2015年前期


◎1月の行事案内
・1月 2日(金):埼玉県立「歴史と民俗の博物館」で企画展「埼玉の自由民権」→2月15日まで(月曜休館)
・1月 3日(土):仕事始め
・1月11日(土):秀峯忌(板倉中の妻命日)
・1月20日(火):出張(資料調査)
・1月23日(金):枯川忌(堺利彦命日)



☆明けましてお目出とうございます。本年は戦後70年です。宜しく御指導、御鞭撻を御願い申し上げます。

☆1月に他界した房総の女性民権家に、板倉比左がいます。1月11日は秀峯忌(シュウホウキ)です。「秀峯」は比左の院号です。

☆板倉比左は1865(慶応元)年11月16日に誕生し、1941(昭和16)年1月11日に病没しました(墓誌)。満75歳でした。

☆堺枯川(サカイ・コセン,1871-1933)については、自伝の『堺利彦伝』(中公文庫1978年)があります。「私は当時、漠然ながら自由民権主義の追随者であった。」(同書84P)と記述しています。

☆「蛍一つ闇に呑まれて消えにける」(同書136P)は、堺枯川の初恋(失恋)の句のようです。

☆堺利彦は、『改造』(1928年10月号)に先駆的な論考「秩父騒動」を発表しています。「秩父騒動」は、井出孫六編著『自由自治元年-秩父事件資料・論文と解説』(現代史出版会1975年)に収録されました。

☆1946(昭21)年の『中央公論3月号』に、山川均(菊栄の夫)が飄逸な人物論「堺さんの想い出」を執筆しています。

◎堺さんのお墓は鶴見(横浜市)の総持寺にあった。生きているうちの堺さんは生涯借家住居をしていたが、総持寺での堺さんは一坪ばかりの墓地の地主になりすまし、借りものでない自分のお墓に住まっていた。
(前掲誌70P)

☆山川均は、占領下の民主主義を「堺さんに恥ずかしい気もちもする」と虚心坦懐に述べています。

☆1月20日(火)に、埼玉県立「歴史と民俗の博物館」へ、企画展「埼玉の自由民権」見学に出かけました(館長・副館長)。鴨川市からJR千葉駅までは直行バス、千葉駅から船橋駅まではJR、船橋駅から大宮公園駅までは東武鉄道に乗車しました。片道4時間程でした。

☆博物館の企画展示室には、房総出身の桜井静が送付した「地方連合会創立主意書」(小室家文書)が展示されていました。桜井提案が埼玉県内にも波及していたことを、初めて知ることが出来ました。

☆小室家文書の展示によって、関東では全府県(神奈川・埼玉・栃木・群馬・茨城・東京・地元千葉)で、桜井提案(県議層路線)の波及と反響が検証されたと言えるでしょう。学芸員の皆様の御努力に改めて敬意を表します。



☆次回収蔵品企画展
焼跡の雑誌論文・コラムの書誌データを書き続けます。

◎書誌項目

①論文・コラム執筆者
②執筆者標目
③雑誌社
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

◆「デューイ社会哲学批判の覚書(1)」
(『思想の科学』1946年創刊号
①鶴見和子(ツルミ・カズコ)
②1918-2006
③先駆社
④1946年5月15日
⑤35P・21㎝
⑥2円
⑦日本の経済社会政治面の民主化は、封建制残滓を払拭するとともに、独占資本主義の矛盾よりの解放という二重性を持つと同様に、思想上の改革も又二重性を持つ。(33P)

☆鶴見和子は、哲学者の鶴見俊輔氏の実姉である。実父は鶴見祐輔(戦後公職追放→鳩山一郎内閣厚相)であった。

☆和子は、「社会の現状分析にもとづく歴史動向の見通しから眼を逸らせ、現実の対立を調和となし、不均衡を均衡と呼び、大衆の民主化への闘争を妥協で云いくるめるような、反動哲学とも対峠(峙)しなければならない。」(同誌33P)と指摘した。

☆和子は敗戦翌年の変革課題を、重層的な4類型(①残滓払拭、②矛盾解放、③亡霊克服、④反動対峙)に整理して提示した。

☆山代巴・牧瀬菊枝編『丹野セツ-革命運動に生きる』(頸草書房1968年)に於いて、牧瀬は鶴見和子について次のように述べた。

◎牧瀬:私たちのグループが鶴見和子さんの指導で、1959年の6月に出版した『ひき裂かれて-母の戦争体験-』は、丹野(セツ)さんにも田中(ウタ)さんにも読んでいただきました。
(同書271P)

