2019年
《掲示板》
◎1月の行事
1月 1日(火):『民権館通信12号』発行
1月 2日(水):予約客様
1月 7日(月):七草粥
1月11日(金):秀峯忌(板倉比左顕彰)
1月13日(日):地域行事
1月15日(火):予約客様
1月18日(金):川名七郎顕彰忌
1月25日(金):予約客様
◎民権林園
☆収穫:里芋(平作)、春菊(平作)
☆植付:
☆花々:水仙(白・黄)、バラ(アイスバーグ・白)
☆災害:熊本市で地震(震度6弱)、タイで大雨洪水、口永良部島で大噴火。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(1月)
□論文「嶺田楓江の生涯と詩業」『新しい漢字漢文教育・第34号』(全国漢文教育学会2002年6月10日)
□書籍『Pocket Drugs 2016』(医学書院2016年1月1日)
□書籍『忘らえぬかも・第10号(20周年記念号)』(大網白里市郷土史研究会2018年4月1日)
□雑誌『日本史の研究263』(山川出版社2018年12月)
□企画展チラシ「蔵の中のワンダーランドⅡ・薫陶学舎と嶺田楓江」(いすみ市郷土資料館2018年11月3日~2019年2月11日)
《民権館歳時記》
☆今年から、平仄の記号(平=○、仄=●、押韻=◎)を変更します。漢詩研究の碩学に敬意を表し、小川環樹著『唐詩概説』所載の記号を踏襲します。
☆「―」は平声(ひょうしょう)、「<」は仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《 》は模範率、( )はフリガナ、※は筆者の注記です。訓読と注釈の活字は新字体にしました。
☆今月は新年の漢詩を鑑賞しましょう。
◆加藤霞石(かとう・かせき)「壬寅元日(じんいんがんじつ)」
1842(天保13、壬寅)年1月元旦
□平仄と押韻(七言絶句・仄起・八庚)《24/28=85.7%》
満枕春風吹夢清 ↓平仄の模範
<<――<<― <<――<<韻
起看遠岫早霞生
<―<<<―― ――<<<―韻
房山陽気最天下
―――<<―< ――<<――<
無数鶯児出谷聲
―<――<<― <<――<<韻
(『玉池吟社詩一集・巻一』1845年)、(『安房先賢遺著全集』1939年)
※赤字は平仄の不規則(許容範囲)。
□訓読
満枕(まんちん)の春風(しゅんぷう)夢(ゆめ)を吹(ふ)き清(す)む
起(おき)て看(み)る遠岫(えんしゅう)早霞(そうか)の生(しょう)ずるを
房山(ぼうざん)の陽気(ようき)天下(てんか)に最(さい)たり
無数(むすう)の鴬児(おうじ)谷(たに)を出(いず)る声(こえ)
※『玉池吟社詩一集』の訓点通りに訓読しました。『安房先賢遺著全集』は訓点の無い白文です。
□注釈
加藤霞石の満40歳の時の七言絶句です。
起句の「春風吹夢(しゅんぷうゆめをふき)」は、新年の夢の中に吹く春風という意味に解釈しました。「清(すむ)」は、「清(きよ)し」又は「清(すが)し」と訓読しても良いでしょう。
承句の「遠岫(えんしゅう)」は遠くの山間を指し、「早霞(そうか)」は朝霞(あさがすみ)と同義です。南房総の新年の風景描写です。
転句の「房山(ぼうざん)」は房総丘陵のことで、千葉県最高峰の愛宕山でさえ408メートルの低山です。“房州の山の低さよ春の雲”(凡一旧句)。
結句の「無数鶯児(むすうのおうじ)」は幾分誇張が有ると思われますが、「鴬(うぐいす)」は新春作の漢詩の常套語です。江戸時代の後期ですから時節は陰暦の正月で、現代の西暦では2月上旬の立春の頃を想定すべきでしょう。
不規則の文字は承句の「起(<)」、転句の「陽(―)」と「最(<)」、結句の「無(―)」で、28字中の24字が規則通りに作詩されています。模範率は85.7%(許容範囲)になります。
押韻は起句の「清(―)」、承句の「生(―)」、結句の「声(―)」で、すべて「下平(かひょう)」の「八庚(はっこう)」に属します。
□加藤霞石・玄章略年譜
・1802(享和2)年
加藤霞石誕生(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
・1823(文政6)年
12月15日、鱸(鈴木)松塘誕生(『安房先賢偉人伝』、『三芳村史』)。
・1828(文政11)年
加藤玄章誕生(『安房医師会誌』、『富山町史』)。
※玄章は霞石の次男。玄章の妻(登代)は松塘の妹。
・1845(弘化2)年
『玉池吟社詩一集・巻一~巻五』発行(同書、『梁川星巌全集第5巻』年譜)。
※嶺田楓江、加藤霞石、加藤権(玄章)、鱸松塘等の漢詩を収載。
・1852(嘉永5)年
3月、加藤淳造誕生(『安房先賢偉人伝』、『千葉県議会史議員名鑑』)。
※淳造の父は玄章、母は登代。
・1866(慶応2)年
加藤霞石編『品石風雅』発行(同書)。
・1873(明治6)年
4月1日、加藤霞石他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
・1877(明治10)年
4月、鱸松塘編『七曲吟社閨媛絶句』発行(同書)
※『七曲吟社閨媛絶句』は貴重な女性漢詩集。川路芳洲は薩摩出身、鱸采蘭(すずき・さいらん)は鱸松塘の長女。鱸蕙畹(すずき・けいえん)は鱸松塘の次女で、加藤淳造と結婚。
・1878(明治11)年
11月2日、重城保に安房四郡(安房・平・朝夷・長狭・)々長の辞令(『重城保日記』)。
・1879(明治12)年
1月20日、重城保「早春次韻加藤玄章(七律)」(『重城保日記』、『青崖詩鈔』)。
5月19日、吉田与兵衛「偶成(七絶)」(『重城保日記』、『報知新聞』)。
8月16日、コレラ患者21名程、布良村の漁民竹槍蓆旗、加藤玄章来談(『重城保日記』)。
・1880(明治13)年
4月26日、『日本閨媛吟藻』版権免許、鱸采蘭(姉)と鱸蕙畹(妹)の漢詩収載(同書、『詞華集・日本漢詩第11巻』)
6月9日、重城保「題霞石翁遺愛石(七絶)」(『重城保日記』、『青崖詩鈔)。
・1881(明治14)年
2月21日、君津三郡(望陀・周准・天羽)々長の内示(『重城保日記』)。
・1882(明治15)年
7月24日、加藤玄章他界(『安房医師会誌』、『富山町史』)。
・1885(明治18)年
9月10日、『七曲吟社詩巻五~巻八』御届、鱸采蘭(姉)と鱸蕙畹(妹)の漢詩収載(同書、『詞華集・日本漢詩第11巻』)
・1898(明治31)年
12月24日、鱸(鈴木)松塘他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』、『三芳村史』)。
・1914(大正3)年
10月13日、加藤淳造他界(『安房先賢偉人伝』、『千葉県議会史議員名鑑』)。
※淳造は医師で自由党代議士。
・1922(大正11)年
12月16日、加藤登代他界(『安房先賢偉人伝』、『安房医師会誌』)。
※登代は松塘の妹で玄章の妻、淳造の母。
◆高木抑斎(たかぎ・よくさい)「甲寅元日(こういんがんじつ)」
1854(安政元、甲寅)年1月元旦
□平仄と押韻(七言律詩・平起・十一眞)《54/56=96.4%》
終年不肯眯紅塵 ↓平仄の模範
――<<<―― ――<<<―韻
恰到今朝眼更新
<<――<<― <<――<<韻
山気纔晴還帯雨
―<―――<< <<―――<<
花香驟暖欲薫人
――<<<―― ――<<<―韻
池頭浅草穿軽屐
――<<――< ――<<――<
竹裡啼鴬岸角巾
<<――<<― <<――<<韻
回首頻驚風信早
―<―――<< <<―――<<
唫邉己動二分春
――<<<―― ――<<<―韻
甲寅元日 抑斎貞
(掛け軸)
※赤字は平仄の不規則(二字のみ)。
□訓読
終年(しゅうねん)紅塵(こうじん)に眯(くら)むを肯(がえん)ぜず
恰(あたか)も今朝(こんちょう)に到(いた)りて眼(まなこ)更(さら)に新(あらた)なり
