2015年後期


《掲示板》
・7月 1日(水):『民権館通信№5』発送
・7月 7日(火):七夕,梅干し赤紫蘇(実生)本漬け
・7月11日(土):特別企画展「焼跡の女性論説と雑誌」公開
          →8月30日(日)まで
・7月23日(木):大暑
・7月21日(火):梅干し天日干し(三昼夜)
・7月31日(金):手作り味噌試食



☆今年はプラムが豊作なので、理事長がプラムジャムとプラムゼリーを作り、筆者は久し振りにプラム酒を仕込みました。愛用の電子辞書に依ると、プラム(西洋酢桃)の薬効は貧血、高血圧症、便秘、老化防止のようです。

☆7月23日(木)は大暑で、翌日は芥川龍之介の河童忌です。芥川は次のような破調の句を詠んでいます。

◎兎も片耳垂るる大暑かな         餓鬼
 ウサギモ カタミミタルル タイショカナ

☆代表的な夏野菜の胡瓜、茄子、トマトが食卓に並ぶ季節になりました。鈴木真砂女(鴨川市出身)に茄子を詠んだ佳句があります(『季題別・鈴木真砂女全句集』角川学芸出版2010年)。

◎ふるさとや支へ木しかと茄子実り     真砂女
 フルサトヤ ササエギシカト ナスミノリ

◎原爆忌強火もて茄子焼きにけり      同上
 ゲンバクキ ツヨビモテナス ヤキニケリ

☆今夏は胡瓜も豊作です。朝もぎのモロキュウは格別です。無農薬胡瓜と休耕田大豆の無添加味噌を食卓に並べます。自分で自分のことを誇るのを「手前味噌」と言いますが。

☆「食の医学」(電子辞書)に依れば、胡瓜の薬効は高血圧症、脳梗塞・心筋梗塞予防、抗ガン作用のようです。

☆高浜虚子は焼跡の時代、信州に疎開していました。1946(昭21)年の夏、「胡瓜もみ」と「女房」の名句を詠んでいます。

◎客を好む主や妻や胡瓜もみ       虚子
 キャクヲコノム アルジ(ヌシ)ヤツマ(サイ)ヤ キュウリモミ

◎取敢ず世話女房の胡瓜もみ.       同上
 トリアエズ セワニョウボウノ キュウリモミ



☆所蔵本の羽仁五郎著『自伝的戦後史』(講談社1976年初版)を、これまで何度繰り返し読んだか分からない。

☆戦後70年の特別企画展「焼跡の女性論説と雑誌」を開催するに当たって、高群逸枝著『女性の歴史[上・下]』(講談社文庫1972年)を座右の書としたが、今月は『自伝的戦後史』を更に再読する。

☆7月と8月は、歴史家羽仁五郎の「戦争批判」について検証する。(   )と句読点は引用者。

◎さて、日本のこのあいだの戦争はいつ始まったのか ― 理論的にいって二つの事件から始まっている。一つは中国に対して日本が「対支二十一ヵ条」の条約(1915年)を強制したときからである。
(『自伝的戦後史』講談社1976年30P)

◎治安維持法(1925年)によって国内の人権を蹂躙したことが、このあいだの戦争の第一の原因だ。国内で人権を無視しているから、国外の人の人権を無視することになるのだ。
(同書31P)

☆100年前の「対支(華)二十一ヵ条」と90年前の「治安維持法」について再検討する。

☆「対支(華)二十一ヵ条」について、A.スメドレー著『偉大なる道[上・下]』(岩波書店1955年初版)は、朱徳(第八路軍総司令)の談話を次のように記述する。

◎日本は、1915年早々に、あの悪名に鳴りひびく秘密二十一箇条を中国につきつけて、中国を日本の保護領としてしまおうとした。(中略)袁世凱は、日本が新帝制をみとめるという条件で、その二十一箇条に調印したのである。また袁は、他の列強にも、帝制承認と引きかえに、圧倒的な権利権益をあたえようとした。
(『偉大なる道―朱徳の生涯とその時代―[上]』岩波書店1955年5月120P)

☆スメドレーは米国の傑出した女性作家であった。

☆中国の「第八路軍」については、色川大吉著『廃墟に立つ・昭和自分史【1945-1949】』(小学館2005年初版)が、三笠宮(元中支派遣軍陸軍参謀)の「中国戦線で出会ったもっとも手強い敵八路軍の勇敢さ、倫理性におどろき、その出所を歴史的に究明したかった」(同書123P~124P)という所感を記述する。

☆蔵書の中で「対支(華)二十一ヵ条」の条文を掲載するのは、歴史学研究会編『世界史史料10・二〇世紀の世界Ⅰ』(岩波書店2006年)や同会編『日本史史料(4)・近代』(岩波書店1997年)である。「旅順大連」の「租借」と「南満州鉄道」の「期限」を「九十九ケ年延長」する等の条文がある。

☆当館所蔵の『世外井上公傳第五巻』(原書房1968年復刻)に、「対支(華)二十一ヵ条」の外交的な失敗を批判する次のような記述がある。世外井上公(セイガイ・イノウエ・コウ)は長州出身の元老井上馨(カオル)である。(    )、仮名遣い、句読点は引用者。

◎反感を激発し、排日の風潮を強化し、日支親善の上に永久の禍根を遺したことは、実に償うべからざる損失といわねばならぬ。
(『世外井上公傳第五巻』原書房1968年402P)

◎公(井上馨)は、今回の日支交渉は我が百年の大計を誤るものとして、加藤外交の失敗を痛憤(後略)。
(同書402P)

☆井上馨は「三井の番頭さん」などと揶揄されたが、その生涯は奇想天外、波瀾万丈で、凡百の洞察力ではなかったように思う。1915(大4)年1月時点における日本の首相は大隈重信、外相は加藤高明である。

☆受贈図書の松本健一著『評伝・北一輝Ⅰ~Ⅴ』(中公文庫2014年7月~12月初版)は、北一輝の「対支(華)二十一ヵ条」批判を次のように記述する。

◎袁世凱政権は日本軍の山東進駐に抗議したけれど、大隈内閣は5月7日、「対支二十一ヵ条」の最後通牒を発した。(中略)北はこういった日本の帝国主義的侵略、その現れとしての「対支二十一ヵ条の要求」に徹底して反対した。
(『評伝・北一輝Ⅲ』中公文庫2014年9月219P)

☆北一輝著『支那革命外史』には、「二十一ヵ条の対支交渉」を「遺憾限りなし」とする文言がある。

☆英国の歴史家EHカーは、第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦間期の1939(昭14)年に出版した『危機の二十年』THE TWENTY YEARS' CRISIS 1919-1939 において、時代の全般的な特徴を次のように記述した。尚、引用英文は An Imprint of HarperCollins Publishers。

◎1919年から1939年への20年間にわたる危機には独自の特質がみられた。前半の10年に夢みられた期待が、後半10年のわびしい諦めへ変転し、現実に向けてはさして考慮をはらうこともしなかったユートピアから、そのような思考の要素をすべて厳しく排除するリアリティへ急降下していった。
(『危機の二十年 1919-1939』岩波文庫1996年1月406P)

◎The characteristic feature of the crisis of the twenty years between 1919 and 1939 was the abrupt descent from the visionary hopes of the first decade to the grim despair of the second, from a utopia which took little account of reality to a reality from which every element of utopia was rigorously excluded.

☆訳書の「夢みられた期待」は、原書では visionary hopes である。grim despair を「わびしい諦め」と日本語訳している。

☆“utopia”と“reality”は同書のキーワードである。

☆THE TWENTY YEARS' CRISIS 1919-1939 の初版が刊行されたのは、1939(昭14)年9月3日の第2次世界大戦勃発(英仏対独宣戦)直後である。歴史的刻印の深い著作である。初版序文に、「ドイツの国家社会主義の支配者たち National Socialist rulers of Germany 」への言及がある。

☆EHカーは、1982(昭57)年11月に他界し(満90歳)、同時代を生きた羽仁五郎は、1983(昭58)年6月に追いかけるようにして他界した(満82歳)。

☆着眼大局、着手小局。一意奮闘、千挫不撓。

☆第2次世界大戦はどのように始まったのか。何処と何処の戦争だったのか。羽仁五郎は1938(昭13)年9月29日のミュンヘン会談(協定)を重要な転換点として着目した。

◎ミュンヘン会談で、独占資本のファシズムと資本主義的な民主主義とが連合して、ソ連と戦うはずで始まった第2次世界大戦が、いつの間にか(中略)資本主義的な民主主義と共産主義的な民主主義とが独占資本のファシズムと戦うという戦争に結着していったのだ。
(『自伝的戦後史』講談社1976年135P)

☆ミュンヘン協定は、ドイツ(ヒトラー)、イギリス(チェンバレン)、フランス(ダラディエ)、イタリア(ムッソリーニ)が、チェコスロヴァキアの「ズデーテン領域のドイツへの割譲」を合意した文書である(前掲『世界史史料10 二〇世紀の世界Ⅰ』所載)。

☆フランスのボーヴォワールの『女ざかり[上・下]』(紀伊國屋書店1963年)と『或る戦後[上・下]』(紀伊國屋書店1965年)は、第2次世界大戦の戦前・戦中・戦後を回想した長編自伝文学である。ミュンヘン会談(協定)が行われた時期の哲学者サルトルやメルロー=ポンティの行動及びボーヴォワール自身の不安を率直に記述する。