☆丹野セツの夫の渡辺政之輔(通称ワタマサ)は、千葉県市川市出身であった。

☆『思想の科学』創刊の実情について、実弟の鶴見俊輔氏は次のように述べる。

◎創立当時の7人(俊輔・和子・武谷・武田・都留・丸山・渡辺)は、私の姉(和子)があつめた人といっていいんです。私があつめた人じゃない。
(鶴見俊輔『期待と回想』下巻、晶文社1998年184P)

◎私は友だちが一人もいなかった。『思想の科学』というのは、姉(和子)が人間関係を全部つくり、そのすえ膳を私が食べたんです。
(同書204P)

☆『思想の科学』創刊号(当館所蔵)は、原子物理学者の武谷三男「哲学は如何にして有効さを取戻し得るか」、鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法について」等を掲載した。第2号(1946年8月発行)は、政治学者の丸山真男「西欧文化と共産主義」を掲載した。男性論客については後日詳論の予定。

◆「鎌倉初夏」(『モダン日本』1946年8月号
①中村汀女(ナカムラ・テイジョ)
②1900-1988
③新太陽社
④1946年8月1日
⑤70P・26㎝
⑥5円
⑦小鏡を掛けて用足り柿若葉
 山羊静かあるじ来て居る新樹陰
 忘れたる如く松蝉鳴きやみし
(49P)

☆中村汀女は、高浜虚子に師事した女性俳人である。句集『花影(ハナカゲ)』(書林新甲鳥1948年)に「外(ト)にも出(デ)よ触るるばかりに春の月」(1946年吟)の代表句がある。


◆「散歩にて」(『週刊朝日』1946年夏季特別号
①吉屋信子(ヨシヤ・ノブコ)
②1896-1973
③朝日新聞社
④1946年8月1日
⑤96P・21㎝
⑥4円
⑦鎌倉や若葉にいよよ松の老ゆ
 潮騒に貝殻若き薄暑かな
 夏帽子もみあげ濃ゆき空似かな
(15P)

☆吉屋信子は新潟県出身の小説家である。『徳川の夫人たち』(朝日新聞社)、『女人平家』(朝日新聞社)等の歴史小説がある。晩年の作品『女人平家』は、1971(昭46)年にテレビドラマ化(吉永小百合主演)された。

◆「山窓閑筆」(『中央公論』1946年8月号
①野上弥生子(ノガミ・ヤエコ)
②1885-1985
③中央公論社
④1946年8月1日
⑤112P・21㎝
⑥5円(送料30銭)
⑦極端にいえば、市ヶ谷で毎日裁かれている戦犯の連中さへ、真に優れた文学のメスで解剖したら、世界の憎悪と憤怒を、一つの芸術鑑賞のたのしみに変じうるかもしれない。(81P)

☆弥生子は大分県出身である。「自覚と精進によって、私たちのあいだから外国の読書界を風靡するほどの傑作がつぎつぎ現われるならば、戦争人によって傷つけられた私たちの名誉は、(中略)新たな、世界の認識と共鳴を道連れにしてもどってくるに違いない。」と記述する。

☆同誌は、古島敏雄「わが国農業技術の停滞性」、土屋喬雄「三井財閥の発展」等の論文も掲載する。


☆弥生子はすでに、同年の『世界』4月号(既述)に、戦時の本土と台湾の関係を描いた創作「砂糖」を発表している。

☆夫の野上豊一郎は、夏目漱石の門下生であった。豊一郎は、同年の『世界』12月号に「パウロと奴隷」を発表する。

◎『ピレモンへの書簡』は、『新約』の中で最も短い一篇であるけれども、そうして教義的には恐らく最も重要性の乏しい一篇であろうけれども、但し、人間味の横溢した点に於いてはどの篇にもまさって珠玉の如く貴重なものである。
(前掲誌141P)

(2015年1月)


◎2月の行事案内
・2月 2日(月):手作り味噌仕込(無農薬自家栽培大豆)
・2月 4日(水):立春
         :確定申告税理士無料相談会 
・2月14日(土):耕雨忌(服部耕雨命日)
・2月18日(水):無添加味噌仕込(第2回)
・2月21日(土):地域環境保全共同作業



☆資料館の周囲では、水仙と菜の花が咲いています。今年はまだ梅も辛夷も咲き始めません。例年とは開花の時期が異なるようです。

☆中旬になり漸く紅白の梅が開花しました。

☆服部耕雨(治左衛門)は豪農俳人ですが、千葉県最初の自由党員(1882年8月入党)でした。1851(嘉永4)年7月に誕生し、1917(大6)年2月に他界しました(『明治俳人名鑑』、墓誌)。

