った年、徳川幕府は私たちの長州に二度も大軍を派遣して来た。戊辰戦争の今年、王政復古に従わない幕府側を討つため私はたった一本の剣で他藩に入って行く。世の中の出来事はすべて変化し夢のようである。しかし男子の堅固な精神はかつてとまったく同じである。

現代語訳については『古今名士愛吟詩評釈』(国華堂書店1909年)を参照しました。鹿児島県に関しては『西郷隆盛漢詩集』(西郷南洲顕彰会2008年)、『西郷隆盛漢詩全集』(201首、斯文堂2010年)、『大久保利通(甲東)漢詩集』(47首、斯文堂2012年)等がすでに出版されています。

山口県に関しては『乃木将軍詩集詳解』(博文館1916年)、『注訳・藤公(伊藤博文)詩集』(忠文堂書店1918年)、『訓註・吉田松陰殉国詩歌集』(誠文堂新光社1937年)等が出版されています。残念ながら、詳細な「語注」や「現代語訳」が付された木戸孝允の漢詩全集(百余首)はまだ出版されていないようです。

(以下続く)



《掲示板》

◎10月の行事
※9月24日(水):西郷南洲忌(満49歳、没後148年)
10月 7日(火):Digital Museum 開設27周年
         :橋本景岳忌(満25歳、安政大獄) 
10月27日(月):吉田松陰忌(満29歳、安政大獄)
◎みんけん林園
♣野菜:枝豆(収穫)、オクラ(収穫)。

果樹:富有柿(収穫)、甘夏(緑葉)、柚子(緑葉)、柘榴(収穫)、栗(収穫)、枇杷(緑葉)、金柑(緑葉)、パール柑(緑葉)。

♠樹木:楠(緑葉)、樫(常緑)、榎(緑葉)、橡(緑葉)、楓(緑葉)、檜(常緑)、椿(常緑)、山茶花(常緑)、檜葉=アスナロ(常緑)、岩躑躅(落葉)、高野槙(緑葉)、南天(常緑)、百日紅(落花)、辛夷(落葉)、金木犀(開花)、榊(常緑)、朴木(緑葉)、柏(緑葉)、山桜(緑葉)、山茱萸(緑葉)、チャノキ(緑葉)、モチノキ(常緑)、シュロ(常緑)、ソテツ(常緑)。


竹林(孟宗竹)

◎異常気象・災害・感染症
▼東京都八丈島で連続台風による記録的暴風雨被害。

◎みんけん館寄贈寄託資料・連絡通信コーナー
□仏具「桜井(吉川)静ゆかりの人物御位牌」(関係者御子孫から寄贈2025年3月)
□冊子『要覧』(高知市立自由民権記念館2025年6月)
□雑誌『文学と教育№233』(文学教育研究者集団2025年7月31日)
□通信『福島自由民権大学通信36号』(福島自由民権大学事務局2025年9月21日)
□会誌『秩父№228』(秩父事件研究顕彰協議会2025年9月)※宮下沢五郎の墓碑。



戊辰戦争と漢詩集 ‐みんけん詩話‐
9月は木戸孝允(準一郎)の漢詩「戊辰ノ作」を鑑賞しました。10月は維新三傑(さんけつ)であった西郷隆盛(吉之助)の七言絶句を鑑賞しましょう。薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき)の「戊辰作」は後日鑑賞の予定です。

大久保利通(一蔵)と木戸孝允は「戊辰作」という七言絶句を残していますが、西郷隆盛(吉之助)には「戊辰作」という漢詩は残っていません。大久保、木戸、西郷の代表的な漢詩の初出本は、1876(明治9)年発行の『近世詩史(上)(下)』です。今月は、同書収載の「送兵士之東京」を鑑賞しましょう。

「送兵士之東京」の創作年は、『詳説西郷隆盛年譜』(西郷南洲顕彰会1992年)に記載されています。「戊辰戦争」の終結から2年後の1871年7月に「廃藩置県」が断行されました。同年の3月~4月頃の創作としています。「親兵(しんぺい)」約5000人が、鹿児島から大挙して東京へ出兵した時の詩です。

平仄
「送兵士東京之」
※1871年作、別題に「送兵士東征」(『南洲先生遺墨集』)、「送藩兵為天子親兵赴闕下」(『大西郷全集』等)。
王家衰弱使人驚
◎○○●●○韻
憂憤隕身千百兵
○●●○○●韻
忠義凝成腸鉄石
○●◎○○●●
為楹為礎築堅城
◎○◎●●○韻
(太田真琴編『近世詩史(上巻)』1886年4月出版)

※平仄記号の○は平声、●は仄声、◎は両用(『平仄字典新版』明治書院2013年参照)。平起の七言絶句で韻は下平八庚(驚・兵・城)。二四不同(にしふどう)、二六対(にろくつい)、下三連(しもさんれん)不可(ふか)、四字目の弧平(こひょう)不可(ふか)の平仄規則が厳守されている。初出本は上掲『近世詩史』で、直筆が残存する。