◎《きりもなくヒトラーに譲歩することはできない》とサルトルは私にいった。しかし彼もたとえ頭では戦争を承知するつもりになっていたにせよ、やはり、ほんとうに戦争が始まることを思うと厭でたまらなかったのだ。私たちは暗い毎日を過ごした。
(『女ざかり[上]』紀伊國屋書店1963年5月313P)

☆1939(昭14)年8月23日、ヒトラーのドイツとソ連は「独ソ不可侵条約・秘密議定書」(前掲『世界史史料10 二〇世紀の世界Ⅰ』所載)に調印し、翌月の9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。ボーヴォワールは憤慨する。

◎ある朝、私たちは新聞で独ソ不可侵条約の締結を知った。なんというショック! スターリンは、ヒトラーに全ヨーロッパを勝手に攻撃させる気なのだ。(中略)スターリンにとって、全ヨーロッパのプロレタリアートがどうなろうと知ったことではないのだ。
(『女ざかり[下]』紀伊國屋書店1963年7月10P)

☆羽仁五郎著『自伝的戦後史』は、「独ソ不可侵条約」をめぐる知識人の動向について自説を展開する。

◎この独ソ不可侵条約は、インテリが共産主義から離れていった始まりだ。(中略)インテリが総崩れになってしまった。
(『自伝的戦後史』講談社1976年123P)

☆日本(近衛首相・松岡外相)とソ連(スターリン)が「日ソ中立条約」に調印したのは1941(昭16)年4月13日である。条文には「第三国ヨリノ軍事行動」に対する「中立」とある(前掲『世界史史料10 二〇世紀の世界Ⅰ』所載)。

☆同年6月22日、独軍は条約を破棄しソ連に侵攻する。激戦の末に独軍がスターリングラードで降伏したのは、翌1947(昭17)年2月2日である。

☆羽仁五郎著『自伝的戦後史』は、次のように回顧する。

◎ヒトラーはスターリンに敗けたといっても過言ではなかろう。先にレニングラードに入って、レニングラードが陥落していたら、ソビエトの国民にあれだけ戦う気力が出たかどうかは疑問だ。
(『自伝的戦後史』講談社1976年126P)

☆中国の朱徳(第八路軍総司令)は、1943(昭18)年2月に発表した論文において、ナチスドイツ軍敗北の理由を次のように分析する。少し長いがスメドレーの記述から引用する。

◎ナチス・ドイツは、人民の力の最高度の動員と発展とをもたらす革命戦争の特殊な性質を理解していなかった。ロシア赤軍が、ナチス・ドイツ軍の優秀な装備を圧倒することができたのは、このためである。スターリングラードの勝利 ― 枢軸軍三十三万を包囲して九万一千を捕虜にし残りは戦闘でせん滅した ― も、これによって説明しうるのだ。中国はロシア赤軍に十分学ばなければならない。
(『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[下]』岩波書店1955年5月168P)

☆羽仁五郎著『自伝的戦後史』は、朱徳のようにはロシアの「人民の力」と「革命戦争の特殊な性質」を指摘しなかったように思う。

☆羽仁五郎は、日本の重臣の牧野伸顕等と比較し、英国首相チャーチル等の「レッド・ザン・デッド Red than Dead 」という外交方針を称賛する。

☆皇軍は紅軍に負けた。陸軍軍人であった皇族参謀(前出)が戦後に慄然として語ったと云う、「勇敢」で、高い「倫理性」を保ち、「最も手強い」第八路軍はどのように発生し拡散したか。スメドレーの記述を年次順に検証する。

☆団塊世代の筆者、遅ればせながら還暦を過ぎての再手習いである。

☆『偉大なる道[下]』の第7巻「上坑の歌」、第8巻「紅色方陣」、第9巻「長征」、第10巻「歴史との出あい」に記述された、「貧乏人の軍隊」である「紅軍(八路軍)」の要点を抜粋する。

☆年次は1929(昭4)年、場所は「東固台地」である。※「東固台地」は江西省、井岡山の東方。「上坑」は福建省の南西部。

◎つぎはぎだらけのだぶだぶのズボンに、短い上衣、わらじに、変てこな形をした種々様々の帽子という、極貧のいでたちだった。
(同書第7巻「上坑の歌」2P)

◎彼らにとっては、人生とは、労苦と窮乏、不安と抑圧の連続以外のなにものでもなかった。大ていのものが文盲だった。
(同書第7巻「上坑の歌」2P)

◎朱徳も毛沢東も、あるいはほかのどの指揮者も、兵士たちと同じかっこうをしていたので、まったく区別がつかなかった。
(同書第7巻「上坑の歌」3P)

☆朱徳と毛沢東が井岡山で合流したのは、前年の1928(昭3)年5月であった。毛沢東が朱徳に「会いにやってきた」と云う(『偉大なる道[上]』第6巻「土地革命の開始」)。

◎土地革命の二つの主流が結びつく。このささやかな会合こそ、中国史上最大の出来事の一つとなったのである。
(同書第6巻「土地革命の開始」248P)

☆当館所蔵の『抗日解放の中国 ― エドガー・スノーの革命アルバム(新装版)』(サイマル出版会1996年)は、スノー夫人が編集した著作である。紅軍、朱徳、毛沢東等の写真を多数掲載する

☆中国近現代史を通史的に描いた、近年の石川禎浩著『革命とナショナリズム1925-1945』は、「紅軍」の成立について次のように記述する。

◎1928(昭3)年4月には、南昌蜂起軍の残兵2000人が朱徳に率いられて井岡山に合流し、中国工農紅軍第四軍が編成された。
(『革命とナショナリズム1925-1945』岩波新書2010年10月113P)

(2015年7月)



《掲示板》
・8月 3日(月):浩鳴顕彰忌(佐久間吉太郎,1946年永眠)
・8月 6日(木):原爆忌(広島)
・8月 8日(土):立秋
・8月 9日(日):原爆忌(長崎)
・8月15日(土):終戦記念日(70周年)
・8月25日(火):総洲顕彰忌(桜井静,1905年永眠)
・8月30日(日):特別企画展「焼跡の女性論説と雑誌」最終日



《民権館歳時記》


☆所蔵図書の中に高浜虚子著『六百句』(青柿堂版1947年2月初版)があります。戦後の虚子自選句集です。序文に「これは昭和16年から、昭和20年迄の句の中から選んだ」と記述されています。

☆1945(昭20)年8月の句も収録されています。

◎秋蝉も泣き蓑虫も泣くのみぞ     虚子
 アキセミ(シュウセン)モ ナキミノムシモ ナクノミゾ

◎敵といふもの今は無し秋の月     同上
 テキトイウ モノイマワナシ アキノツキ

◎黎明を思ひ軒端の秋簾見る      同上
 レイメイヲ オモイノキバノ アキスミル

☆三句の後に、「昭和20年8月22日。在小諸。詔勅を拝し奉りて」と付記されています。

☆「秋蝉」の句からは、疎開と戦禍の悲しみが深く伝わって来ます。「蓑虫」の雌は、「父よ父よ」と泣くと云われます。

☆「黎明」の句は、放心状態ながらも戦後へのかすかな光明が感じられます。「秋簾(アキス)」は秋になっても尚掛けてある簾で、何かを暗示しているかのようです。

☆虚子は、1937(昭12)年師走に、歴史的な戦火の句を発表しています(『虚子五句集〈上〉』岩波文庫)。親交のあった子規も漱石も碧梧桐も既に他界していました。敗戦の予感があったかもしれません。

◎砲火そそぐ南京城は炉の如し     虚子
 ホウカソソグ ナンキンジョウワ ロノゴトシ

◎かゝる夜も将士の征衣霜深し     同上
 カカルヨモ ショウシノセイイ シモフカシ

◎行年や歴史の中に今我あり      同上
 ユクトシヤ レキシノナカニ イマワレアリ

☆F.エンゲルスは、「生命」を「他の適当な物質を自分のうちに取り入れ、(中略)古い部分が分解して排泄される」ことと定義します。「死」は「栄養と排泄とのこの絶え間ない交代が、やむ瞬間」と簡潔に定義しています(『反デユーリング論〈上〉』新日本出版社)。生と死の唯物弁証法的規定です。



《書誌データ》


☆8月も、スメドレー著『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[上][下]』に記述された「紅軍」の組織化について検証を続ける。

☆「朱徳年譜」に拠ると、「紅軍 Red Army」の成立は1928(昭3)年5月である。1937(昭12)年8月に「中ソ不可侵条約」が締結され、9月に西北紅軍を国民革命軍の「第八路軍 Eighth Route Army」に改編した。朱徳は「総司令 commander in chief」であった。

☆「第6巻土地革命の開始 Book Ⅵ The Agrarian Revolution Begins」では、朱徳(第八路軍総司令)がスメドレーに、江西省の貧農の生活を具体的かつ平易に語る。1928(昭3)年8月頃の石城県(江西省東部)での見聞である。

☆スメドレーが延安(yenan)で朱徳から聞き取りを始めたのは、1937(昭12)年3月からである。句読点と(   )は引用者。英文は1956(昭31)年刊行の The Great Road - The Life and Times of Chu Teh から引用。

◎江西省の大部分は山地で、作物の収穫はとぼしい。地主は、小作料として収穫の七割をとっていたし、たいていの百姓は、毎年、地主から高利の借金をしなければならなかった。
(『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[上]』岩波書店1955年5月221P)

◎“Most of Kiangsi is mountainous, and the crops are poor. The landlords took as much as seventy percent of the crop as rent, and most peasants had to borrow from them at high rates of interest each year.”