山気(さんき)纔(わずか)に晴(は)れ還(ま)た雨(あめ)を帯(お)ぶ
花香(かこう)驟(にわか)に暖(あたたか)く人に薫(かお)らんと欲(ほっ)す
池頭(ちとう)浅草(せんそう)軽屐(けいげき)を穿(は)き
竹裡(ちくり)啼鴬(ていおう)岸(きし)の角巾(かくきん)
首(こうべ)を回(めぐ)らせば頻(しきり)に風信(ふうしん)の早(はや)きに驚(おどろ)く
唫辺(ぎんぺん)己(おの)ずから動(うご)く二分春(にぶんしゅん)
甲寅(こういん)元日(がんじつ)抑斎(よくさい)貞(てい)
※訓読の先例が無いので筆者の責任で訓読をおこないました。「掛け軸」については『村の医者どん(展示図録)』(館山市立博物館1908年)等を参照しました。
□注釈
1854(安政元)年は、ペリー来航の翌年です。医師の高木抑斎(士幹)は1814(文化11)年に誕生し、 1877(明治10)年7月28日に他界しました(『安房医師会誌』)。墓碑は館山市高井にあります。
第1句の「紅塵(こうじん)」は浮世の塵のことで、「俗塵」と同義です。「眯(くら)む」は「眩(くら)む」と同義です。
第3句と第4句は対句で、「山気(さんき)纔(わずか)に晴(は)れ」と「花香(かこう)驟(にわか)に暖(あたたか)く」が対応しています。「花香」は花の香りです。
第5句と第6句も対句で、「池頭(ちとう)浅草(せんそう」と「竹裡(ちくり)啼鴬(ていおう)」が対応していると言えるでしょう。「竹裡啼鴬」は旧暦新春の常套詩句です。「屐(げき)」は木製の履物のことです。
第7句の「風信(ふうしん)」は、ペリーの再来航と「日米和親条約」締結をめぐる風聞を指していると思います。
第8句の「二分(にぶん)」は、「春分点と秋分点」のことか、「二分する」という動詞か決めかねました。詩意としては、身の回りで春(孟春・仲春・季春)が立春(陰暦1月上旬)から春分(陰暦2月下旬)へ自ら転化するということでしょう。
この七言律詩は平仄の規定を厳守して作詩されており、ほぼ完璧(96.4%)な構成です。押韻は第1句の「塵(―)」、第2句の「新(―)」、第4句の「人(―)」、第6句の「巾(―)」、第8句の「春(―)」で、すべて上平(じょうひょう)の十一眞(じゅういちしん)に属します(小川環樹『唐詩概説』)。
律詩(56文字)をこれだけ仕上げるには、熟達した技巧が必要であると思います。高木抑斎は、新都東京で漢詩結社「七曲吟社(ななまがりぎんしゃ)」を主宰した鱸松塘(すずき・しょうとう)と深い交流が有りました。
高木抑斎(士幹・貞)の漢詩は『七曲吟社詩・巻一~巻四』(1879年)に収載されています。同書は『詞華集・日本漢詩第11巻』(汲古書院1984)に再録されました。
抑斎(士幹)の人柄は、「墓誌銘」に「米艦(べいかん)浦賀(うらが)洋に出没し、志士憤激す。而(しか)れども幕吏(ばくり)因循(いんじゅん)偸安(とうあん)、朝旨(ちょうし)を奉ぜず。士幹(しかん)幕吏の姦(かん)を悪(にく)み・・・幽憤子(ゆうふんし)と号す(原漢文)」と記述されています(蒲生重章『褧亭文鈔(けいていぶんしょう)・下巻』1897年)、(『安房医師会誌』1974年)。
抑斎(士幹)は悲憤慷慨型の文人医師であったようです。長男の高木静斎は明治前期に立憲改進党に入党し、島田三郎や田中正造と交流しています(後述予定)。
□高木抑斎・静斎略年譜
・1814(文化11)年
高木抑斎誕生(『安房医師会誌』)。
・1843(天保14)年
高木静斎誕生(『安房医師会誌』)。
※静斎は抑斎の長男。
・1877(明治10)年
7月28日、高木抑斎他界(『安房医師会誌』)。
・1879(明治12)年
7月26日、『七曲吟社詩巻一~巻四』御届、高木抑斎漢詩収載(同書)
・1884(明治17)年
12月20日、蒲生重章『近世偉人伝・義集第2編』版権免許、「高木抑斎傳」記載(同書)。
1889(明治22)年
・8月23日、三尾重定『房陽奇聞、一名民事ノ魁(ぼうようきぶん・いちめいみんじのさきがけ)』出版、高木静斎「題三尾先生新著房陽奇聞(七言絶句)」掲載。
1898(明治31)年
・9月20日、蒲生重章『褧亭文鈔・初編』印刷出版、「高木士幹墓誌銘」記載(同書)。
1907(明治40)年
・3月25日、高木静斎『西遊漫唫(漢詩集)』発行(同書)。
1918(大正7)年
・12月13日、高木静斎他界(『安房医師会誌』)。
◆高木静斎「壬戌元旦(じんじゅつがんたん)」
1862(文久2、壬戌)年1月元旦
□平仄と押韻(七言律詩・仄起・十一眞)《46/56=82.1%》
瑞雪擁門松竹新 ↓平仄の模範
<<<―<<― <<――<<韻
眼前風物又逢春
<―<<<―― ――<<<―韻
閲世空思文武政
<<<<―<< ――<<――<
傷時頻慕禹湯臣
―――<<<― <<――<<韻
賊騎紛々馳郭裏
<<―――<< <<―――<<
胡塵漠々捲江濱
――<<<―― ――<<<―韻
満腔慷慨向誰訴
<―<<<―< ――<<――<
獨酌屠蘇暫展顰
<<――<<― <<――<<韻
壬戌元旦 静斎山人
(掛け軸)
※赤字は平仄の不規則。
□訓読
瑞雪(ずいせつ)門(もん)を擁(いだ)き松竹(しょうちく)新(あらた)なり
眼前(がんぜん)風物(ふうぶつ)又(ま)た春(はる)に逢(あ)う
世(よ)を閲(けみ)すれば空(むな)しく思(おも)う文(ぶん)武(ぶ)の政(まつりごと)
時(とき)を傷(いた)みて頻(しきり)に慕(した)う禹(う)湯(とう)の臣(しん)
賊騎(ぞくき)紛々(ふんぷん)として郭裏(かくり)に馳(は)す
胡塵(こじん)漠々(ばくばく)として江濱(こうひん)に捲(ま)く
満腔(まんこう)の慷慨(こうがい)誰(たれ)に向(むか)いて訴(うった)えん
獨酌(どくしゃく)屠蘇(とそ)暫(しばら)く顰(ひん)を展(の)ばさん
壬戌元旦(じんじゅつがんたん)静斎(せいさい)山人(さんじん)
※訓読の先例が無いので筆者の責任で訓読をおこないました。
□注釈
高木静斎は1843(天保14)年に誕生し。 1918(大正7)年12月13日に他界しました。
第1句の「瑞雪(ずいせつ)」はお目出度い日の降雪を言います。
第3句と第4句は対句で、「文(ぶん)武(ぶ)」と「禹(う)湯(とう)」が対応しています。「文」王は中国の周の建国者です。「武」王は「文」王の子です。「禹」は夏の始祖で、「湯」は殷の王です。静斎は、古代の聖人と幕末の政治を比較し慨嘆しています。
第5句と第6句も対句で、「賊騎(ぞくき)紛々(ふんぷん)」と「胡塵(こじん)漠々(ばくばく)」が対応しています。「紛々」は入り乱れること、「漠々」は埃が舞い上がることです。
第8句の「顰(ひん)を展(の)ばさん」は、正月なので息抜きをしようという意味です。
押韻は第1句の「新(―)」、第2句の「春(―)」、第4句の「臣(―)」、第6句の「濱(―)」、第8句の「顰(―)」で、すべて上平(じょうひょう)の十一眞(じゅういちしん)に属します。静斎の七言律詩と前掲の抑斎の七言律詩は同一の押韻です。抑斎と静斎は医師で、父子です。
(2019年1月)
《掲示板》
◎2月の行事
2月 3日(日):節分
2月 5日(水):税理士相談会(確定申告)
2月11日(月):地域行事
2月13日(水):国際交流
2月17日(日):地域行事
2月20日(水):新味噌仕込み(資料館栽培有機大豆)
2月27日(水):国際交流
◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、春菊(平作)
☆植付:馬鈴薯
☆花々:水仙(白・黄)、椿(白・紅・桃)
☆災害:アメリカ東部大寒波、北海道に-30度の大寒波。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(2月)
□書籍『論語のことば』(明徳出版社2012年3月20日)