☆旭市琴田の海宝寺山門に、巨大な顕彰碑と句碑が残っています。次のような斬新な佳句を詠んでいます。「新酒」は、『歳時記』では秋の季語ですが。

◎離別状を反古に丸めて新酒かな       耕雨
(サリジョウヲ ホゴニマルメテ シンシュカナ)
(『明治俳人名鑑』俳諧書房1910年53P)



☆収蔵品企画展
焼跡の雑誌論文・コラムの書誌データを書き続けます。今月は市川房枝、平塚らいてう、山川菊栄等の著名な(歴史教科書に登場するような)女性論客です。

◎書誌項目

①論文・コラム執筆者
②執筆者標目
③雑誌社
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

◆コラム「棄権するな女性-語る市川女史」
(『朝日新聞』1945年11月17日)
①市川房枝(イチカワ・フサエ)
②1893-1981
③朝日新聞社
④1945年11月17日
⑤2面・54㎝
⑥月額2円70銭
⑦市川房枝さんの婦人政治講座が(11月)16日から始まった。神田ニコライ堂でのこの講座は、市川女史が終戦後若い同志を集めて結成した、新日本婦人同盟の輝やかしき政治実践(後略)。(2面)

☆市川は、「女の場合はあくまで理想選挙でゆきたい、数を出すことより質を選ぶことです。」と翌年(4月10日)の戦後最初の衆院選に向けて心構えを述べた(『朝日新聞』1945年11月17日号2面)。しかし市川本人は立候補しなかった。

☆当館は1945(昭20)年11月発行の『朝日新聞』原本と縮刷版の両方を所蔵する。


☆「新日本婦人同盟」は、同年11月3日に結成された。非常に素早い対応である。市川房枝は会長に就任した(『日本婦人問題資料集成第2巻=政治』ドメス出版1977年72P)。


☆高群逸枝は、平塚らいてうを「信念の人」、山川菊栄を「言論の人」と評し、市川房枝を「実践先行」の人と論評した(『女性の歴史(下)』講談社文庫1972年)。

☆市川房枝は、GHQによって3年半の間公職追放になった。内閣総理大臣の本人宛通知文書(1947年3月24日付)が、前掲『日本婦人問題資料集成第2巻=政治』に収録されている。

☆内閣は第1次吉田茂(自由党)内閣で、追放指定の理由は以下の通りである。

◎指定の理由:同人(参議院立候補者・市川房枝)は大日本言論報国会理事の任にあった。(後略)
(前掲『日本婦人問題資料集成第2巻=政治』654P)

☆高群逸枝は、追放中の市川房枝について同情義憤の筆致である。「婦人団体協議会」による市川の表彰(婦選運動功労者)について次のように記述する。

◎追放者(市川房枝)を表彰することは、占領軍と政府にとってはたしかに面白くないことであり・・・日本の婦人たちが、戦後最初にもったレジスタンスであった。
(前掲『女性の歴史(下)』359P)

☆市川房枝は1950(昭25)年10月13日の追放解除まで、一切の政治活動を禁止された。

◆「文明開化と憲法発布」(『アサヒグラフ』1946年9月5日号)
①平塚らいてう(ヒラツカ・ライチョウ)
②1886-1971
③朝日新聞社
④1946年9月5日
⑤18P・36㎝
⑥2円(郵税1部15銭)
⑦わたくしの母はこういう新時代を迎え、文明開化の尖端を行こうとする官吏の家庭の主婦として、自分を再教育する必要を余程感じたものらしく、姉を乳母に、わたくしを祖母に託して、父がヨーロッパを旅行している間、自家からあまり遠くない桜井女塾(後の女子学院)に入学し英語を勉強していました。(16P)

☆平塚らいてうは、旧憲法(明治憲法)発布の想い出について、「父がドイツ語の達者なところから、参事院で、ロイ(エ)スレルというドイツ人の法律家の指導をうけて、伊藤公をたすけ、憲法制定の大業にあずかっていた。」(同誌16P)と記述する。

☆2年後、平塚らいてうは新憲法(日本国憲法)について、次のような見解を述べる。

◎新憲法の内容は、わたくしの心をすっかり明るくしてくれるものだった。たといそれが連合軍の日本占領政策の線に沿ったものであるにもせよ、男女をふくめての日本国民の総意をもってした無血革命に相違ないではないか。
(「わたくしの夢は実現したか」『女性改造』1948年10月号初出,『平塚らいてう評論集』岩波文庫1987年再録263P)。

◎もし日本が勝ってでもいようものなら、日本の女性は、なお1世紀をたたかいつづけても、おそらくこれだけの自由はえられないにちがいない。
(『平塚らいてう評論集』岩波文庫1987年264P)