訓読
「兵士(へいし)の東京(とうきょう)へ之(ゆ)くを送(おく)る」
王家(おうけ)の衰弱(すいじゃく)人(ひと)をして驚(おどろ)かしむ
憂憤(ゆうふん)身(み)を隕(おと)す千百(せんひゃく)の兵(へい)
忠義(ちゅうぎ)凝(こ)って成(な)る腸(はらわた)鉄石(てっせき)
楹(はしら)と為(な)り礎(いしずえ)と為(な)って堅城(けんじょう)を築(きず)け
(『近世詩史』の訓点を踏襲)

※起句の「王家(おうけ)」は「おうか」とも読む(明治期の漢詩集)。承句の「隕(おと)す」に対しては「捐(す)つ」という異字の例がある(『大西郷全集第3巻』大西郷全集刊行会1927年等)。戊辰戦争の頃、島津忠義(ただよし)は薩摩藩の藩主であった。転句の「忠義(ちゅうぎ)」という詩語が人名の掛け言葉に解釈されたかも知れない。なぜ西郷が敢えてこのように表現したのか理解に苦しむ。結句の「築(きず)け」という命令口調の訓読も西郷の軍略家としての信条にそぐわない。「築かん」又は「築く」等、命令ではなく信念を吐露する訓読の例がある(明治期の漢詩集)。

現代語訳
朝廷(ちょうてい)の勢力(せいりょく)が余(あま)りに衰(おとろ)えたので人々(ひとびと)は驚(おどろ)いている。
憂(うれ)うべき事態(じたい)を憤(いきどお)り、戊辰戦争(ぼしんせんそう)以来(いらい)多(おお)くの兵士(へいし)が命(いのち)を落(お)としてきた。
尊王討幕(そんのうとうばく)の志(こころざし)は今(いま)も鉄(てつ)か石(いし)のように堅(かた)い。
礎石(そせき)や支柱(しちゅう)に化(か)すことを覚悟(かくご)し、揺(ゆ)るぎない新政府(しんせいふ)を創(つく)り上(あ)げよう。
(当館館長訳)

※詩意については、戊辰戦争における薩摩藩の多数の戦死者(「東征戦亡之碑文」京都東福寺)と結びつけない解釈がある。私は西郷隆盛の「戊辰の役(えき)戦死者を祭る文」(『西郷隆盛全集第四巻』大和書房1978年)の独特な死生観からすると、戦死者と結びつけて解釈した方が適切と考えている。

『南洲翁(なんしゅうおう)遺訓(いくん)』の初版本は1890(明治23)年に旧庄内藩(現在の山形県内)によって出版されました。その後、多くの西郷隆盛遺訓集が公刊されて来ました。1868(明治元)年の鳥羽・伏見の戦いから翌年の箱館戦争にかけての「戊辰(ぼしん)の義戦(ぎせん)」について、初版本の「遺訓」を味読しましょう。親鸞(しんらん)語録の『歎異抄(たんにしょう)』のような趣(おもむ)きを感じませんか。

遺訓の(四) ※新仮名、句読点、ルビ等は当館。
 萬民(ばんみん)の上(うえ)に位(くらい)する者(もの)、己(おの)れを慎(つつし)み、品行(ひんこう)を正(ただし)くし、驕奢(きょうしゃ)を戒(いまし)め、節儉(せっけん)を勉(つと)め、職事(しょくじ)に勤勞(きんろう)して人民(じんみん)の標準(ひょうじゅん)となり、下民(かみん)其(そ)の勤勞(きんろう)を氣(き)の毒(どく)に思(おも)う様(よう)ならでは、政令(せいれい)は行(おこな)われ難(がた)し。
 然(しか)るに草創(そうそう)の始(はじめ)に立(た)ちながら、家屋(かおく)を飾(かざ)り、衣服(いふく)を文(かざ)り、美妾(びしょう)を抱(かか)え、蓄財(ちくざい)を謀(はか)りなば、維新(いしん)の功業(こうぎょう)は遂(と)げられ間敷(まじき)也(なり)。
 今(いま)となりては、戊辰(ぼしん)の義戰(ぎせん)も偏(ひと)へに私(わたくし)を營(いとな)みたる姿(すがた)になり行(ゆ)き、天下(てんが)に對(たい)し戰死者(せんししゃ)に對(たい)して面目(めんもく)無(な)きぞとて、頻(しき)りに涙(なみだ)を催(もよお)されける。

※『西郷隆盛全集第4巻』大和書房1978年が初版の原本に準拠している。中学生や高校生の入門書としては、岩波文庫の『西郷南洲遺訓』よりも、丁寧な解説が付いた角川ソフィア文庫の『新版 南洲翁遺訓』の方が分かり易いと思う。


(以下続く)