◎彼ら(貧農)は、水をもった鉢に一つまみの塩をとかしておいて、食事のとき、野菜を一切れずつひたして食べていた。みんなやせこけて、半裸で、文盲で、暗い不潔な小屋に住んでいた。
(同書221P)

◎They would dissolve a pinch of salt in a bowl of water and dip their bits of vegetables in it when they ate. They were gaunt, half-naked, and illiterate, and lived in dark insanitary hovels.

☆「第7巻上杭の歌 Book Ⅶ“Now Listen Closely to My Song”」に、石城県の大地主(国民党軍連隊長)を捕虜にした体験談が記述される。「朱徳年譜」に拠ると、1929(昭4)年3月である。第7巻のタイトルは意訳である。

☆小男の連隊長に対する朱徳(紅軍総司令)の尋問はユーモラスで、スメドレーの筆致は実に冴えている。

◎へえー、君が30人の妾をもっているという男かね。君が、寧都の城壁にわたしの首をかけると誓った男なのかねえ!
(『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[下]』岩波書店1955年6月17P)

◎“So you're the fellow with thirty concubines, who swore to mount my head on the walls of Ningtu !”

☆日本語版巻末の「紅軍長征の図」に拠ると、地域は江西省東部の山岳地帯で、寧都(Ningtu)は瑞金(Juikin・長征出発地)に近い。

☆スメドレーは、名作『水滸伝』の世界のように生き生きと描く。残念ながら筆者は同地を史跡探訪したことがなく、ひたすら熟読玩味する。

◎石城のお前の家には、たくさんの小銃や機関銃や、弾薬庫があるし、さらに、農民からまきあげた莫大な米もある。
(同書17P)

◎In your home in Shihcheng are many rifles, machine guns, cases of ammunition, silver, and tons of rice looted from the peasants.

◎お前に、薬品名を書いた一覧表を渡すが、これだけの薬を、上海かどこかの大都市で、買い入れてくるのだ。(中略)全部すんだら、かならず釈放してやる。
(同書18P)

◎We will give you a list of medicine which will have to be bought in Shanghai or some other big city.・・・After that we will set you at liberty.

☆捕虜の釈放条件を実行する相手側の代表者は、「椅子かご sedan chair」に乗ってやって来た女性であった。前出の「小男 the smallest man」の「本妻 chief wife」である。

☆転戦する紅軍兵士にとって、食糧や武器と共に医薬品を確保することが如何に重要であったかが推察される。同書は、毛沢東がマラリアで生死の世界を彷徨ったことも記述する。頑健な朱徳は一度もマラリアに感染したことがなく、希有な体質であった。

☆スメドレーは、朱徳の明晰な農民層分析を記述する。

☆地主(landlord)は人口の1~2%で、土地の70パーセントを所有し支配する。富農(rich peasant)は農民人口の10%で、自分の土地を耕作するが、農業労働者(hired labor, agricultural laborer)も雇っている。小規模な金貸し(usury)もする。

☆中農(middle peasant)は農民の20%で、自分の土地を持ち自ら耕作する。金貸しはしない。貧農(poor peasant)は農民の70パーセントを占め、ほとんど土地を所有しない小作人(tenant)である。

☆各自の体験した艱難辛苦を集会で物語る「訴苦会 Speak Bitterness Meetings」や、「中国史上最大の学習運動 the greatest study movement in Chinese history」に組織的に取組みつつ、次のような土地革命を実践した。

◎この調査を目やすにして、土地をもたない農民や、農業労働者のあいだに、土地の再分配が行われた。自分のもっている土地だけでは、せますぎて、家族をやしなえない中農も、分配にあずかった。
(同書32~33頁)

◎With this survey as a guide, the land was redistributed among the landless peasants and the agricultural laborers. Middle peasants whose holdings were too small to support their families also shared in the distribution.

☆「訴苦会(ソク・カイ)」とは何か。「訴苦会」の描写を一箇所紹介する。

◎つづいて、ひとりの農民兵が、封建的地主とたたかった彼の全家族の悲劇的な運命について、ものがたった。話している間に、彼のほおにはとめどもなく涙がながれ、とうとう話し続けることができなくなった。
(『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[上]』岩波書店1955年5月242P)

◎Next a peasant soldier told of the tragic fate of his entire family who had struggled against the feudal landlords. As he talked the tears ran down his cheeks so that he had to cease speaking.

☆筆者は20代の頃に執筆した拙著『高神村一揆(上)(下)』(崙書房1980年)で、「史的訴苦運動」の緊要性を指摘したことがある。「高神村(タカガミムラ)事件」は昭和恐慌期の1930(昭5)年に、銚子半島の農漁村で起こった民衆騒擾である。この事件はドラマ化され、NHK朝ドラの「澪つくし」で放映された。

☆昭和恐慌期の「32年テーゼ」の初訳者は、河上肇(元京都帝大教授)であった。「農民および漁民の不満が、地方官憲にたいする自然発生的な一揆暴動に転化(千葉県、富山県、等々)」(『綱領問題文献集』)と記述する。千葉県の農漁民の「一揆暴動」は、銚子の「高神村事件」を指すだろう。

☆暉峻衆三著『わが農業問題研究の軌跡』は、暉峻氏の生涯にわたる研究課題の要約と自分史が記述されており、近現代農業史研究の平易な解説書となっている。昭和恐慌期(1929~34年)の対外侵略について次のように記述する。

◎恐慌と長引く不況のもとで、農家と農村の困窮、争議の多発と社会的危機を収束することができないもとで、体制の側は対外侵略と中国の土地の略取を伴う「満州移民」によってその打開を図る政策に打ってでることとなった。それは日本の戦争と破滅への道の開始だった。
(『わが農業問題研究の軌跡』お茶の水書房2013年11月47P)

☆満州事変の勃発は1931(昭6)年9月18日である。

☆大石嘉一郎著『日本資本主義の構造と展開』は、ポレミック(論争的)な経済史研究の集大成であり、特に「構造と段階」規定において優れる。大石も農村救済と満蒙侵略政策の結合を指摘し、1932(昭7)年の「五・一五事件」後に成立した斎藤実内閣を段階的画期とする。

◎軍部主導によって打出された恐慌脱出の方向が、その後の恐慌対策をリードしていくこととなった。その方向が、明確に政府の統一的政策として確定するのは、(中略)犬養内閣が五・一五事件で倒れた後の斎藤内閣(挙国一致内閣)の下でである。
(『日本資本主義の構造と展開』東大出版会1998年5月246P)

☆1941(昭16)年7月、日本軍(皇軍)は「三光作戦(殺しつくし・焼きつくし・掠奪しつくす)“three-all”strategy ― kill all, burn all, loot all」に着手した。

☆それに対し、「長征 The Long March」の後に延安(yenan)へ本拠を移した紅軍は、「自主生産運動 The Production Movement of Self-Sufficiency」に組織の総力を挙げて取り組んだ。

☆朱徳は、米国に帰国したスメドレーに、次のような返事の書簡を送った。(書簡資料は未確認)

◎われわれは精力的な生産運動を開始し、部隊も党その他の機関も、すべてこれに参加した。すべてのひとびとが、農耕、牧畜、紡織、その他われわれ自身と華北人民との自給自足に必要なあらゆる種類の仕事ではたらいた。
(『偉大なる道 ― 朱徳の生涯とその時代 ―[下]』岩波書店1955年6月152P)

◎We began the intensive development of production in which our troops and all our party and other organs participated. Everyone worked either to bring land under cultivation, to increase livestock, to spin and weave, or do every variety of work to make ourselves and the people of north China self-sufficient.)

☆日米開戦後の1942(昭17)年半ば頃、朱徳は紅軍の「自主生産運動」の成功を記念して、民謡風の長詩を作っている。一節のみ抜粋する。(漢詩原文は未確認、英文は THE FIRST〈1956〉EDITION)

◎一年ほど前には荒涼として、
 One year ago this was wasteland
 寝るに廃窟さえもなかった。
 Without even a ruined cave as a sleeping place.
 いま、新しい市場町が栄え、
 New Market towns now flourish,
 穴居が岡の腹にうがたれ群がる。
 Cave homes burrow into the waists of hills.
 下の平野には良穀がみのり、
 Good crops grow on the plains below
 水田には若い稲がかがやく。
 And young rice gleams in water-fields.
 荒地は花さいたのだ。
 The wasteland blossoms.
 戦士は暖衣し、飽食している。
 Fighters are warmly clad, their stomachs flled.
 牧場では肥えた羊や家畜が草をはみ、
 Fat sheep and cattle browse on grassy meadows
 馬欄(マラン)町ではよい紙がつくられる。
 And Malan town makes beautiful papers.
(同書165P)

☆暉峻衆三氏は、前掲『わが農業問題研究の軌跡』で、日中・日米戦争期の日本農民について次のように記述する。

◎国民総動員体制と小作運動に対する規制の一層の強化のもとで、小作争議件数は減少はしたものの、戦争末期に至るまで農地転用による土地引上げなどを巡って、なお相当数の小作争議が発生している(1940年3,165件、1944年2,169件)。
(『わが農業問題研究の軌跡』お茶の水書房2013年11月53P)

☆1940(昭15)年の総農家戸数は548万戸、農業就業人口は3,248万人であった(『数字でみる日本の100年』国勢社2000年)。

☆朱徳のように農民運動と結びつき土地革命(貧農と中農へ土地再分配)を実践した軍人将校の例は、日本においては皆無であった。日本陸海軍の一部青年将校は、五・一五事件や二・二六事件等のファシズム運動へ向かってしまった。