□通信『評論№213』(日本経済評論社2019年1月31日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□企画展チラシ「蔵の中のワンダーランドⅡ・薫陶学舎と嶺田楓江」(いすみ市郷土資料館2018年11月3日~2019年2月11日)
□古書目録『永森書店第33号』(2019年2月)
《民権館歳時記》
☆今月は房総の著名な民権家で、漢詩人でもあった板倉中(いたくら・なかば)の漢詩を鑑賞しましょう。
☆『春峯詩稿(しゅんぽうしこう)』は合計361首の漢詩(七言絶句、七言律詩、七言古詩、五言絶句、五言律詩、五言古詩)を収載しています。目次には337首と記載されていますが、総計すると361首になります。※目次の詩題に複数首を列記したものが有ります。
☆内訳は以下の通りです。七言絶句や七言律詩の多いことが分かります。
○七言絶句:280首
○七言律詩: 37首
○七言古詩: 7首
○五言絶句: 14首
○五言律詩: 18首
○五言古詩: 5首
※合 計:361首
☆「春峯(峰)」は板倉の雅号です。漢詩集(刊本)は「峯」の活字を使用しています。経歴については下記の略年譜を参照して下さい。
☆平仄の記号は、「―」が平声(ひょうしょう)、「<」が仄声(そくせい)、「韻」は押韻です。《 》は模範率、( )はフリガナ、※は筆者の注記です。訓読と注釈の活字は新字体にしました。
☆先ず、弊館所蔵の「掛け軸」から始めましょう。
◆板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「勿来惟古之一(なこそいこのいち)」
年月不詳(古書店購入、落款有)
□平仄と押韻(五言絶句、平起、上平十五刪)《19/20=95.0%》
老松青一帯 ↓平仄の模範
<--<< ---<<
薄暮月斑々
<<<-- <<<-韻
落葉蟲聲裡
<<--< <<--<
秋風渡古関
--<<- --<<韻
勿来惟古之一 春峰並書
(弊館所蔵「掛け軸」)
※赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(十五刪)。
□訓読
老松(ろうしょう)一帯(いったい)に青(あお)し
薄暮(はくぼ)に月(つき)斑々(はんぱん)たり
落葉(らくよう)虫声(ちゅうせい)の裏(うち)に
秋風(しゅうふう)古関(こかん)を渡(わた)る
勿来(なこそ)惟古(いこ)之(の)一(いち) 春峰(しゅんぽう)並書(へいしょ)
※訓読の先例が無いので筆者の責任でおこないました。
□注釈
平仄の規定を厳守した作品で、模範率は19/20=95.0%です。押韻は承句の「斑(―)」、結句の「関(―)」で、「上平(じょうひょう)」の「十五刪(じゅうごさん)」に属します。
20年程前に古書店から購入しました。書体は板倉中自筆の書簡(南房総市加藤家文書、茂原市齊藤家文書、稲敷市高城家文書)と同一です。揮毫年代は不詳ですが、大正期に福島県を旅行し、「勿来関(なこそのせき)」を詠んだものが『春峯詩稿』の中に二首有ります(後述)。
☆次に板倉の初期作品を鑑賞しましょう。
◆板倉春峯(いたくら・しゅんぽう)「明法学舎口占(めいほうがくしゃこうせん)」
1878年冬
□平仄と押韻(七律、仄起、上平六魚)《52/56=92.9%》
身迹何時得晏如 ↓平仄の模範
-<--<<- <<--<<韻
風奔露宿遠郷閭
--<<<-- --<<<-韻
胸中猶蓄憂時志
--<<--< --<<--<
机上常繙経国書
<<--<<- <<--<<韻
雲片朝朝来又歇
-<---<< <<---<<
月明夜夜満還虚
<-<<<-- --<<<-韻
寒燈一穂幽窓下
--<<--< --<<--<
夢繞南総旧草廬(蘆)
<<-<<<- <<--<<韻
(『春峯詩稿』1934年)
※赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(六魚)。第8句の押韻は「廬(六魚)」が正しく、「蘆(七虞)」では不統一(誤植か?)。
□訓読
身迹(しんせき)何(いず)れの時(とき)か晏如(あんじょ)を得(え)ん
風(かぜ)奔(はし)り露(つゆ)宿(やど)りて郷閭(きょうりょ)遠(とお)し
胸中(きょうちゅう)猶(なお)憂時(ゆうじ)の志(こころざし)を蓄(たくわ)うるがごとく
机上(きじょう)常(つね)に繙(ひもと)く経国(けいこく)の書(しょ)
雲片(うんぺん)朝朝(ちょうちょう)来(き)たりては又(また)歇(や)む
月明(げつめい)夜夜(よよ)満(み)ちては虚(こ)に還(かえ)る
寒燈(かんとう)一穂(いっすい)幽窓(ゆうそう)の下(もと)
夢(ゆめ)は繞(めぐ)る南総(なんそう)旧(ふる)き草廬(そうろ)
※訓読の先例が無いので筆者の責任でおこないました。
□注釈
1877(明治10)年5月19日、大井憲太郎は東京府知事に「明法学舎(めいほうがくしゃ)」の開業願を提出しています(『都市民権派の形成』吉川弘文官1998年)。板倉中(春峯)は同舎において代言人(弁護士)資格取得の勉強をしました。
平仄の模範率は52/56=92.9%で、律詩としては大変完成度の高い数字です。平仄の逸脱は第1句の「身」、第5句の「雲」、第6句の「月」、第8句の「総」の四字のみです(許容範囲)。七言律詩56文字中の52文字が平仄の規定通りです。
第3句と第4句は対句で、「胸中」と「机上」、「憂時」」と「経国」が対応しています。第5句と第6句も対句で「雲片」と「月明」、「朝朝」と「夜夜」が対応しています。若々しく非凡な対句です。板倉中の維新開化期の「憂時志」は、その後の民権派代言人としての活動に繋がったと言えるでしょう。
板倉は少年時代に「韻目(いんもく)」に関する蔵書を学習したと記述しています(板倉中『経世危言』東京博文館1902年)。押韻は上平(じょうひょう)の「六魚」なので、第8句の「蘆(七虞)」が不統一になります。「蘆」は誤植ではないかと考え、筆者の責任で「廬」に訂正しました。
◆富松繰江(とみまつ・そうこう)「遺吟(いぎん)」
1886年10月5日頃(推定)
☆板倉中は「加波山事件」被告の富松正安(繰江)の弁護人を務めました。「繰江(そうこう)」は富松の雅号です。房総の民権家が匿(かくま)った富松の漢詩を検討し、人物像について考えてみましょう。
☆『加波山事件関係資料集』(三一書房1970年)には、富松の31首の漢詩(五絶2首、七絶27首、七律1首、七古1首)が収載されています。
□平仄と押韻(七絶、平起、下平八庚)《23/28=82.1%》
是非顚倒任人評 ↓平仄の模範
<--<<-- --<<<-韻
一片丹心如火明
<<--<<- <<--<<韻
誰識孤囚満腔血
-<--<-< <<---<<
澆成膏雨湿蒼生
--<<<-- --<<<-韻
(関戸覚蔵『東陲民権史』養勇館1903年)
※赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(八庚)。
□訓読
是非(ぜひ)顚倒(てんとう)人(ひと)の評(ひょう)に任(まか)す
一片(いっぺん)の丹心(たんしん)火明(ひあかり)の如(ごと)し
誰(たれ)か識(し)る孤囚(こしゅう)満腔(まんこう)の血(ち)
澆(そそ)ぎて膏雨(こうう)と成(な)り蒼生(そうせい)を湿(うるお)さん
※訓読に当たっては、林基・遠藤鎮雄編『加波山事件』(東洋文庫1966年)を参照しました。結句は他の獄中詩を勘案し、筆者の責任で独自に訓読しています。
□注釈
起句に2文字、転句に3文字の平仄の不規則が見られます。承句と結句には逸脱が無く規定通りです。平仄の模範率は23/28=82.1%になります。
七言詩の平仄の規則に、「二四不同(にしふどう)」(第二字と第四字は逆の平仄)、「二六対(にろくつい)」(第二字と第六字は同一の平仄)がありますが(小川環樹『唐詩概説』)、「遺吟」は概ね順守されています。転句に平仄の乱れがあるのは、獄中の辞世の故でしょうか。