◎新憲法は、第9条で軍備の撤廃、戦争の放棄を全世界に宣言した。戦争を好まないのは、生命を生み、育てる種族の母である女性の深い本能であって、日本の女性も心の底から平和を望み、暴力を否定し、各国がその軍備を縮小でなく、撤廃する日の到来を夢み、かつ祈っていたのであった。
(同書264P)

☆高群逸枝の日記に、平塚らいてうは度々登場する。逸枝は1958(昭33)年の『森の家日記』に、らいてう宛書簡草稿を記載する。

◎らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を期し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。
(『高群逸枝全集9』理論社1966年442P)

☆高群は大著『女性の歴史』(講談社文庫)の第5章「女性はいま立ちあがりつつある」に、同時代の「先駆者平塚らいてう」について、「全力をあげて」論評した(下巻268P~314P)。

◎戦争を悔い、世界に一つしかない非武装国(新憲法の規定で)の女性となった日本婦人の世界平和への使命と、それならどうしてその平和実現の方式を見出すかということが、終戦以来彼女にふりかかった最も大きな課題となった。
(『女性の歴史(下)』講談社文庫1972年308P)

☆「それならどうしてその平和実現の方式を見出すか」という高群の論評は俊敏で痛烈である。しかし「なお1世紀」を要する過酷な課題であったのである。

☆詩人研究者の逸枝は1964(昭39)年6月7日(満70歳)に他界し、詩人運動家のらいてうは1971(昭46)年5月24日(満85歳)に他界した。

☆自伝に依ると、らいてうは戦後の1948(昭23)年頃、中村汀女(前述)に俳句を学んだようである。自伝から五句のみ引用する。(   )は引用者。

◎夜の秋闇に滝聞く独りかな
◎蜩(ヒグラシ)に目覚めし窓のなお暗き
◎青葉谷いくつぬけたる墓参かな
◎わが暮らし貧しと言わじ牡丹咲く
◎端居(ハシイ)するわれ母に似て年老いし
(『続・元始、女性は太陽であった』大月書店1972年65P~66P)

◆「若き女性へ」(『世界』1946年11月号)
①山川菊栄(ヤマカワ・キクエ)
②1890-1980
③岩波書店
④1946年11月1日
⑤144P・20㎝
⑥6円(送料30銭)
⑦若い娘たちを待つものは恋愛と結婚ですが、この場合にも勇敢に行動する必要があります。が、私のいう勇敢とは思慮を欠く意味ではなくて、(中略)生涯の伴侶を選び、わが子のために父を選ぶ意味では、あくまで冷静に、慎重に考える必要があります。(77P)

☆山川菊栄は自己の眼に映った戦後の風景を、「戦争によって国民の大きな部分は無一文となり、乞食同様となりました」、「廃墟になった都市には、孤児と闇の女と失業者とがみちみちています。病人と不具者(ママ)は戦前の幾倍に達していることでしょう?」(同誌76P)と述べる。

☆山川菊栄は若い女性に対して、「現在のように急激な移り変りの段階では、男女とも新旧思想や伝統の混合からくる未成熟な、矛盾した要素を多くもちますが、家庭生活でその欠点や破綻が現れる結果多く苦しむのは女であり、より深刻な犠牲を払うのも女ですから、それだけの用意をもって相手を選ぶべきでしょう。」(同誌78P)と述べる。

☆同誌は都留重人「経済学の新しい課題」、桑原武夫「第二芸術」、井伏鱒二「橋本屋」等を掲載する。都留は『思想の科学』創刊同人であった。桑原の「第二芸術」については前述した。

☆井伏の「橋本屋」には、広島の「大空襲」(原爆被災)の叙述がある。鮎の釣宿の「橋本屋」は、JR福塩(フクエン)線の「新市駅」と「府中駅」の間に設定されている。戦争文学の名作『黒い雨』(初題は『姪の結婚』)の連載が始まるのは、『新潮』の1965(昭40)年1月号からである。

☆1945(昭20)年の5月初めに山川均・菊栄夫妻は広島県の国府村(現府中市)に疎開した。同年8月6日の原爆投下について次のような記述がある。

◎八月六日のあの日、勤め人や兵士や勤労奉仕隊員として広島市へいっていたものの多いこの村(国府村)ではそれだけ犠牲者も多く、毎日次から次とお葬式がたえず、あそこでもここでもと、ぶじに帰って喜ばれた人々が、間もなく苦しみぬいて死んでいく中に終戦の日を迎えました。
山川菊栄『おんな二代の記』東洋文庫1972年307P)