☆大石嘉一郎著『日本資本主義の構造と展開』は、戦時国家独占資本主義についても周到な時期区分をしている。戦時統制解体期(1944年7月東条内閣総辞職~1945年8月敗戦)について、次のように記述する。

◎食糧逼迫(ヒッパク)が深刻となり、満州・朝鮮からの穀物・塩等の移入がはかられるが、それも機雷敷設により輸送が困難となって国民生活が飢餓水準に近づきつつあった。
(『日本資本主義の構造と展開』東大出版会1998年5月290P)

☆同書に拠ると、ドイツでは1943(昭18)年末まで同国民の生活水準は維持されていた。「飢餓水準」に陥った日本国民について、戦時の勤労動員を体験した大石は次のように記述する。

◎教育による国家への忠誠心の涵養と反体制思想・運動の弾圧・排除によって、日本国民のほとんどが国家に対する抵抗力を喪失してしまっていた。
(同書296P)

☆千思万考を要する課題であり、噛み締めるべきだろう。

(2015年8月)


《掲示板》
・9月 1日(火):防災の日
・9月19日(土):子規忌
・9月23日(水):秋分の日
・9月26日(土):臨時休館日
・9月29日(火):資料調査
 


《民権館歳時記》


☆第2回企画展の戦後70年「焼跡の女性論説と雑誌」が閉幕しました。お陰様で創業以来の入館者数は600名を越え、出張講演(出前授業)の聴講総数は約200名となりました。当館ホームページ(デジタル・ミュージアム)へのアクセスは数万回に及びます。

☆猛暑が去り、秋冷の季節到来です。高浜虚子は、「銀河(天の川)」の句を数多く詠んでいます。1949(昭24)年吟のスケールの大きな二句を鑑賞します。

◎銀河中天老の力をそれに得つ     虚子
 ギンガチュウテン オイノチカラヲ ソレニエツ

◎わが終り銀河の中に身を投げん    同上
 ワガオワリ ギンガノナカニ ミヲナゲン

☆千葉県最初の自由党員(1882年入党)であった服部治左衛門(耕雨)にも、次のような銀河の句があります。

◎穐の声銀河や墜ちて砕け舞      耕雨
 アキノコエ ギンガヤオチテ クダケマウ

☆旭市琴田(コトダ)の海宝寺山門には、1935(昭10)年建立の重厚な句碑が残っています。



《書誌データ》


☆第3回企画展は、憲法制定70年“ 民主憲法と鈴木安蔵 ”(仮題)を予定しています。鈴木安蔵は憲法学者で、先駆的な自由民権研究者でした。9月からは、所蔵する鈴木論文掲載雑誌と著作を中心に、書誌データを少しずつ書き継ぎます。

☆これまでと同様に雑誌の「凡例」は、①論説・コラム執筆者、②執筆者標目、③雑誌社、④発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋です。

☆書籍の「凡例」は、①著者、②著者標目、③出版社、④初版発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋です。

◆『民主憲法の構想』(ミンシュケンポウノコウソウ)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③光文社
④1946年4月25日
⑤176頁P・18㎝
⑥11円
⑦「国民の間からは、かくかくの憲法、こういう内容の憲法が必要であるという要求が熱心に叫ばれているにかかわらず、政府方面では、すこしもこれをかえりみることなく、単に国民から遊離せ(す)る、しかも従来の半封建的な政治体制の支持者であり当事者であった官僚その他少数の者だけの手で改正を準備しつつある。」(本書2頁)

☆所蔵本は初版である。光文新書の1冊として刊行された。目次は以下の通りである。堰を切ったような勢いで執筆されている。執筆時期の判明している論題には年月日を付記した。

◎目次
・はしがき(1946年4月)
・序論に代えて―民主主義憲法の要求
・日本の現状(1945年11月)
・停滞せる民主主義と停滞の克服(1945年11月)
・憲法改正の根本問題(1945年10月)
・憲法改正の意義(1945年10月14日)
・民主主義の実現と憲法改正(1945年11月)
・根本論点に関する諸説
・民主主義憲法の基礎理論(1945年12月4日)
・民主主義と天皇制
・天皇と天皇制(1946年1月3日)
・新憲法の構想―憲法研究会の憲法草案(1945年12月28日)
・人民による人民の憲法制定(1945年?月7日)
・憲法改正政府案に対する意見(1946年3月8日)

☆次のような記述には、鈴木安蔵の戦争体験に根ざした憤りが現れている。

◎父を戦場に送り、乏しい財布から国債を求め、貧しい代用食に辛抱している反面、巨万の富をつみかさねた戦争成金や職業軍人が存在したような不合理を二度と生じさせない。(中略)拷問凌辱によって生命を奪われるという、おそるべき残虐は絶対にくりかえされない。
(本書4頁)

☆ベストセラーでもロングセラーでもなかったが、戦後日本を代表する名著である。

◆「新しい憲法と新しい人間」『光 La Clarté (12月号)』(ヒカリ,ラ・クラルテ)
①鈴木安蔵
②1904-1983
③光文社
④1946年12月1日
⑤64P・26㎝
⑥6円
⑦「日本全体の教養の低さが、何より先に克服されねばならぬ。教養の高さとは、いっさいの封建的専制 ― 武士道的差別・強制・隷従 ― を排するこころである。社会的連帯性を尊重し、同胞を自己の肉親、親友のごとく愛するこころである。不正なるものを断乎として排斥する倫理である。頽廃を掃蕩する人格、気品である。有閑不労の奢侈をゆるさぬ道徳であり体制である。粗野、淫蕩、不潔を恥ずるこころである。」(本誌3頁~4頁)

☆木本至著『雑誌で読む戦後史』(新潮選書1985年)に依ると、月刊雑誌『光』の創刊は1945(昭20)年10月である。「クラルテ」はフランス語で「光明」を意味する。

☆本誌は、20年程前に古書店の店頭で偶然発見した。1冊1,500円は少し高いと感じた。鈴木安蔵の論文や、住谷悦治「婦人解放の先駆者・景山英子」が掲載されていたので思い切って購入した。

☆鈴木には自由民権運動研究の大著がある。学生時代に図書館で複写した『自由民権』(白揚社1948年)は、500頁近い労作である。

☆鈴木は河上肇著『自叙伝Ⅰ』に、年少の同志として登場する。福島県南相馬市(現在は原発規制区域)出身である。

☆鈴木の論文は楽観的ではない。しかし悲観的でもない。民主憲法を支える日本国民の「こころ、倫理、人格、気品、道徳、体制」に注目し、「われらの政治精神が、今後いかに熱烈高邁でなければならぬかを痛感する。」と結語している。

☆同誌は、石田波郷(イシダ・ハキョウ)の俳句七句を掲載する。「冬空へ焼跡灯りはじめたれ」の句は、復興の冬景色である。「灯り」は「トモリ」と読むべきだろう。「たれ」は、或いは「たり」の誤植か。

◆『自敍傳Ⅰ』(ジジョデン・イチ)
①河上肇(カワカミ・ハジメ)
②1879-1946
③世界評論社
④1947年5月30日
⑤475P・18㎝
⑥130円
⑦「そこへ全く思いがけなく貴兄が京都へ来られたことは、私にとってこの上なき-文字通り-幸福でした。短い交際の間に貴兄の与えられた一切の有益なる刺激に対して感謝いたします。私は今日までつねに幸運でしたが、今度もかかる幸運を得たことを勿体なく思っています。(鈴木安蔵宛、河上肇書簡)」(本書321頁)

☆所蔵本は初版である。世界評論社発行の第Ⅱ巻(初版)、第Ⅲ巻(初版)、第Ⅳ巻(初版)も所蔵する。焼跡の時代のベストセラーであり、ロングセラー(岩波新書版・岩波文庫版)でもあった。

☆当館は、1947(昭22)年7月30日発行の第Ⅰ巻第2刷も所蔵する。定価は130円から150円に上昇している。同じ書籍が2ヵ月で15%以上の値上げである。食糧難と超インフレの時代であってもベストセラーになった(『ベストセラー物語〈上〉』朝日新聞社)。

☆河上肇は1946(昭21)年1月30日に他界したから、本書は没後の刊行である。鈴木安蔵にとっては不名誉な(誤解を招くような)記述もある。河上の義弟に当たる憲法学者の末川博は、「いずれにしても世に出すのなら、仕方あるまいと考え、御迷惑をかける方々には、死んだ者の気持を汲んで寛容を希うほかはない。」と跋文に述べる(世界評論社版)。

(2015年9月)


《掲示板》
・10月 8日(木):出張講演(県内)
・10月13日(火):栗邨顕彰忌(加藤淳造命日)
・10月15日(木):新聞週間
・10月22日(木):物外顕彰忌(齊藤自治夫命日)
・10月27日(火):読書週間
 


《民権館歳時記》


☆房総の代表的な民権学校「薫陶学舎」で、1881年から1884年まで英語教師を務めた村田峰次郎は、後半生において多数の歴史書を執筆しました(『長周叢書・下』)。長い間埋もれていた村田峰次郎の原稿が発見されて、『楫取素彦(カトリ・モトヒコ)伝』(萩市・前橋市発行2014年3月20日)が出版されましたので購入し一読しました。

☆日曜日のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、大沢たかおさんが楫取素彦(吉田松陰の義弟で、久坂玄瑞の義兄)役を好演しています(肖像画と全く似ていませんが)。前掲書に依拠した新史実もドラマ化されています。