押韻は起句の「評(―)」、承句の「明(―)」、結句の「生(―)」で、すべて下平(かひょう)の「八庚(はっこう)」に属します。
起句の「是非(ぜひ)顚倒(てんとう)」と、結句の「膏雨(こうう)と成(な)り蒼生(そうせい)を湿(うるお)さん」は、富松の末期(まつご)の民権主義を象徴する詩句と言えます。
「膏雨(こうう)」は恵みの雨を意味し「慈雨(じう)」と同義です。「蒼生(そうせい)」は「人民」又は「民衆」を意味します。
◆富松繰江(とみまつ・そうこう)「獄中詩(ごくちゅうし)」、寒川(さむがわ)監獄
1884年10月~1886年10月5日の間
□平仄と押韻(七絶、仄起、下平七陽)《26/28=92.8%》
有約辞家向総房 ↓平仄の模範
<<--<<― <<--<<韻
秋風吹艦水汪洋
--<<<-- --<<<-韻
遺心啻為波山月
--<<--< --<<--<
金蘭良朋在故郷
----<<- <<--<<韻
(『加波山事件関係資料集』三一書房1970年)
※赤字は平仄の不規則(許容範囲)、青字は押韻(七陽)。
□訓読
約(やく)有(あ)り家(いえ)を辞(じ)し総房(そうぼう)に向(む)かう
秋風(しゅうふう)艦(かん)を吹(ふ)き水(みず)汪洋(おうよう)たり
遺(のこ)れる心(こころ)啻(ただ)波山(ばさん)の月(つき)に為(な)るのみ
金蘭(きんらん)良朋(りょうほう)故郷(こきょう)に在(あ)り
※訓読は『平群村誌』と『富山町史』の先例(異稿)を参照しましたが、筆者の責任で独自に訓読しています。
□注釈
平仄の不規則は結句の二字「金(―)」と「蘭(―)」のみで、模範率は26/28=92.8%になります。押韻は「房(―)」、「洋(―)」、「郷(―)」で、すべて「下平(かひょう)」の「七陽(しちよう)」に属します。七言絶句の規則を厳守した完成度の高い獄中詩です。
このような教養人であったが故に、房総の多くの民権家が援護の手を差しのべたのでしょう。富松正安の父は下館(しもだて)藩主に仕えた漢学者でした(『自由民権〈激化〉の時代』日本経済評論社2014年)。
起句の「約(やく)有(あ)り」は、広域蜂起の際の相互援助について共通理解があったということを意味します。
承句の「水(みず)汪洋(おうよう)たり」は、東京湾の逃避行であったと考えます。「汪洋」は、広くゆったりしていることを意味します。
転句の「波山(ばさん)」は茨城県の加波山のことです。年下の同志であった玉水嘉一の「掛け軸」には、「樺山」と墨書されています。
結句の「金蘭(きんらん)」は、中国の『易経』や日本の『懐風藻』に見える「金蘭の契(ちぎ)り」(友情の固い絆)という故事を踏まえています。「良朋(りょうほう)」は下館の自由党員仲間を指しているでしょう。
下館藩出身の士族であった玉水嘉一(無期徒刑、1894年特赦放免)は、剣術道場を営みながら生涯にわたって富松正安(繰江)の菩提を弔いました。
(2019年2月)
《掲示板》
◎3月の行事
3月 3日(日):雛祭り
3月 5日(水):新味噌仕込み②(資料館栽培有機大豆)
3月13日(水):国際交流
3月17日(日):漢詩資料調査(出張)
3月21日(木):春分の日、墓参
3月27日(水):予約客様
◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、春菊(平作)、蕗の薹(豊作)、芹(平作)
☆植付:馬鈴薯、大根
☆花々:水仙(白・黄)、椿(白・紅・桃)、サンシュユ(黄)
☆災害:3・11東日本大震災8周年
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(2月)
□書籍『論語のことば』(明徳出版社2012年3月20日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□古書目録『永森書店第33号』(2019年2月)
《掲示板》
◎4月の行事
4月 7日(日):地域行事
4月10日(水):免許証講習(ゴールド)
4月14日(日):講演(館長出張)
4月17日(水):国際交流
4月20日(土):味噌天地返し①
4月21日(日):地域行事
4月25日(木):健康診断
4月29日(日):予約客様(県外)
◎民権林園
☆収穫:三つ葉(平作)、タラの芽(平作)、芹(平作)、髙菜(平作)、筍(平作)、蕗(平作)
☆作業:馬鈴薯土寄せ、春菊播種、枝豆播種、玉葱草取り、ニンニク草取り、タケノコ掘り
☆花々:岩躑躅(薄紫)、八重桜(桃)、サンシュユ(黄)、辛夷(白)、プラム(白)、蒲公英(黄)、チューリップ(紅・黄色・白)、空豆の花(白・紫)、グリーンピースの花(白)
☆災害:マニラ記録的水不足、東日本季節外れの大雪
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(4月)
□『忘らえぬかも第5号・10周年記念号』(大網白里市郷土史研究会2008年4月1日)
□『忘らえぬかも第8号』(大網白里市郷土史研究会2014年4月1日)
□『忘らえぬかも第10号・20周年記念号』(大網白里市郷土史研究会2018年4月1日)
□雑紙『ちば・教育と文化№92』(千葉県教育文化研究センター2019年1月31日)
□会報『秩父№188』(秩父事件研究顕彰協議会2019年1月)
□山武市教育委員会編『北田定男家文書調査報告書(2)史料編』(山武市教育委員会2019年2月26日)
□雑誌『日本史の研究264』(山川出版2019年3月)
□会報『秩父№189』(秩父事件研究顕彰協議会2019年3月)
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)
《掲示板》
◎5月の行事
5月 5日(日):予約客様
5月 7日(火):薫陶忌
5月10日(金):国際交流
5月12日(日):予約客様
5月20日(土):三省忌
5月24日(金):国際交流
◎民権林園
☆収穫:筍(豊作)、三つ葉(平作)、タラの芽(平作)、蕗(平作)、レタス(平作)
☆作業:馬鈴薯土寄せ、玉葱草取り、ニンニク草取り、里芋植付
☆花々:バラ(ピエールドロンサール・白桃)、(クィーンエリザベス・桃)、(シンデレラ・赤)、(サマースノウ・白)
☆災害:東日本に寒気団(雹・竜巻)、宮崎県に地震(震度5)、与那国島で50年に1度の大雨。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(5月)
□書籍『ガイドブック・五日市憲法草案』(日本機関紙出版センター、2015年3月31日)
□書籍『立憲政体改革の急務・島田邦二郎史料集成』(大阪民衆史研究会、2018年12月23日)
□紀要『自由民権32』(町田市立自由民権資料館、2019年3月31日)
□雑誌『幕末・維新期の町田 民権ブックス32』(町田市立自由民権資料館、2019年3月31日)
□紀要『自由民権記念館紀要№24』(高知市立自由民権記念館、2019年3月)
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)
《掲示板》
◎6月の行事
6月 1日(土):梅干し漬込(5キロ)
6月 6日(木):国際交流
6月 8日(土):予約客様
6月 9日(日):巨峰忌(安田勲顕彰忌)
6月13日(木):梅干し漬込(5キロ)
6月14日(金):国際交流
6月19日(水):創立記念日(7周年)
:桜桃忌
6月20日(木):予約客様
6月30日(日):地域行事
◎民権林園
☆収穫:馬鈴薯(豊作)、玉葱(豊作)、大蒜(平作)
☆作業:里芋植付、梅干し
☆花々:バラ(ピエールドロンサール・白桃)、(クィーンエリザベス・桃)、(シンデレラ・赤)、(サマースノウ・白)、南瓜(黄)