☆反戦を貫いた山川(夫妻)イズムの、戦後平和主義への体験的基底であると言えよう。

☆高群逸枝の戦後の『森の家日記』には、山川菊栄は殆ど登場しない(1950年3月28日のみ)。

☆高群の前掲『女性の歴史』(講談社文庫)は、山川に対して好意的な評価と厳格な批判の両側面を記述する。好意的な評価を二ヵ所引用する。(   )は引用者。

◎プロレタリア婦人にとっては、とくべつなプロレタリア婦人問題なるものはありえず、ただありえるものは階級問題や運動のみという公式主義の勢力はかなり根づよいものであったが、主として均・菊栄らの努力で、(中略)しだいに開明へと導かれていった事実は、とうぜんわが無産婦人運動史上の一エポックとして記憶されてよいものとおもう。
(前掲『女性の歴史(下)』332P)

◎婦人少年局の初代局長としての彼女は実際面にも、調査面にも、啓発面にも、かなりの功績を残した。昭和23年に吉田内閣が成立すると、なにかと迫害を蒙りつつもよく忍耐したが、昭和25年にいたってついに衝突して退職した。
(前掲『女性の歴史(下)』334P)

☆手厳しく論争的な記述もある。二ヵ所引用する。(   )は引用者。

◎新婦人協会(1920年に平塚、市川、奥等結成)がけっして彼女(山川菊栄)がいうように中産層ないし有閑婦人層の「道楽」ではなく、それどころか「青鞜」時代までは主として啓蒙運動にすぎなかった日本のおくれた婦人解放運動が、「新婦人協会」にいたって、はじめてようやく半封建的ブルジョア政権を向こうにまわして、これと勇敢に闘う姿勢をとった。
(前掲『女性の歴史(下)』315P)

◎かつてのボル(ボルシェビズム)の闘士山川菊栄もかわった。(中略)三月八日(1947年)の国際婦人デーに共産主義系の民婦協中心に、約二万の婦人の大群が日比谷に結集するという空前の盛事にたいし・・・「モスクワの手先の婦人デーだ」とそれを排斥し、四月一〇日~一六日の婦人の選挙権行使の記念週間をもって、「婦人週間」とすることを主唱してこれを開始した。
(前掲『女性の歴史(下)』333P)

☆山川菊栄は労働省婦人少年局の局長(片山社会党内閣)を、1947(昭22)年9月1日から1951(昭26)年6月25日まで約4年間務めた。婦人労働課長は谷野せつ、婦人課長は新妻イトであった(前掲『日本婦人問題資料集成第二巻政治』738P)。

☆同じ頃、市川房枝は1947(昭22)年3月24日から1950(昭25)年10月13日まで公職追放されていた。参議院議員に当選するのは追放解除後である。

☆1958(昭33)年3月23日に夫の山川均(1880年誕生)が死去した(前掲『おんな二代の記』東洋文庫所載年譜)。

☆市川房枝編集解説『日本婦人問題資料集成第二巻政治』(ドメス出版1977年)は、戦後の山川菊栄執筆資料として「新日本婦人同盟の諸姉へ」(『婦人有権者』新日本婦人同盟1947年10月号)と「四月十日を婦人の日に」(前掲誌1948年3月号)を収録する。

☆鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)は、焼跡時代の長編評論として「解放の黎明に立ちて-歴史的総選挙と婦人参政権-」(『婦人公論』1946年4月再生号)を収録する。

☆当館は山川菊栄の「闇の女と人権問題」(『放送』1947年3月号)、「友愛と社会改革」(『婦人朝日』1947年11月号)も所蔵する。


(2015年2月)


◎3月行事予定
・3月 1日(日):理事会
・3月 3日(火):雛祭り
・3月 5日(木):春峰忌(板倉中命日)
・3月 8日(日):国際婦人デー
・3月11日(水):東日本大震災(4周年)
・3月16日(月):馬鈴薯植付作業
・3月21日(土):春分の日



☆板倉中(春峰)は弁護士で自由党員でした。加波山事件や大阪事件の裁判の弁護人を務めました。漢詩人でもあり、書家としても知られています。当館は常設展示室に春峰自筆の漢詩掛軸を展示しています。3月5日は春峰忌です。

最近、蕗の薹を採取して調理しました。整腸の効能があるようです。これからは山菜(タラの芽・蕨等)と野草(芹・蕗・三つ葉・土筆・蓬等)が食材の季節です。

☆筆者が戦後高度経済成長期の高校生だった頃、厭世的な三無主義(無気力・無関心・無責任)が批判されました。3・11大海嘯と原発汚染後の今、房総の里山に暮らす古老の反文明的新三無主義は無施肥・無資本・無権力です。

☆早朝、庭先から聞こえる「ホーホケキョ、・・・」という鶯の喧しい啼き声で目が覚めます。野草(オオイヌノフグリ)の瑠璃色の花を蜜蜂が飛び回り、その下をテントウ虫が慌ただしく徘徊しています。暖かくなりました。