☆村田峰次郎(看雨)は多才で、ユニークな俳句を詠んでいます。今秋は「薫陶学舎」の英語教師であった村田の奇抜な俳句を紹介します。

◎堪えかねて案山子も遠矢はなちけり     看雨
 タエカネテ カカシモトオヤ ハナチケリ
◎明月もころかり出たり団子坂        同上
 メイゲツモ コロガリデタリ ダンゴザカ
(村田峰次郎著『防長文化史概略』防長倶楽部1941年6月2日)

☆村田は「薫陶学舎」に在職中、『海外新話』の著者の嶺田楓江(「薫陶学舎」漢学教師)に連れられて南房総を旅行しました(嶺田楓江書簡)。幕末に非合法出版された『海外新話』は、吉田松陰にも影響を与えています(吉田松陰書簡)。

☆村田は、終戦後の1945(昭20)年12月29日まで生きました。今年は没後70年になります。村田峰次郎の墓碑は山口県長門市の「村田清風記念館」の近くにあり、祖父(村田清風)、実父(大津唯雪)の墓碑と並んでいます。



《書誌データ》


☆第3回企画展は、憲法制定70年“ 民主憲法と鈴木安蔵 ”(仮題)を予定しています。これまでと同様に雑誌の「凡例」は、①論説・コラム執筆者、②執筆者標目、③雑誌社、④発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。

☆書籍の「凡例」は、①著者、②著者標目、③出版社、④初版発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。(    )と句読点は引用者。

◇寄稿「憲法改正〈上〉その意味」(『東京新聞』1945年10月16日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1893-1981
③東京新聞社
④1945年10月16日
⑤1面、41㎝(タブロイド版)
⑥月2円70銭、1部10銭(翌日の日付の夕刊のみ)
⑦明治二十二年(1889年)に発布され、翌二十三年効力を発して以来五十五年、眼まぐるしい世界の変遷、歴史的推移にもかかわらず、ついに一度の改正もみずにきた日本憲法も、今やその改正が必至となり、「陛下の御発意により積極的改正」と報ぜられ、「近衛公が草案起草」、また佐々木惣一博士らもこれにあずかることが報ぜられた。(1面)

☆寄稿文の見出しは「民族高次の発展へ」、「輝かしき課題」、「法律、時代と共に変遷」である。

☆1945(昭20)年の『東京新聞』は、国会図書館所蔵のマイクロフィルムを複写申請した。前述の『民主憲法の構想』(光文社)に寄稿全文が転載されているので、記事の不鮮明な箇所は同書「憲法改正の意義」と比較照合した。

☆鈴木安蔵は、憲法や法律は政治の反映であり、集約であると考えた。次のように記述する。

◎形態のうえでは、連合国による命令(による)という形をとったが、いまや日本国民自身が明瞭に認識し自覚せるごとく、この日本国家の民主主義的建設は、日本民族のより高次の発展を意味するものである。

◇寄稿「憲法改正〈中〉日本自由主義の伝統」(『東京新聞』1945年10月17日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③東京新聞社
④1945年10月17日
⑤1面・41㎝(タブロイド版)
⑥月2円70銭、1部10銭(翌日の日付の夕刊のみ)
⑦そもそも自由民権運動の希求したものは、単なる形態だけの立憲制ではなかった。現実に国民の自由が不動不可侵に保証され、国政運用に対して国民の意思が的確十分に反映し、国民の利益が制度的に確保さるべき体制であった。(1面)

☆寄稿文の見出しは「先駆せる論究、努力」、「全面摂取に至らず」、「民権運動今こそ深く再思」である。

☆鈴木は新憲法制定のため参考にすべき憲法草案(私擬憲法)を4箇条だけ紹介している。その内、2箇条を引用する。(   )と句読点は引用者。

◎第○條 日本ノ国家ハ、日本各人ノ自由権利ヲ保護シ、其(ソノ)財産ヲ保護スルヲ主トスヘシ。
◎第○條 日本ノ国家ハ、日本各人ノ自由権利ヲ、殺滅(サツメツ)スル規則ヲ作リテ之ヲ行フコトヲ得ス。

☆さて、これは、誰の、何という憲法草案(私擬憲法)であったか。一読して正確に答えられる日本人は何人位いるだろうか。

☆鈴木は引用条文の出典を何故か明記しなかった。4箇条は、憲政史編纂会写本の植木枝盛の「日本国憲法」(『明治前期の憲法構想』福村出版1967年4月20日初版)である。

☆「自由民権運動の希求したものは、単なる形態だけの立憲制ではなかった」という鈴木の指摘は、現代でも私たちのウィークポイントを衝いているようだ

◇寄稿「憲法改正〈下〉方法と方向」(『東京新聞』1945年10月18日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1893-1981
③東京新聞社
④1945年10月18日
⑤1面・41㎝(タブロイド版)
⑥月2円70銭、1部10銭(翌日の日付の夕刊のみ)
⑦そもそも民主主義の史的意義は、封建的絶対禁制に対する国民全体の烈々たる克服の情熱であり、熾烈なる意欲である。この情熱と意欲とこそが、もはや条文の行間を利して自己の専恣と特権とを残存せしめんとする旧勢力を克服しうるのであり、かつまた、いっさいのかかる反民主主義的言動施策の余地なき民主主義的規定を条文化せしめうるのである。(1面)

☆寄稿文「憲法改正〈下〉方法と方向」には、「立憲制」について次のような記述がある。

◎国民の希求に対して発言をあたえ、その実現の手段を保証することは立憲制の根本条件の一つである。各国の憲法が、その改正に対し、多かれ少なかれ国民自身の発意発言についてそれぞれの規定を有するのはこのためである。

☆東京新聞掲載の「憲法改正〈上〉その意味」は、前述の『民主憲法の構想』(光文社)所載「憲法改正の意義〈一〉」へ転載された。「憲法改正〈中〉日本自由主義の伝統」は「憲法改正の意義〈二〉」へ転載された。「憲法改正〈下〉方法と方向」は「憲法改正の意義〈三〉」へそっくりそのまま転載されたので判読できる。

◆「憲法改正の根本論點」『新生』(1945年12月号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③新生社
④1945年12月1日
⑤32P・28㎝
⑥1円50銭
⑦日本憲法に関して、私の第1回会議の相手は某外交官であったが、左のごとき質問を受けて、前述のごとく私は、憲法問題の根本的再検討の必要を痛感した。(本誌23頁)

☆「論點」は「論点」の旧字体である。12月号は廉価であったので、古書店で購入した。『新生』(1945年11月創刊)は貴重な雑誌なので復刻版が刊行されている。

☆抜粋文の「私」は鈴木安蔵である。「某外交官」が誰かは論文に記載がない。古関彰一著『新憲法の誕生』(中公文庫1989年)は、鈴木からの聞き取りを根拠に「カナダ外交官EHノーマン」であると記述する。原秀成著『日本国憲法制定の系譜Ⅲ』(日本評論社2006年)も古関説を踏襲し、鈴木安蔵とノーマンが再会した1945(昭20)年9月22日(土)の頃、鈴木は満41歳、ノーマンは36歳であったと記述する。

☆1945(昭20)年10月15日の記者会見で、鈴木安蔵に質問した「ウォア・コレスポンデント(戦争特派員)」を、原秀成氏は中国系米国人の「宋徳和」であると記述する(同書421頁)。古関彰一著『新憲法の誕生』には、「宋徳和」についての記述はない。

☆自由民権運動の時代の憲法草案(立志社草案等)について、鈴木安蔵は次のように記述する。(   )と句読点は引用者。

◎日本憲法(旧憲法)の改正について、今日一応回顧すべきは、民主主義的な自由民権家たちの憲法意見である。それは正に我等の父祖、日本人自身による民主主義的憲法制定の具体的要求であった。今特に、上述の根本論点について考察することが必要であろう。
(『新生』12月号、25頁)

☆「日本人自身による民主主義的憲法制定の具体的要求であった」という指摘を忘却する勿れ。「上述の根本論点」とは、旧憲法(明治憲法)の改正条文案、改正手続き、改正主体(主権)である。

☆古関彰一氏の新著『平和憲法の深層』(ちくま新書2015年4月)は好著である。残念ながら、鈴木安蔵とハーバート・ノーマンの会談内容の出典を「論文名」、「初出誌」共に誤記している(同書174頁)。

☆初出誌は『新生』(1945年12月号)であり、『民主憲法の構想』(光文社1946年4月)には転載されていない。非常に重要な転換点を記述した雑誌論文なので、読者は確認の徒労感を覚えるだろう。

☆1945(昭20)年9月のノーマンについて、羽仁五郎著『自伝的戦後史』(前述)は次のように記述した。

◎ぼくを牢獄から救い出してくれたのは、(中略)残念ながら日本人ではない、カナダのハーバート・ノーマンという学者外交官だった。
(『自伝的戦後史』講談社1976年9月、107頁)

◎ノーマンは治安維持法廃止のために占領軍最高司令部を動かし、日本政府に勧告するなど全力をあげて努力していた。
(同書108頁)

☆占領軍の「GHQ」を十把一絡げにする勿れ。

☆カナダ外交官のハーバート・ノーマンは、近衛文麿に対して大変手厳しい批判文を残している(「戦争責任に関する覚書・1945年11月5日」)。文麿は戦争犯罪人であり、新憲法起草の中心に居てはならない人物であると断言した。