☆災害:富士山が季節外れの積雪、新潟で震度6強の地震。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(6月)
□『町田市古文書目録第2集・村野常右衛門関係史料目録』町田市教育委員会、2019年2月15日
□企画展チラシ「没後100年板垣退助の志」(高知市立自由民権記念館、2019年4月27日~6月30日)
□企画展チラシ「森洋子の空想化石博物館」(城西国際大学水田美術館、2019年5月14日~6月22日)
(2019年6月)
《掲示板》
◎7月の行事
7月 7日(日):「民権館通信」発行(第13号)
7月11日(木):予約客様
7月12日(金):国際交流
7月13日(土):迎え火(地域民俗行事)
7月15日(月):送り火(地域民俗行事)
7月26日(金):国際交流
7月27日(土):資料調査
7月28日(日):梅干し天日干し(三日三晩)
7月31日(水):企画展準備
◎民権林園
☆収穫:馬鈴薯(豊作)、青紫蘇(不作)
☆作業:甘藷草取り、梅干天日干、大豆植付
☆花々:泰山木(白)、バラ(クィーンエリザベス・桃)(シンデレラ・赤)、南瓜(黄)、木槿(白・紫)、夾竹桃(赤)。
☆災害:九州南部、四国で大雨洪水(降雨1000㎜超)、関東で記録的な日照不足、中国遼寧省で巨大竜巻被害、米国カリフォルニア州で大地震による停電と火災、ギリシャで大雨洪水、米国ルイジアナ州で巨大水上竜巻発生。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(7月)
□会報『秩父№190』秩父事件研究顕彰協議会2019年5月
□会報『福島自由民権大学通信№26』福島自由民権大学事務局2019年6月30日
□『日本の古本屋・永森書店目録第34号』2019年6月
□高知市立自由民権記念館編『要覧・2018年度』高知市教育委員会2019年6月
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日
《掲示板》
◎8月の行事
8月 1日(木):第6回企画展(9月30日まで)
8月 4日(日):予約客様
8月 9日(金):国際交流
8月15日(木):終戦記念日
8月23日(金):国際交流
8月25日(日):予約客様
◎民権林園
☆収穫:胡瓜(豊作)、ミニトマト(豊作)、オクラ(平作)、赤紫蘇(平作)
☆作業:梅干天日干、瓶詰め(完成)
☆花々:南瓜(黄)、木槿(白・紫)、夾竹桃(赤・白)、バラ(サマースノウ・白)
☆災害:インド・パキスタンで大雨洪水被害、浅間山が噴火し警戒レベル3、中国で大雨洪水、アマゾンで大規模森林火災
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(8月)
□『久留里郷(創刊号)』千葉県君津郡久留里郷友会1928年12月26日
□会報『秩父№191』秩父事件研究顕彰協議会2019年7月
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日
□チラシ「浮世絵でよむ、南総里見八犬伝」城西国際大学水田美術館2019年9月17日~10月12日
《民権館歳時記》
☆8月は、明治の大嘗祭の指針であった云われる伊能頴則(いのう・ひでのり)著『大嘗祭儀通覧(だいじょうさいぎつうらん)』(如蘭社1913年)について考えましょう。当館所蔵の和本です。伊能は香取市出身で香取神宮の宮司も務めました。
☆同書の全体構成は以下の通りです。( )は引用者の補記で、目次の(一)~(九)には「稲実」と「御飯」に関する用語を書き抜いてみました。
◆『大嘗祭儀通覧』構成
○短歌、宮内大臣源千秋(みなもとの・ちあき)
○大嘗祭儀通覧序、大正二年十一月、文学博士井上賴囶(いのうえ・よりくに)
○「大嘗祭日憶京師、会澤安(あいざわ・やすし)」、大正癸丑(みずのと・うし)十一月朔、後学邨岡良弼(むらおか・りょうすけ)
○凡例
○目次
(一)大嘗祭(おおにえのまつり)由来(ゆらい)
用語:新穀、酒饌(しゅせん)、稲、飯(いい)、稲穂、米、粟、早稲(わせ)、爾倍須(にべす)
(二)国(くに)郡(こおり)卜定(ぼくじょう)大祓(おおはらい)奉幣(ほうへい)
用語:酒饌
(三)御禊(みそぎ)河原(かわら)頓宮(とんぐう)行幸(みゆき)鹵簿(ろぼ)
用語:造酒(みき)、散米、五穀(いつつのたなつもの)
(四)散斎(さんさい)致斎(ちさい)供忌火御飯(いむびのおんいいをきょうする)
用語:御飯(おんいい)
(五)抜穂(ぬきほ)ノ供神物(ぐしんのもの)斎院(さいいん)黒白酒(くろしろき)
用語:稲、束稲(そくのいね)、米、抜穂田(ぬきほだ)、稲実卜部(いなみのうらべ)、造酒兒(さかつこ)、多明酒波(ためつさかなみ)、稲実公(いなみのきみ)、稲実斎屋(いなみのゆや)、御歳神(みとしがみ)、初穂、飯、御飯稲、多明米(ためつよね)、斎鍬(ゆぐわ)、斎斧(ゆおの)、黒白酒料米(くろしろしゅりょうまい)
(六)大嘗宮(おおにえのみや)
用語:斎鍬、衾(ふすま)、稲実卜部
(七)卯日(うのひ)ノ儀(ぎ)
用語:稲輿(いなこし)、多明物(ためつもの)、飯筥(いいのはこ)
(八)豊楽院(ほうらくいん)辰日(たつのひ)ノ儀(ぎ)
用語:造酒、衾
(九)巳(み)午(うま)両日(りょうじつ)之(の)儀(ぎ)
用語:直会(なおらい)
○伊能先生小伝
○奥付
(伊能頴則著『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)
☆同書執筆の基本姿勢について、伊能は「凡例」において次のように記述しています。句読点は引用者。
◆凡例
・此(この)書(しょ)延喜式(えんぎしき)を以て本書とし、貞観儀式(じょうがんぎしき)、西宮記(さいきゅうき)、北山抄(ほくざんしょう)、江次第(ごうしだい)等を参照。
・貞享(じょうきょう)御再興(ごさいこう)以来の儀は、大嘗会(だいじょうえ)具釈(ぐしゃく)、同(どう)便蒙(べんもう)等。
(伊能頴則『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)
☆平安時代の『貞観儀式』、源髙明著『西宮記』、藤原公任著『北山抄』、大江匡房著『江(家)次第』は、有職故実(ゆうそくこじつ)に関する古典的著作です。江戸時代の『大嘗会具釈』は荷田春満(かだのあずままろ)の著作、『大嘗会便蒙』は荷田在満(かだのありまろ)の著作です。明治期に編纂された百科全書の『古事類苑』には、これらの文献の要点が網羅されています。
☆『大嘗祭儀通覧』の「抜穂(ぬきほ・ぬいぼ)」に関する記述の中に、祭儀に従事する女性の役職が記載されています。「造酒兒(さかつこ)」という女性だけの役職について考えてみましょう。※句読点と( )は引用者。
◆造酒兒
神語(しんご)、佐可都古(さかつこ)当郡の大少領ノ女、未嫁(いまだかさず)卜食(うらはみ)のものを取て是に充(あつ)。
☆『延喜式』の記述をそのまま引用した説明です。大領(たいりょう・おおきみやつこ)は郡司の長官です。少領(しょうりょう・すけのみやつこ)は郡司の次官です。「未嫁」とあるので、「造酒兒」は地域の有力者の娘で独身の女性です。「当郡(とうぐん・とうこおり)」という規定は、明治天皇の大嘗祭では適用されなかったのでしょう。
☆「造酒兒」は、大嘗祭では女性の重要な職掌です。『延喜式』には「抜穂」から「大嘗宮」の設置まで、詳細に規定されています。※( )の訓読は引用者。
◆抜穂
・造酒兒等屋一宇(さかつことう、おくいちう)
・臨田抜之先造酒兒(たにのぞみこれをぬく、まずさかつこ)
・造酒兒執斎鍬始掃地(さかつこゆぐわをとり、はじめてちをはく)
・造酒兒先取斎斧始伐木(さかつこ、まずゆおのをとり、はじめてきをきる)