☆今月も収蔵品企画展
焼跡の女性評論・文芸・コラムの書誌データを書き続けます。

◎書誌項目

①論文・コラム執筆者
②執筆者標目
③雑誌社
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

◆「風知草」(1回)(『文藝春秋』1946年9月号)
①宮本百合子(ミヤモト・ユリコ)
②1899-1951
③文藝春秋新社
④1946年9月1日
⑤144P・20㎝
⑥6円
⑦ひろ子のところへ帰るという感情の中心に、くっきり浮んだのが小さい昔の家の入口の光景であったということを、ひろ子は感動なしに聴けなかった。(67P)

☆風知草はイネ科の多年草である。『風知草』というタイトルは、そこより風が生まれるという寓意であったろうか。当館は翌年に刊行された単行本初版と再版も所蔵する(前述)。

☆作者の宮本百合子は、「ひろ子は、これらの話(市川正一と戸坂潤の獄死)をきいたとき泣いた。重吉と自分とに与えられた愉悦に、謙遜になった。どんなにこれらの人々は生きたかったであろうか、と。」と叙述する。(同誌71P)

☆9月号編集後記は「余儀ない事情が氏(宮本百合子)の身辺に発生したため、本号の締め切りまででは、半ばにも満たぬ所で筆を投じなければならなくなった。(中略)十月号には残り全部が完成されるであろう。」(同誌144P)と述べる。

◆「朱絵(アカエ)」(『文藝春秋』1946年9月号)
①長谷川かな女(ハセガワ・カナジョ)
②1887-1969
③文藝春秋新社
④1946年9月1日
⑤144P・20㎝
⑥6円
⑦・豊国の朱絵(アカエ)妖しき夏の露
 ・巻帯をして萩の戸の露すヾし 
 ・壺井栄さんの著, 凌宵花「ふたたび」本になりて泣く 
 (15P)

☆長谷川かな女は高浜虚子に師事した女性俳人である。「ふたたび」の句は、壺井栄(前述)が1946年に出版した書籍『ふたたび』(萬里閣)の書名を詠み込んだ句である。9月号には合計6句が掲載された。

☆長谷川かな女はどのような句を詠んだ俳人か。手許にある種々の歳時記から5句引用する。(   )は引用者。

◎朧夜の人のあとより歩きけり
(『新撰俳句歳時記・春』明治書院1976年3月)
◎からし菜を買うや福銭のこし置き
(『第三版俳句歳時記・春の部』角川文庫1996年3月)
◎水入れて春田となりてかヾやけり
(『現代俳句歳時記・春』ハルキ文庫1997年4月)
◎丸山の雪寒紅の猪口に降る
(『現代俳句歳時記・冬』ハルキ文庫1997年10月)
◎初若菜うらうら海へさそわれて
(『草木花歳時記・冬』朝日文庫2005年11月)

☆「朧夜(オボロヨ)」は朧月夜のことである。「人」は信頼する男性だろう。「福銭(フクゼニ)」は財布の中に入れておくお守り硬貨である。生活感が漂う。「春田(ハルタ)」は田植え前の水田のことである。春光は銀色に反射する。「寒紅(カンベニ)」は、かつて高品質の日本紅であった。「うらうら」は日光の長閑な様子であり、「若菜(ワカナ)」は新年の季語である。

◆「風知草」(2回)(『文藝春秋』1946年10月号)
①宮本百合子(ミヤモト・ユリコ)
②1899-1951
③文藝春秋新社
④1946年10月1日
⑤128P・20㎝
⑥6円(書留送料1円30銭)
⑦「考えて頂戴。あなたのことはあなたがなさい、というような心持でどうして十何年が、やって来られたのよ」 ひろ子がそんな石のような女で、身のまわりのことにも今後一切手をかりまいと思いきめたなら、その重吉にとって、ひろ子の示す愛着は、どんな真実の意味があり得よう。(108P)

☆10月号は、9月号に続く連載2回目の執筆部分である。単行本初版では(二)の後半から、(四)の末尾までである。初出誌と単行本初版を比較検討すると、推敲加筆が随所に認められる。しかし前掲引用文章(同号108P)は同一である。

☆作者の宮本百合子は、広島の原爆投下について次のように叙述する。

◎「わたしは、あなたから後家のがんばりと云われるのだと思うと、本当の後家さんにすまないように思うわ。知っていらっしゃる? つやちゃんだって後家さんなのよ」 重吉の弟の直治は、広島で戦死したのであった。
(同号103P)

☆『十二年の手紙』(筑摩叢書)所収の宮本百合子書簡(1945年9月4日付)は、焦土と化した広島市と同年7月17日に入隊した義弟(宮本達治)の戦死(行方不明)について記す。