◎近衛の公職記録を見れば、戦争犯罪人にあたるという強い印象を述べることができる。(中略)かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手を触れるものはみな残骸と化す。
(『ハーバート・ノーマン全集第2巻』岩波書店1977年6月、345頁~346頁)

☆元首相の近衛文麿は1945(昭20)年12月16日に、自ら54年の生涯の幕を閉じた(『細川日記』中公文庫)。

(2015年10月)



《掲示板》
・11月 3日(火):自由民権史跡探訪ガイド(I市)
・11月 7日(土):懇親会(K町)
・11月 8日(日):立冬
・11月19日(木):薫陶学舎関係資料調査(F市・C市)
・11月27日(金):岩井(ガンセイ)顕彰忌
 



《民権館歳時記》


☆柚子が豊作なので、今冬は3㍑瓶に柚子酒を仕込みました。初夏に漬けた梅酒とプラム酒は既に熟成しています。

☆「降る雪や明治は遠くなりにけり」は、中村草田男の代表的な句です。筆者は戦後の明治100年頃の吟とばかり思い込んでいました。違うのですね。戦前、昭和初期(1931年)の吟でした。

☆敗戦後に創刊又は再刊された雑誌の収集を始めてから久しくなります。月刊誌『潮流』(吉田書房)の1946年1月創刊号には、草田男の句が五句掲載されています。その内二句を紹介します。

◎松上の雪に希望の三日月          草田男
 ショウジョウノ ユキニキボウノ ミッカヅキ
◎妻子住む春の里辺や楸生ふる        同
 サイシスム ハルノサトベヤ ヒサギオウル
(同誌77頁)

☆「松」、「雪」、「希望」、「月」、「妻子」、「里」、「生」が詠まれています。新年の句のせいか古風ですね。「楸」はヒサギと読みます。

☆虚子門の中村草田男は石田波郷や加藤楸邨と共に、「人間探求派」と並び称されています。草田男は律儀な性格で、毎年1月2日の夜に高浜虚子邸を訪問していました。次のようなユーモラスな句が残っています。

◎例の如く草田男年賀二日夜         虚子
 レイノゴトク クサタオネンガ フツカヨル
(星野立子編『虚子一日一句』朝日文庫1985年3月、『虚子五句集〈下〉』岩波文庫1996年10月)

☆「年賀」の句は1956年1月2日の吟です。

☆『潮流』創刊号は、花巻市へ疎開していた髙村光太郎の「永遠の大道」も掲載します。十九行の現代詩です。最初の五行のみ紹介します。(字体は掲載誌のまま、カタカナは引用者)

◎欺きしは「兇敵」にあらずして
 アザムキシワ 「キョウテキ」ニ アラズシテ
 二なく頼みしわれらが「神軍」なりしなり。
 フタツナク タノミシワレラガ 「シングン」ナリシナリ
 一切は曝露せられて國民愕然たり。
 イッサイワ バクロセラレテ コクミンガクゼンタリ
 國民目覺むればすでに飢餓に瀕す。
 コクミン メサ(ザ)ムレバスデニ キガニヒンス 
 國力盡き民力消耗してただ焦土あり。
 コクリョクツキ ミンリョクショウモウシテ タダショウドアリ
(同誌42頁)

☆この詩は、翌年の「暗愚小傳」(当館所蔵『展望』1947年7月号)には輯録されませんでした。

☆総合雑誌『改造』(1946年1月復刊第1号)は、高浜虚子の「小諸雑詠」拾句を掲載しています。食糧難と燃料不足の時代を象徴する俳句です。

◎大根を鷲掴みにし五六本          虚子
 ダイコンヲ ワシヅカミニシ ゴロッポン
◎顔撫でゝ冷たき鼻を暖めぬ          同
 カオナデテ ツメタキハナヲ アタタメヌ
(同誌96頁)

☆虚子は空襲を避けて、家族と共に小諸市へ疎開していました。「大根」の句は、生命力の溢れる名句と言えるでしょう。



《書誌データ》


☆第3回企画展は、憲法制定70年“ 民主憲法と鈴木安蔵 ”(仮題)を予定しています。雑誌の「凡例」は、①論説・コラム執筆者、②執筆者標目、③雑誌社、④発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。

☆書籍の「凡例」は、①著者、②著者標目、③出版社、④初版発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。(    )と句読点は引用者です。

◆「統治権は国民に、憲法研究会草案、政府へ提出」(『朝日新聞』12月28日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)ほか

③朝日新聞社
④1945年12月28日
⑤1面・54㎝
⑥月額2円70銭
⑦政府の憲法改正に関する調査の進捗に伴い同問題に対する一般の関心も昂められているが、民間憲法改正研究の権威あるものとして注目されていた憲法研究会は二十七日憲法草案要綱を参考として政府へ提出した。同研究会は民間の憲法学者、評論家で構成され高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵の七氏が起草委員である。(同紙1面)

☆当館は『朝日新聞』1945年7月~12月の縮刷版を所蔵する。「憲法研究会草案要綱」の全文は『毎日新聞』にも掲載された。晩年の鈴木著『憲法制定前後 ― 新憲法をめぐる激動期の記録』(青木書店1977年11月)に全文再録されている。

☆全文は58項目からなる。根本原則(主権)に関する5項目のみ引用する。

◎一、日本国の統治権は日本国民より発す
 一、天皇は国政を親らせず国政の一切の最高責任者は内閣とす
 一、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る
 一、天皇の即位は議会の承認を経るものとす
 一、摂政を置くは議会の議決による
(『朝日新聞』『毎日新聞』1945年12月28日)

☆前述の『民主憲法の構想』(光文社1946年4月)に主要点の解説が記述される。高野岩三郎が、大統領を元首とする共和制案を提案したことも記述されている。

☆比較のために、高野案の主権及び元首に関する5項目を引用する。

◎一、日本国ノ主権ハ日本国民ニ属ス
 一、日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トス
 一、大統領ノ任期ハ四年トナシ再選ヲ妨ゲザルモ三選ヲ禁ズ
 一、大統領ハ国ノ内外ニ対シテ国民ヲ代表ス
 一、立法権ハ議会ニ属ス
(前掲『民主憲法の構想』138頁~139頁)

☆高野岩三郎は、1946(昭21)年4月にNHK会長に就任する。

☆憲法研究会の活動は以下の通りである。
10月29日、高野、鈴木、室伏談話、憲法制定準備の件
11月 5日、憲法研究会第1回会合、場所は新生社
11月14日、憲法研究会第2回会合、場所は新生社
11月21日、憲法研究会第3回会合、場所は新生社
11月28日、憲法研究会第4回会合、場所は新生社
12月 5日、憲法研究会第5回会合、場所は新生社
12月26日、憲法研究会最終案作成(第6回)、清書、場所は新生社
12月28日、「憲法研究会草案要綱」全文を『朝日新聞』、『毎日新聞』掲載
(鈴木安蔵『憲法制定前後』青木書店1977年11月71頁~102頁、原秀成『日本国憲法制定の系譜Ⅲ ― 戦後日本で』日本評論社2006年4月607頁、小西豊治『憲法「押しつけ」論の幻』講談社現代新書2006年7月25頁~33頁、古関彰一『平和憲法の深層』ちくま新書2015年4月179頁~187頁を参照)

◆「憲法民間草案の意圖 ― 鈴木安蔵氏に聴く」(『毎日新聞』12月29日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③毎日新聞社
④1945年12月29日
⑤1面・54㎝
⑥2円70銭(1ヵ月)
⑦現在の政府とそれに集まる人々の考え方には抜き難き一定の限界があると感じ、高野岩三郎氏の発意で真に民主主義的憲法草案を創るという意味で出発したもので、同人の純粋な民主主義理念を中心として私が執筆等に当たった。(同紙1面)

☆「意圖」は「意図」の旧字体。鈴木安蔵は、自由民権期の私擬憲法について次のように語った。

◎共通の参考資料としたものはなく、専ら同人の世界観に基づき技術的な仕上げは専門家に譲ることとしたが、資料の点で特にといわれゝば、明治15年に出た植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」や土佐立志社の「日本憲法見込案」など日本最初の民主主義的結社自由党の母体たる人々の書いたものを初めとして、私擬憲法時代といわれる明治初期真に大弾圧に抗して情熱を傾けて書かれた二十余の草案を参考にした。
(同紙1面)

☆「同人」は憲法研究会メンバー7人(前述)を指す。

☆いつもながら、新聞の複写はC県立中央図書館の新聞雑誌室に依頼し、K市立図書館経由で落掌した。所蔵は国会図書館である。関係諸機関に厚く御礼を申し上げる。

◆「停滞せる民主主義と停滞の克服」(『民主文化』1月創刊号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③中外出版
④1946年1月1日
⑤48頁・21㎝
⑥1円50銭
⑦財閥は、軍部、官僚と内部的対立、摩擦を続けてきたが、アジアはじめ諸外国に対する日本帝国主義的支配の支持者であり、国内労働者、貧農その他中産階級に対する搾取による利潤獲得の熱心な追求者であって、軍部、官僚の対外侵略、国内専制による自己の負担、犠牲よりも、それによる利益の方がはるかに大きい階級であった。(同誌6~7頁)

☆この論文も殆どそのまま『民主憲法の構想』(光文社1946年4月)に再録された。執筆時期は、同書に1945(昭20)年11月と記載される。鈴木は敗戦直後の日本の経済情勢について次のように記述する。