・造酒兒先苅(さかつこ、まずかる)
・御井者造酒兒始掘(みいはさかつこ、はじめてほる)
(『交代式・弘仁式・延喜式前篇』吉川弘文館1989年)
☆酒造(しゅぞう)だけでなく、あらゆる作業の先頭に「造酒兒」が位置づけられているのは、大変興味深い史実です。明治の大嘗祭の「抜穂」で、「造酒兒」が甲斐国巨摩郡と安房国長狭郡へ派遣された記録は残っていません。
2019年8月
《掲示板》
◎9月の行事
9月 1日(日):第6回企画展開催中、9月30日まで
9月 2日(月):亀太郎忌
9月 4日(水):予約客様
9月 7日(土):資料調査(県内)
9月14日(土):臨時休館(台風被害復旧作業)
9月15日(日):臨時休館(台風被害復旧作業)
9月21日(土):復旧作業
9月22日(日):復旧作業
9月28日(土):予約客様
9月29日(日):予約客様
◎民権林園
☆収穫:胡瓜(豊作)、ミニトマト(豊作)、茄子(平作)青紫蘇(平作)、オクラ(平作)
☆作業:玉葱種蒔き、大豆草取り
☆花々:百日草(白・赤)、曼珠沙華(紅)、大豆の花(白・薄紫)、胡瓜の花(黄)、茄子の花(紫)、オクラの花(薄黄)
☆災害:九州(長崎・佐賀・福岡)で大雨洪水被害、アマゾンで大規模森林火災、バハマで巨大ハリケーン、台風15号のため千葉県で大規模停電、断水、家屋被災
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(9月)
□嶺田楓江『海外新話(巻之一)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之二)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之三)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之四)』和本1849年発行(複製)
□嶺田楓江『海外新話(巻之五)』和本1849年発行(複製)
□チラシ「町田の近代と青年」町田市立自由民権資料館2019年7月13日~9月29日
□『地方史情報139』岩田書院2019年9月発行
□チラシ「ゆき・すきサミット The Summit of YUKI・SUKI for DAIJO-SAI festival」明治神宮会館2019年9月21日12時~15時30分
□チラシ「浮世絵でよむ、南総里見八犬伝」城西国際大学水田美術館2019年9月17日~10月12日
□チラシ「全国自由民権研究顕彰連絡協議会(全国みんけん連)第1回大会」東京都豊島区西巣鴨2019年10月20日13時~17時20分
《民権館歳時記》
☆9月は大嘗祭に従事した女性の役割について考えてみましょう。『大嘗祭記、二』(宮内庁書陵部蔵)に、明治の大嘗祭に実際に従事した女官の人名が記載されています。※( )は引用者。
◆女官人名
陪膳采女(ばいぜんのうねめ)、鴨脚(いちょう)克子
後取采女(しんどりのうねめ)、壬生(みぶ)広子
采 女、山口益子
采 女、戸田晴子
采 女、堀内素子
采 女、虫鹿良子
采 女、世続峰子
采 女、入谷容子
采 女、古谷建子
采 女、岡本高子
(『大嘗祭記、二』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)
☆11月17日の「悠紀次第」の「第四鼓」には、「采女」の給仕の内容について記載されています。大嘗祭の研究では注目されて来なかった点なので、紹介しましょう。
◆第四鼓
陪膳采女(ばいぜんのうねめ)一人、楊枝筥(ようじばこ)ヲ執ル
後取采女采女(しんどりのうねめ)一人、御巾(きん)筥ヲ執る
采女一人、神簀薦(すごも)ヲ執ル
同一人、御食薦(すごも)ヲ執ル
同一人、御箸(はし)筥ヲ執ル
同一人、平手(ひらて)筥ヲ執ル
同一人、御飯(おめし)筥ヲ執ル
同一人、生魚(いきうお)筥ヲ執ル
同一人、干魚(ひうお)筥ヲ執ル
同一人、菓子(かし)筥ヲ執ル
(中略)
右(みぎ)神饌具(しんせんぐ)陪膳後取(ばいぜんしんどり)ノ采女(うねめ)二人、簀子(すのこ)ニ候シ次第ニ取テ之ヲ奉ス。
(『大嘗祭記二』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)
☆采女が上記の序列順に給仕したのであれば、①楊枝(鴨脚克子)、②巾(壬生広子)、③簀薦(山口益子)、④食薦(戸田晴子)、⑤箸(堀内素子)、⑥平手(虫鹿良子)、⑦御飯(世続峰子)、⑧生魚(入谷容子)、⑨干魚(古谷建子)、⑩菓子(岡本高子)ということになります。明治前期の女官については、残念ながら名著の高群逸枝著『女性の歴史』(講談社文庫)や村上信彦著『明治女性史』(講談社文庫)にほとんど記述がありません。
☆古代の「采女」について、高校生のための『日本史用語集』(山川出版2018年)は、「国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)などの地方豪族が朝廷に貢進した女性、大王(おおきみ)の身辺の雑役に奉仕」と簡潔に説明しています。
☆采女に関する有名な史料は『日本書紀』(720年)の「改新の詔」(646年)です。第四項に次のような記述があります。
◆凡(およ)そ采女(うねめ)は、郡(こおり)の少領(すけのみやつこ)より以上(かみつかた)の姉妹(いろも)、及(およ)び子女(むすめ)の形容(かお)端正(きらきら)しき者を貢(たてまつ)れ。従丁(ともよほろ)一人、従女(ともめわらわ)二人。一百戸(ももへ)を以て、采女一人が粮(かて)に充(あ)てよ。
(『日本書紀、四』岩波文庫1995年)
☆『万葉集』には各地から献上された采女に関する短歌や長歌が収載されています。
(1)采女・・・巻第一、51 ※志貴皇子作
(2)采女安見児(うねめやすみこ)・・・巻第二、95 ※藤原鎌足作
(3)吉備津采女(きびのつのうねめ)・・・巻第二、217 ※柿本人麿作
(4)駿河采女(するがのうねめ)・・・巻第四、507、巻第八、1420
(5)因幡八上采女(いなばのやかみのうねめ)・・・巻第四、535 ※安貴王
(6)豊島采女(としまのうねめ)・・・巻第六、1026、1027
(7)陸奥国前采女(みちのくのくにさきのうねめ)・・・巻第十六、3807 ※葛城王作
☆斎藤茂吉『万葉秀歌』(岩波新書)は、上記(1)と(2)を採録して鑑賞しています。志貴皇子(しきのみこ)の短歌を読んでみましょう。
◆婇女(うねめ)の袖(そで)吹(ふ)きかへす明日香(あすか)風(かぜ)都(みやこ)を遠(とお)みいたづらに吹く
(斎藤茂吉『万葉集秀歌、上巻』岩波新書1938年)、(中西進訳注『万葉集、一』講談社文庫1978年)、(門脇禎二『采女、献上された豪族の娘たち』中公新書1965年)
☆短歌の解釈は以下の通りです。
◆明日香に来て見れば、既に都も遠くに遷(うつ)り、都であるなら美しい采女等の袖をも翻(ひるがえ)す明日香風も、今は空しく吹いている。
(斎藤茂吉『万葉集、上巻』岩波新書1938年)
☆「婇女の」を「タヲヤメノ」と訓読した例もあるようです。斎藤茂吉は、「ウネメラノ」と5音で訓読してはいかがかと記述しています。
☆『大嘗祭記、三』(写本、宮内庁書陵部蔵)は、女官の役職と等級を次のように記載しています。※( )は引用者。
◆女官人名、等級
・命婦(みょうぶ) 八等
鴨脚克(特)子
壬生広子
・女嬬(にょうじゅ) 十二等
山口益子
戸田晴子
堀内素子
虫鹿良子
世続峰子
入谷容子
古谷建子
・権女嬬(ごんのにょうじゅ) 十三等
岡本高子
(『大嘗祭記、三』写本1871年、宮内庁書陵部蔵)
※上掲資料に拠ると「特」は「克」の誤記。
☆鴨脚克子(いちょう・かつこ)は京都の下鴨神社宮司の娘で、皇女和宮(かずのみや)に随行して江戸城大奥に居たことがあります。和宮は孝明天皇の妹ですが、14代将軍の徳川家茂に嫁いだ女性です。鴨脚克子は明治維新後、宮内省の女官(命婦)として勤務しました(『明治維新人名辞典』吉川弘文館、『日本女性人名辞典』日本図書センター)。