◎7月17日召集をうけ広島に入隊。(中略)広島全部焦土の由。その上生きている人々は解除で四散し、全く手のつけようもないようです。
(『十二年の手紙(下巻)』筑摩書房1965年5月209P)

☆戦争文学の名作である『黒い雨』は、一箇所だけ「筆者注」を挿入している。 広島市内にあった師団司令部の壊滅についての補足説明である。

◎「伝令はやがて帰って来た。然し、その報告は『司令部はありません』であった。『ないとは、どういうことか』『とにかく何もないのです』『どうしたのだ』『わかりません』そういう問答が交わされた。」
(井伏鱒二『黒い雨』新潮文庫1970年6月128P)

◆「風知草」(3回)(『文藝春秋』1946年11月号)
①宮本百合子(ミヤモト・ユリコ)
②1899-1951
③文藝春秋新社
④1946年11月1日
⑤128P・20㎝
⑥7円
⑦1945年の冬は、日本の民主主義の無邪気な発足の姿であった。木枯しめいた風の吹く午後おそく、ひろ子は、前後左右ぎっしり職場の若い婦人たちで埋った講堂で、ニュース映画を観ていた。それは「君たちは話すことが出来る」と云う題であった。(106P)

☆11月号は、10月号に続く連載3回目(終回)の執筆部分である。本号から定価が7円に値上げされ、戦後インフレが続いている。

☆1946(昭21)年の宮本百合子は、自伝的小説「播州平野」(『新日本文学』創刊号・2号・5号)と「風知草」(『文藝春秋』9月号・10月号・11月号)を連載執筆した。評論「歌声よ、おこれ」(『新日本文学』創刊準備号)、「現代の主題」(『世界』10月号)を発表し、更に座談会(『中央公論』3月号、『婦人朝日』12月号)等にも出席して文字通り八面六臂(ハチメンロッピ)の大活躍である。

☆当館は、翌1947(昭22)年の連載小説「二つの庭」(『中央公論』1月号・3月号・4月号・5月号・6月号・7月号・8月号・9月号)も所蔵する。

☆評論「現代の主題」(『世界』10月号)には、「自由民権」について言及した箇所が二箇所ある。宮本百合子の「自由民権」観を知る事ができる。

◎明治からの歴史に、私たちは市民社会の経験をもたなかった。悲しい火花のような自由民権思想の短い閃きをもったまま、それが空から消された(後略)。
(同号56P)

◎自由民権を、欽定憲法によってそらした権力は、この一つの小規模な、未熟な、社会主義思想のあらわれを、出来るだけおそろしく、出来るだけ悪逆なものとして扱って、封建風のみせしめ(大逆事件)にした。
(同号56P~57P)

☆宮本百合子晩年の自伝的大作『道標』(雑誌『展望』1947年~1950年連載)にも、「自由民権」についての叙述がある。ソヴィエトにおける農村女性との交流の描写である。

◎伸子は簡単に、ごく短かかった日本の自由民権時代、男女平等論時代と、それからあと現代までつづいている婦人の差別的な境遇について説明した。
(『宮本百合子全集第七巻』新日本出版社2002年2月262P)

☆高群逸枝の大著『女性の歴史(上)(下)』(講談社文庫1972年)には、プロレタリア作家の平林たい子(前述)、壺井栄(前述)、佐多(窪川)稲子(後述)についての論評はあるが、宮本(中條)百合子については論評がほとんどないのは不思議な気がする。宮本(中條)は『森の家日記』にも登場しない。

☆博覧多通の加藤周一は、宮本百合子の戦後の作品を次のように周到に評価し平易に記述した。

◎敗戦直後の地方の光景は「播州平野」に、二人の再会から一二月の共産党大会までの生活は、「風知草」に、描かれる。このように宮本百合子の小説は、作者その人の生涯を、直接に題材とすることによって、まさにその生活の独特の内容の故に、小説の世界を拡大した。
(加藤周一『日本文学史序説・下』ちくま学芸文庫1999年4月456P)

(2015年3月)


《掲示板》
・4月 1日(水):馬鈴薯土寄せ,タラの芽採取
・4月 4日(土):「高知市立自由民権記念館25周年式典」(同館)
・4月 8日(水):虚子忌
・4月11日(土):「新指定記念展」(町田市立自由民権資料館)→ 5月31日
・4月16日(金):自家製味噌天地返し
・4月20日(月):穀雨,筍(孟宗竹)掘り週間↓



☆3月初旬に植えた自家産の馬鈴薯がもう緑色の芽を出しました。今年は3回に分けて時間差(2週間置き)で植え付けを実施しました。自家産と購入品の種芋合計250個が順調に成長しています。