◎財閥の解体は、漸く開始されたばかりであり、なお強力な勢力として残り、これが自己の階級的勢力の擁護のためにつづけつつある努力は必死的である。
(同誌8頁)

(2015年11月)




《掲示板》
・12月 1日(火):『民権館通信』第6号印刷
・12月13日(日):資料調査
・12月22日(火):冬至(柚子湯)
・12月28日(月):楓江顕彰忌
・12月29日(火):看雨顕彰忌(村田峰次郎没後70年)
 



《民権館歳時記》


☆『新時代』(1945年11月・12月合併号)は、敗戦直後の山口誓子、長谷川かな女、富安風生、中村草田男の俳句(各10句)を掲載しています。カタカナは引用者。

◎貨物汽車只一燈の秋の暮           誓子
 カモツギシャ タダイットウ(ヒトツヒ)ノ アキノクレ
※句題は「秋の暮」

◎蚊帳の果ふたたび母と子となりし       かな女
 カヤノハテ フタタビハハト コトナリシ
※句題は「復員」、「蚊帳の果」は秋の「蚊屋の別れ」の意

◎痩畑にあはれひしめく蕎麦の花        風生
 ヤセバタニ アワレヒシメク ソバノハナ
※句題は「山村の秋」

◎烈日の光と涙降りそゝぐ           草田男
 レツジツノ ヒカリトナミダ フリソソグ
※句題は「咋の日と今の日」、8月15日吟

☆人間探求派の加藤楸邨は、同年12月に東京府立第八高等女学校の校庭に仮寓し、高等学校教職員組合の結成に奔走しました。

◎凩やかぎりしられぬ星の数          楸邨
 コガラシヤ カギリシラレヌ ホシノカズ
※1945年12月27日吟
(『野哭』邑書林文庫1996年)

☆12月29日(火)の看雨忌は、村田峰次郎没後70年です。村田編『長周叢書(下)』(復刻版)所載の年譜には、1881(明14)年の夏に薫陶学舎の英語教授を「嘱託」され、1883(明16)年8月まで「在職」したと記載されています。

☆加藤重和の「防備録」には、「十六年九月村田峰次郎君辞職、十日大原竹楼ニ送別会ヲ開ク」と記述されています(茂原市・加藤家文書)。送別会の時には、嶺田楓江はまだ生きていました。



《書誌データ》


☆第3回企画展は、民主憲法70年“ 鈴木安蔵と憲法制定 ”(仮題)を予定しています。凡例は、①論説・コラム執筆者、②執筆者標目、③雑誌社、④発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。(    )と句読点は引用者です。

◆「新たなる日のために」(『新生』1945年11月創刊号)
①室伏高信(ムロブセ・コウシン)
②1892-1970
③新生社
④1945年11月1日
⑤32頁・27㎝
⑥1円20銭、送料10銭
⑦われわれの想起するのは明治維新がなぜ中途半端であったかということである。われわれの先輩たちは徳川幕府を仆(タオ)しはしたが、薩長閥族を残した。この閥族は自由民権思想の鬱勃たる新生に狼狽し、これをうけいれる代りに日本の歴史をつくりかえ、国体の観念つくりあげ、その蔭にかくれて王座をトオチカとした。(中略)軍国主義はその一切の残骸をもふくめて土とともに葬り去られなくてはならぬ。(同誌5頁)

☆同誌の巻頭論文である。室伏は第2号の巻頭論文「民主主義のために」も執筆した。当館は『新生』創刊号(原本)から第6号(原本)まで所蔵する。「トオチカ」はロシア語で、防禦陣地を意味する。

☆表紙に目次が印刷されている。参考までに目次を転記する。

◎創刊号(目次)
 新たなる日のために・・・・室伏高信
 木戸内府の責任・・・・・・岩淵辰雄
 新日本への一建言・・・・・福本和夫
 この戦争と私・・・・・・・尾崎行雄
 無産政党の再出発・・・・・賀川豊彦
 社会党は何を求むるか・・・水谷長三郎
 インフレは果たして来るか・三宅晴輝
 政治談義・・・・・・・・・馬場恒吾
 ◇忠君愛国の話・・・・・・小林一三
 ◇戦争雑感・・・・・・・・青野季吉
 文学人の態度・・・・・・・正宗白鳥
 ◇新生評論  ◇編集後記

☆室伏高信、岩淵辰雄、馬場恒吾は憲法研究会の同人である。岩淵は翌年1月に復刊された『中央公論』に、「軍閥の系譜」を長期連載する(後述)。

☆当館は『賀川豊彦全集』(全24巻キリスト新聞社1962年~1964年、C市Yさん寄贈)と尾崎行雄の「短歌掛軸」(C市Kさん寄贈)を所蔵する。

◆社説「日本の現状」(『新時代』11月・12月合併号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③経国社
④1945年11月1日
⑤40頁・26㎝
⑥1円50銭、送料50銭
⑦一切のごまかし、一切の偽善のヴェールを払いのけて赤裸々な現状を直視するならば、われらの祖国日本がまさに崩壊の一歩手前にあることは何人の眼にも明瞭であろう。(同誌2頁)

☆この社説は殆どそのまま『民主憲法の構想』(光文社1946年4月)に再録された。雑誌初出時は無署名だが、鈴木の執筆した論説である。執筆時期は1945(昭20)年11月と記載される。

☆鈴木は敗戦直後の「日本の現状」について次のように記述する。

◎食糧、燃料の深刻な飢餓が日々あらゆる方面で問題とされているが、その有効な解決策は何ひとつ実行されず、全国いたるところ、国民の大多数は身心を疲らし、財布の底をはたいて闇の食糧の買出しに疲弊困憊しつつ呻きつづけている。
(同誌2頁)

☆『新時代』同号は、国会図書館では欠号になっている。古書店でも見つけることができなかった。H大学の所蔵本(マイクロフィルム)を複写させて頂いたが、国内にはあまり残存していないようである。

◆「民主主義日本建設の前提」(『新時代』11月・12月合併号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③経国社
④1945年11月1日
⑤40頁・26㎝
⑥1円50銭、送料50銭
⑦軍部の現代総力戦観は単純素朴であった。されば日本の軍部のいわゆる国防国家体制建設の努力、戦争準備も、その根本の政治的世界観の誤謬 ― 帝国主義的侵略主義の本質を遂に脱し得なかった誤謬 ― を別とするも、戦力の本質に対する認識不足のゆえに、重大な欠陥を包蔵しておったのである。(同誌3頁)

☆同誌の巻頭論文である。鈴木は社説と巻頭論文を執筆し、鼎談に参加し短歌も発表した。

☆編集後記には「今度、木村毅、鈴木安蔵、鈴木東民諸氏を客員に迎え、編集に一新機軸を画することとなった」と記載される。木村毅(作家)は、同誌に「自由民権思想発達史伝」を連載する。

☆鈴木安蔵は、翌年1月の総合雑誌(『改造』1月号、『法律時報』1月号、『民主主義科学』1月号、『民主文化』1月号、『太平』1月号、『新時代』1月号等)に諸論考を発表する(後述予定)。1945(昭20)年の師走は、多事多難であったのではないかと推察する。

☆新「憲法改正草案要綱」が幣原喜重郎内閣によって発表されたのは、翌1946(昭20)年3月6日午後5時である(7日新聞掲載)。新憲法をめぐって激変する7ヵ月を、雑誌と新聞で追体験してみようと思う。

☆「日本国憲法」の正文草案が幣原内閣によって発表されたのは、同年4月17日午後1時である(18日新聞掲載)。言うまでもないが、「日本国憲法」の「公布」は同年11月3日、「施行」は半年後の1947(昭22)年5月3日であった。

◆鼎談「新日本の民主主義を語る」(『新時代』11月・12月合併号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ,評論家)、尾佐竹猛(オサタケ・タケキ,法学博士)、鈴木東民(スズキ・トウミン,読売新聞論説委員)
②鈴木安蔵(1904-1983)、尾佐竹猛(1880-1946)、鈴木東民(1895-1979)
③経国社
④1945年11月1日
⑤40頁・26㎝
⑥1円50銭
⑦自分達の時代というものは、そういう歴史的事件もなく、いわゆる平凡であって生きてゆく上において甚だ物足らない、と思っていたのでありますが、今日になってみますると、明治維新以上に、非常に根本的な日本の大騒動に生れ合せたということになりました(鈴木安蔵発言)。(本誌24頁)

☆3人による24頁から27頁までの鼎談記録である。肩書は掲載雑誌に拠る。尾佐竹猛と鈴木安蔵は元「憲政史編纂会」メンバーであり、旧知の間柄であった。

☆元大審院判事の尾佐竹猛は次のように語った。

◎かつての大正大震災では東京、横浜だけであったからよいけれども、今日は何処へ行っても中小都市は徹底的に焼けている。復興と言っても当時とは比較にならん、兎に角、誰が出ても仲々難しいと思います。
(同誌24頁)

☆読売争議の頃に労組委員長を務めた鈴木東民(後に釜石市長3期)は次のように語る。

◎私はある事情で1年半位い山の中に入っていましたが、8月19日東京へ出て来てみて驚いた光景は、東京が廃墟になったということよりも、日本人がデモクラシー時代になったということに対して、極めて無感覚で茫然としている光景です。
(同誌24頁)

◆短歌「秋雨」(『新時代』11月・12月合併号)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)
②1904-1983
③経国社
④1945年11月1日
⑤40頁・26㎝
⑥1円50銭、送料50銭
⑦ 防空壕を埋む二首、「この底に子を救はんと希ひたるその夜も遠き夢のごとかり」、「かたはらに哀れ〔に〕咲けるコスモスの根も掘りかへしともに埋(ウズ)めつ」。(同誌7頁)