☆参考までに『大嘗祭儀通覧』に記述されている女性の職掌を列挙しておきます。
◆女性の職掌名
(三)御禊河原頓宮行幸鹵簿
用語:女蔵人(にょくろうど)、女嬬(にょうじゅ)、采女(うねめ)、氏女(うじめ)
(五)抜穂ノ供神物、齋院ノ黒白酒
用語:造酒兒(さかつこ)、歌女(うため)、織女(おりめ)、潜女(かずきめ)
(六)大嘗宮
用語:猨女(さるめ)、命婦(みょうぶ)、女嬬(にょうじゅ)
(七)卯日ノ儀
用語:采女(うねめ)、十姫(とおひめ)、後取の采女(しんどりのうねめ)、最姫(もひめ)、次姫(じひめ)
(伊能頴則著『大嘗祭儀通覧』如蘭社1913年)
☆愛用の電子辞書(精選版日本国語大辞典)に拠ると、「女蔵人(にょくろうど)」は宮中の下級の雑用係で、「氏女(うじめ)」は有力氏族が宮廷に上進した同族の子女です。「潜女(かずきめ)」は文字通り海中に潜る仕事をした女性で、「猨女(さるめ)」は神楽の舞等に従事した女性です。「最姫(もひめ)」は陪膳采女(ばいぜんのうねめ)、「次姫(じひめ)」は後取采女(しんどりのうねめ)のことでしょう。
☆浅井虎夫著『新訂・女官通解(にょかんつうかい)』(講談社学術文庫1985年)は、「命婦(みょうぶ)」について、「女子にして、四位、五位の位階を有する者」と記述しています。「女嬬(にょうじゅ)」については、「雑役、御所内の掃除、油さし」に従事した女性と記述しています。
(2019年9月)
《掲示板》
◎10月の行事
10月 1日(火):災害ボランティア来訪、復旧作業(5名)
10月 6日(日):災害ボランティア来訪、復旧作業(8名)
10月12日(土):地域行事
10月13日(日):栗邨忌(加藤淳造顕彰)
10月19日(土):予約客様
10月20日(日):出張(県外)
10月22日(火):物外忌(齊藤自治夫顕彰)
10月24日(木):資料調査(県内)
◎民権林園
☆収穫:甘藷(不作)、富有柿(不作)
☆作業:台風罹災復旧、屋根補修等
☆花々:秋桜(白・桃・紫)、金木犀(橙、芳香)、薊(薄紫)
◎災害と異常気象
▲台風18号で高知県に大雨洪水、韓国南部で大雨洪水被害、千葉県南部の被災地に雷雨。
▲台風19号で東日本に暴風大雨洪水被害、7県71河川で堤防決壊、鴨川市に震度4の地震。
▲低気圧と台風21号の影響で千葉県、茨城県、福島県で大雨洪水被害、被災地に追い打ち。鴨川市で1時間に85.5㎜の記録的集中豪雨。
▲アラビア海で観測史上最強のサイクロン(915hPa)発生、アフリカのタンザニア北東部で大雨被害。
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(10月)
□チラシ「浮世絵でよむ、南総里見八犬伝」城西国際大学水田美術館2019年9月17日~10月12日
□高知市自由民権記念館だより『自由のともしびVOL87』2019年9月30日
□雑誌『日本史の研究266』山川出版社2019年9月
□総合文芸誌『安曇野文芸№40』安曇野文芸の会2019年10月1日
□チラシ「全国自由民権研究顕彰連絡協議会(全国みんけん連)第1回大会」東京都豊島区西巣鴨2019年10月20日13時~17時20分
□チラシ「九十九里浜の網主画家・斎藤巻石」城西国際大学水田美術館2019年11月19日~12月14日
《民権館歳時記》
☆9月下旬に館山市で講演の予定でしたが、台風被災のため延期になりました。10月は引き続き「采女」について考えてみたいと思います。
☆門脇禎二『采女-献上された豪族の娘たち』は、古代の「采女」の心情を考察しています。史料は『万葉集』に採録された短歌と長歌です。同書の全体の構成は以下の通りです。
◆『采女』目次
序 章 悲しき天皇讃歌
第1章 采女の起り
(中国の采女、伝承のなかの采女、雄略朝と采女、采女造・采女臣)
第2章 白鳳の采女
(采女の制度、吾はもや安見児得たり、伊賀采女宅子、采女挽歌)
第3章 平城京の采女
(後宮と采女、采女の悲恋、采女「徴発」、阿修羅像―工人の憧憬、采女の「出世」)
第4章 采女の没落
(采女と巫女、采女と女官の抗い、采女と神事・節会、新制の采女、采女と女房)
終 章 采女の行方
(門脇禎二『采女、献上された豪族の娘たち』中公新書1965年)
☆同書第1章では、「采女」の出身地域について次のように記述しています。
◆雄略朝と采女
大和朝廷は、鎮圧した豪族からあらためて人身御供を求めた。(中略)早い時期の采女の出身地は、伊賀にしても吉備にしても、五世紀末葉いらいいくつかの反乱が起こった地域と一致するのは偶然ではないと思う。もっともこの時期の伊勢国に反乱が起こった記事はないが、伊勢は、五世紀中葉いらい六世紀前半にかけて、大和朝廷の東国経営の前進根拠地として重要性を増してきたところで、がんらい地方神であった伊勢神宮はこのころから大王家の尊崇をうけるようになったことも明らかにされている。
(前掲『采女、献上された豪族の娘たち』中公新書1965年)
☆同書は鎮圧地域の「人身御供(ひとみごくう)」と東国経営の「前進(線)根拠地」という点を強調しています。地方神であった「伊勢神宮」の祭神(さいじん)についても重要な論点であるでしょう。明治大嘗祭に従事した「采女」に、上記のような古代的要素が残存していたかどうか、筆者は寡聞(かぶん)にして知りません。
☆同書第2章では、「駿河采女(するがのうねめ)」の心情を吐露した短歌について記述しています。『万葉集』巻第四、507の短歌です。斎藤茂吉『万葉秀歌』(岩波新書)はこの短歌を取り上げていませんので、中西進『万葉集〈一〉』(講談社文庫)から訓読と現代語訳を引用しましょう。
◆駿河采女の歌一首
訓読:敷栲(しきたえ)の枕ゆくくる涙にそ(ぞ)浮宿(うきね)をしける恋の繁(しげ)きに
現代語訳:やわらかな枕からこぼれおちる涙が溢れて、私は水に浮かぶ思いで寝ていることよ。絶えぬ恋の苦しさで。
(中西進『万葉集〈一〉』講談社文庫1978年)
☆「敷栲」は寝床に敷いて寝る布を意味し、「枕」、「床」等の枕詞としてしばしば使用されます。「白栲(しろたえ)」は白布のことで、持統天皇の御製歌(おおみうた)の用例が有名です(『万葉集』巻第一、28)。
☆作家であり、優れた翻訳家でもあるリービ英雄氏は、駿河采女の短歌を次のように英訳しています。※( )は中西進氏の現代日本語訳。
◆Poem by the courtmaiden of Suruga (駿河采女の歌一首)
I slept afloat (私は水に浮かぶ思いで寝ていることよ)
on tears that streamed (こぼれおちる涙が溢れて)
from my well-woven pillow ― (やわらかな枕から)
so intense was my longing. (絶えぬ恋の苦しさで)
(リービ英雄訳 The Ten Thousand Leaves 1987)
☆「采女」をcourtmaiden、「敷栲(しきたえ)の枕」をfrom my well-woven pillow、「恋の繁(しげ)きに」をso
intense was my longingと英訳しています。woven は weaveの過去分詞で、「編まれた」または「織られた」という意味です。
☆門脇禎二は「采女」の心魂を次のように読み取っています。
◆采女挽歌
もちろん采女とて人間である。とくに年若い采女たちのうちには、天皇の眼をおそれ、貴族らの眼をおそれながらも、ひそかな恋に身を灼(や)いたものもあろうし、宮廷の生活のうちに、いい寄る貴族に適度にとりおうたものもあろう。しかもそれを、上手ではないがいちおう歌に詠む風流(みやび)を身につけたものも出はじめてはいた。