☆印刷が不鮮明な文字には、引用者の判断で〔  〕を付した。

☆鈴木安蔵は多才で、石川啄木風の短歌も残した。同誌は鈴木の短歌12首を掲載する。占領下の首都の風景を詠んだ短歌を発表したのである。

◎四囲風景二首
 腹弱き子に食はすとてビール壜に
 玄米をつく悲しき笑顔

 ジープ走るはらからの女さヾめき走る
 嘲るなかれ知るなきものを
(同誌7頁)

◆座談会「民主主義獲得への途」(『讀賣報知』11月4日~9日)
①鈴木安蔵(スズキ・ヤスゾウ)ほか
②1904-1983
③読売新聞社
④1945年11月4日・5日・6日・8日・9日
⑤1面・54㎝
⑥2円70銭(月額)
⑦28日のニューヨーク・タイムスも「来るべき日本憲法第1条は、天皇より主権を日本の国民の手に移すというような[決定]をもってはじめなければならない」とまでいっている。これはデモクラシーというものを純粋に考えていけば[論理]の必然だろうと思う。(11月4日の1面)※鈴木安蔵発言、[  ]は印刷不鮮明な活字。

☆5回連続の座談会である。出席者は室伏高信(評論家)、徳川義親(貴族院議員)、鈴木安蔵(憲法学者)、志賀義雄(日本共産党)、小野俊一(民衆新聞社長)、岩淵辰雄(評論家)、松本治一郎(日本社会党)の7人である(発言順、肩書は同紙)。当時讀賣新聞の社長は馬場恒吾であった。室伏、鈴木、岩淵、馬場は憲法研究会同人になる。

☆憲法研究会の第1回会合は11月5日に行われた。場所は新生社(東京都麹町区内幸町大阪ビル)である。出席者は高野、杉森、森戸、室伏、岩淵、鈴木等であったと云う(前掲『憲法制定前後』青木書店)。

(2015年12月)


【寄贈資料】2015年
□『銅版画・井上佐幾夫邸宅之図』(1895年2月)
□『自由民権百年第3号』(1981年5月,鈴木安蔵「民権期の憲法起草運動と現憲法制定の過程」ほか)
□『齋藤史歌文集』(講談社文芸文庫2001年9月)
□『いすみ市文化財MAP』(2010年3月)
□『評伝北一輝Ⅴ』(中公文庫2014年12月)
□『松本健一著作・著述リスト』(私家版2014年12月)
□『歴史と地理№680』(山川出版社2014年12月,「『日本文化論』の授業の試み」ほか)
□『古本倶楽部283号』(中野書店2015年1月,『三酔人経綸問答』1887年ほか)
□『自由民権記念館紀要№22』(高知市立自由民権記念館2014年11月,「日本に於ける民主主義の原郷」ほか)
□『誠心堂書店書目131』(誠心堂書店2015年1月,『明六雑誌1~20号』合本1874年ほか)
□『会報第19号』(早稲田大学エクステンションセンター日本近代史研究会2014年12月,「クラス旅行~房総の自由民権運動を訪ねて」ほか)
□『郷土に輝く人々・第2集』多古町郷土史の会2014年3月)
□『法政史学第82号』(法政大学史学会2014年9月,「関東自由党の結成と自由党地方部」ほか)
□『千葉史学第65号』(千葉歴史学会2014年11月,「自由民権運動家の『顕彰』をめぐって」ほか)
□『評論№198』(日本経済評論社2015年1月,「『自由民権〈激化〉の時代』刊行によせて」ほか)
□『岩田書院図書目録2015』(岩田書院2015年2月)
□『市史研究誌・四街道の歴史第10号』(四街道市教育委員会2015年3月,「大塚常次郎の書簡」ほか)
□『日本の古本屋・永森書店目録第21号』(永森書店2015年3月)
□『自由のともしびVOL.78』(高知市立自由民権記念館2015年3月,「25周年記念双六」ほか)
□『歴史と地理№.682』(山川出版社2015年3月,「『1945年の悲劇』はどうすれば避けられたか」ほか)
□『自由民権28号』(町田市立自由民権資料館2015年3月,「私にとっての自由民権研究②」ほか)
□『民権ブックス28号』(町田市立自由民権資料館2015年3月,「風刺漫画に見る明治」)
□『地方史情報123号』(岩田書院2015年3月)
□『加波山事件130周年記念事業集録-今、改めて学びなおす加波山事件~弾正ケ原から加波山~』(自由民権運動喜多方事件記念事業実行委員会2015年3月)
□『旧源村上布田 猪野家文書目録』(山武市教育委員会2015年3月)
□『西海天草のわが人生』(長崎文献社2015年3月,「鶴田文史先生追悼文集」ほか)
□『展示図録・フロンティアーズ ~ Narita since 1966 ~ 』(NAA歴史伝承委員会2015年3月)
□『鴨台史学第13号』別冊(2015年3月,「民権結社の組織論についての一考察」)
□『法律時報1083号』(日本評論社2015年3月,「足尾鉱毒事件と『毎日新聞』ほか)
□『評論№199』(日本経済評論社2015年4月,「いま、『自由民権〈激化〉の時代』」、「近代公娼制度史研究から見えてくるもの」ほか)
□『波崎事件再審運動ニュース第43号』(波崎事件対策連絡会議2015年4月,「検察官は公益の代表であって、国家利益の代表者ではない」ほか)
□『イラスト通信・房総のことば』(2015年5月,「シロコ・クロコ」)
□『鴨川九条の会会報第24号』(2015年5月
□『古本倶楽部284号』(中野書店2015年5月,「特集子どもの本」ほか)
□『地方史情報124号』(岩田書院2015年5月)
□『ちば・教育と文化』(千葉県教育文化研究センター2015年5月,「特集・日本の針路―地域からの発信」ほか)
□『誠心堂書店創業八十周年記念書目』(誠心堂書店2015年6月,「昔気質の和本屋」ほか)
□『鴨川九条の会会報第25号』(2015年6月)
□『歴史と地理№685』(山川出版社2015年6月,「古代の女官について」ほか)

□高知市立自由民権記念館編『要覧・2014年度』(高知市教育委員会2015年6月)
□「高尾山古墳を考える〈上〉歴史的財産の損失」(『毎日新聞』静岡地方版2015年6月16日)

□「9条ルーツ規制区域に-荒廃する鈴木安蔵の生家」(『東京新聞』2015年6月30日)
□『フォーラム・内なる植民地』(植民地文化学会2015年7月)
□『古本倶楽部285号』(中野書店2015年7月,「特集近代文学」ほか)
□『イラスト通信・房総のことば』(2015年7月,「オロロンローン」)
□『2015年度第1回特別展・中島信行と俊子』(チラシ,町田市立自由民権資料館2015年7月,期間7月18日~8月30日)

□『評論№200』(日本経済評論社2015年7月,「特集・戦後70年」ほか)
『誠心堂書店書目』(誠心堂書店2015年7月,『団団珍聞』」ほか)
□『鴨川九条の会会報第26号』(2015年7月)
□『日本の古本屋・永森書店目録第22号』(永森書店2015年7月)
□『いずみ通信№41』(和泉書店2015年7月,『自由民権運動と戯作者』ほか)
□『法律時報1088号』(日本評論社2015年7月,「明治維新期の立憲政治構想」ほか)
□『話しておきたい70年前の戦争のこと』(南房総・平和をつくる会2015年8月)
□『石陽社結成140周年・石川町合併60周年記念特別企画展,石川地方の自由民権運動』(ポスター及びチラシ,福島県石川町立歴史民俗資料館2015年9月,期間9月19日~10月18日)
『自由のともしびVOL.79』(高知市立自由民権記念館2015年9月,「25周年イベント」ほか)
□『2015年度第2回特別展・水をめぐる生活誌』(チラシ,町田市立自由民権資料館2015年9月,期間10月10日~11月29日)
□『イラスト通信・房総のことば』(2015年9月,「メラボシ」)
□『歴史と地理№687』(山川出版社2015年9月,「新体系日本史9『ジェンダー史』」ほか)
□『絵はがきの中の大正時代』(チラシ,いすみ市郷土資料館2015年9月)
□『古本倶楽部286号』(中野書店2015年10月)
□『鴨川九条の会会報28号』(2015年10月,「国会前集会参加報告」ほか)
□『ミニコミ誌・0470-free paper29』(2015年10月,「銅版画・国会開設懇請議案」ほか)
□『シンポジウム「漁場図」を読む』(神奈川大学日本常民文化研究所2015年10月)
□「国際シンポジウム・瑶族の歌謡と儀礼」(チラシ,ヤオ族文化研究所2015年10月)
□『高知市立自由民権記念館25周年』(ポスター及びチラシ,2015年10月
□『評論№201』(日本経済評論社2015年10月,「なぜいま『自由民権〈激化〉の時代なのか』」ほか)
□『イラスト通信・房総のことば』(2015年11月,「ナガサマイ」)
□色川大吉編著『五日市憲法草案とその起草者たち』(日本経済評論社2015年11月)
□『ちば・教育と文化№86』(千葉県教育文化研究センター2015年11月,「特集・豊かな文化を発信する安房地域」ほか)
□『鴨川九条の会会報30号』(2015年12月,「毎月3日、9日サイレントアピール続けてます」ほか)