(前掲『采女、献上された豪族の娘たち』中公新書1965年)
☆門脇禎二は白鳳時代の貴族の但馬皇女(たじまのひめみこ)、安倍女郎(あべのいらつめ)、笠女郎(かさのいらつめ)と駿河采女(するがのうねめ)の短歌を比較検討して、「采女たちには、恋心をひたすらにうちつけ、思いのままに恋を詠いあげるような立場は与えられていなかった」と指摘しています。しかし、伊賀采女(いがのうねめ)のように、大友皇子(壬申の乱の敗者)の生母となった女性もいました。
(この項続く)
(2019年10月)
《掲示板》
◎11月の行事
11月 7日(木):資料調査
11月10日(日):地域の避難訓練
11月15日(土):予約客様
11月20日(水):資料調査
11月23日(土):地域行事
11月24日(日):地域行事
11月30日(土):予約客様(団体)
12月 1日(日):出張講演「大嘗祭と地域」(館山市)
◎民権林園
☆収穫:甘藷(不作)、富有柿(不作)
☆作業:台風罹災復旧
☆花々:薊(薄紫)、バラ(クィーンエリザベス,桃)
◎災害と異常気象
▲桜島で噴火
▲千葉県で大雨と落雷
▲イタリアのベネチアで記録的高潮
▲オーストラリアで大規模火災、コアラ被災
《民権館歳時記》
☆11月は、東京朝日新聞の「千葉県の模範村主基村」(『明るい里暗い農村』所載)というルポについて考えてみましょう。
☆主基村(すきむら)という村名の由来について次のように記述しています。
◆明治大帝御即位後の明治四年、大嘗祭の御大典を挙げさせ給(たま)うに当り、安房国(あわのくに)長狭郡(ながさぐん)を以て主基の国に御治定(ごじてい)せられ、御齋田(ごさいでん)を本村(ほんそん)の仲ノ坪(なかのつぼ)に卜定(ぼくてい)せらるる光栄に浴した。
(東京朝日新聞経済部編『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
☆東京朝日新聞の記者は、主基村の経済的発展について次のように記述しています。
◆産業組合の力で貧弱町村を蘇(よみがえ)らせた例は他にも少なくあるまいが、主基村の如きはけだしその最たるものであると思われる。今の村長川名傳(かわな・でん)氏は又産業組合長をも兼ねているが、氏がまだ助役をつとめた十五六年前のこと、村農会(のうかい)の斡旋で鶏卵の共同販売と肥料の共同購買を始めたのが源となって現在の主基信用、販売、購買、利用組合が生まれた。
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
◆それが今日では組合員五百七十二人、出資一万三千百八十円となり、組合はその可成り手広い事務所の外に農業倉庫三棟、木炭倉庫一棟、作業所二棟、鶏卵共同処理所一棟を所有し一日も村民の生活になくてはならぬものとなり、組合が休めば村民の活動が止まるというほどの発達を遂ぐるに至ったのである。(中略)主基産業組合の発達について中にも学ぶべき点は理論より実行第一主義ということである。
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
☆同書は主基産業組合発展の特徴を、「①販売部の活躍」、「②農事改良に懸命」、「③畜牛四百四十頭」、「④肥料代が少ない」、「⑤実用化した教育」、「⑥女生徒のおどり」の六項目に絞って記述しています。主基村のこの時代は、筆者の祖父母、両親、叔父叔母の世代が生きた昭和前期です。
☆同書は「販売部の活躍」について次のように記述しています。
◆購買部の主要品は何といっても稲作肥料である。物価漸落(ぜんらく)に鑑みて需要期の直前となって全購連(ぜんこうれん)から仕いれ、農会と協力して共同配合をなし廉価に配布する、その他食料品や一般雑貨でも緊縮の折柄なるべく購入を手控えたから、損失は少しもなかったとのことだ。
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
☆一村だけの産業組合では限界が有ります。昭和恐慌期に主基村が財政的に豊かであったのは、「明治乳業」という工場が村内に有るためであったと東京朝日新聞の記者は考えたようです。
◆主基の村家(そんか)には現在四百四十六頭を飼っているが、ここの蓄牛に刺激を与えたのは大正八(1919)年、明治製菓会社の練乳(れんにゅう)工場がこの村に設立されたことである。この明治製菓なる一大消費工場を有することは主基の蓄牛業に取って非常に有利な立場を与えた。練乳工場は工場を中心とする二里(にり)の区域から毎朝牛乳を集める、主基(すき)、大山(おおやま)、吉尾(よしお)、丸村(まるむら)、田原(たばら)、東條(とうじょう)、西條(さいじょう)、曽呂(そろ)の付近諸村に収乳(しゅうにゅう)所を設け、そこへ毎朝村人が持ち込む乳をトラックで集め工場へ運ぶ。
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
※『明治乳業五十年史』、『安房の昭和』を参照。
☆同書には、全国における昭和恐慌期の様々な乗り越え方がルポされています(合計41ヵ村)。
・小作人の天下(群馬県新田郡強戸村)
・三春駒と葉煙草(福島県田村郡大越村)
・昆布の共産制(青森県下北郡東通村尻屋)
・天草(てんぐさ)で無税(静岡県賀茂郡白浜村)
・農業学校と出稼ぎ(富山県下新川郡大布施村)
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
☆豊かな成功例も、貧しい失敗例も有る中で、上記のルポは特筆に値するように思います。
☆安房郡主基村の「実用化した教育」については、全村一丸となった教育実践が行われていました。指導者の村長は第2次世界大戦後、占領軍によって戦争責任を問われ公職追放になりました。
◆小学校には小学生自治の模擬組合を作り、組合長、理事の選挙から販売をしたり帳面づけまで一切児童にやらしている。仕いれだけは先生方がやっているが学校用品の売上は一年に千四五百円に上り、その利益で各学級の文庫を作り運動具を購入したりしている。(中略)この学習を受けた小学生がやがて本物の組合員となるのだから、将来の発展が嘱望される訳である。
(前掲『明るい里暗い農村』日本評論社1931年)
☆前述したことですが、主基村は農村経済更生運動において、1931(昭和6)年に千葉県知事から表彰され、1935(昭和10)年には農林大臣、内務大臣から表彰されました。『明るい里暗い農村』には、主基産業組合の大きな「農業倉庫」(火災で焼失)や、「産業組合歌の舞踊」等の写真も掲載されています。
(2019年11月)
《掲示板》
◎12月の行事
12月 1日(日):出張講演「大嘗祭と地域」(館山市コミセン)
12月 7日(土):予約客様
12月22日(日):地域行事
12月25日(水):民権館通信第14号投函
12月28日(土):楓江忌(嶺田楓江顕彰)
12月29日(日):看雨忌(村田峰次郎顕彰)
12月30日(月):みんけん館煤払い
12月31日(火):原稿〆切(雑誌)
◎民権林園
☆収穫:大豆(不作)、ヤーコン(不作)、甘藷(不作)
☆作業:空豆植付、グリーンピース植付
☆花々:薊(薄紫)、バラ(クィーンエリザベス,桃)、山茶花(赤)
◎災害と異常気象
▲インド南部で大雨洪水
▲東アフリカのウガンダとブルンジで大雨洪水
◎寄贈寄託資料・連絡通信コーナー(12月)
□通信『評論№215』日本経済評論社2019年10月
□『アジア民衆史研究会会報第45号』2019年11月13日
□会報『秩父№193』秩父事件研究顕彰協議会2019年11月
□チラシ「九十九里浜の網主画家・斎藤巻石」城西国際大学水田美術館2019年11月19日~12月14日
□チラシ「第23回常民文化研究講座・国際研究フォーラム、交差する日本農村研究」神奈川大学日本常民文化研究所、国際常民文化研究機構共催2019年12月14日