☆4月8日は近代俳句の巨匠高浜虚子の命日です。女性門人の下田実花(シモダ・ジッカ)に「老いて尚妓として侍る虚子忌かな(オイテナオ ギトシテハベル キョシキカナ)」の佳句があります。句の通り、実花は新橋の芸妓俳人でした。



☆収蔵品公開展“焼跡の女性評論・コラム・文芸”の書誌データを書き続けます。4月は佐多稲子と林芙美子の作品です。

◎書誌項目
①執筆者
②執筆者標目
③発行所
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

◆「版画」(私の東京地図・一)(『人間』1946年3月号)
①佐多稲子(サタ・イネコ)
②1904-1998
③鎌倉文庫
④1946年3月1日
⑤192P・20㎝
⑥5円(送料30銭)
⑦東京の街は、あらかた焼け崩れた。焼けた東京の街に立って、私は私の地図を展げる。私の中に染みついてしまった地図は、私自身の姿だ。(160P)

☆文芸雑誌『人間』(月刊)は1946(昭21)年1月創刊で、編集人は木村徳三であった。発行所の鎌倉文庫社長は久米正雄、専務は川端康成であった(木本至『雑誌で読む戦後史』新潮選書1975年)。鎌倉文庫は同年5月に女性雑誌『婦人文庫』(月刊)も創刊する。

☆焼跡(向島小梅町)に佇む佐多稲子は、東京大空襲、関東大震災、安政大地震による首都焼失を実体験(記憶と家並)に即して回想する。直下型大地震が危惧される現在、短編小説は不気味なリアリティーを帯びる。

☆『佐多稲子全集第18巻』(講談社)所載の年譜に依ると、自伝的連載小説「私の東京地図」は諸誌に13回にわたって発表された。

◇1946年
①「版画(私の東京地図一)」(『人間』1946年3月号)
②「下町(私の東京地図二)」(『人間』1946年7月号)
③「池之端今昔(私の東京地図三)」(『人間』1946年11月号)
④「挽歌(私の東京地図四)」(『展望』1946年11月号)

◇1947年
⑤「橋にかかる夢(私の東京地図七?)」(『新風』1947年1月号)
⑥「曲り角(私の東京地図六)」(『中央公論』1947年2月号)
⑦「坂(私の東京地図五)」(『婦人文庫』1947年3月号)
⑧「表通り(私の東京地図八)」(『別冊文芸春秋』1947年4月)
⑨「川(私の東京地図九)」(『サンデー毎日・臨時増刊号』1947年5月)
⑩⑪「移りゆき(私の東京地図一〇)」(『婦人』1947年9月号,10月号)

◇1948年
⑫「表と裏(私の東京地図一一)」(『新日本文学』1948年1月号)
⑬「道(私の東京地図の終り)」(『芸術』1948年5月号)

◇1949年(単行本)
・『私の東京地図』(1949年3月新日本文学会)
※『佐多稲子全集第18巻』(講談社1979年6月,512P~514P)参照

☆佐多稲子は、「底点(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来た深淵)」の世界を追認して憚らない下町の庶民男性も登場させる。「版画(私の東京地図一)」の「私」は、長崎から東京に転居した少女時代の作者である(『私の長崎地図』講談社文芸文庫2012年7月)。

◎「奥さんを女郎さんに売ったってねえ。」といつか私の祖母が顔をしかめて言ったのを私は聞いていた(後略)。
(同誌164P、『私の東京地図』講談社文芸文庫2011年9月,21P)

◆「浮浪兒」(『文藝春秋』1946年10月号)
①林芙美子(ハヤシ・フミコ)
②1903-1951
③文藝春秋新社
④1946年10月1日
⑤128P・20㎝
⑥6円(書留送料1円30銭)
⑦「おちさん、レコートかけようか」と云ったり、「おれ、およきに行く」と云ったりするのが、皆の注意をひいた。時々東京の新小岩あたり辺の河辺の景色を、子供が愉しそうに語る。父親の名前も母親の名前も子供は語らない。(69P)

☆林芙美子は焼跡の戦災孤児問題について、「社会全体の大きな慈愛」と「政府の物質的な援助」の必要性を指摘する(同誌69P)。

☆林芙美子の時評の結語は「浮浪兒達」への呼びかけである。(  )は引用者。

◎浮浪兒達よ、病気で死んだりしてはいけない。どんな事があっても生きていることです。私も、昔は、あなた(た)ちとあまり大差のない生活をしていたのだ。元気で、くじけないで生き抜くことだ。きっと、いい光が射してくる時が来ると思う。
(同誌72P)

☆高群逸枝著『女性の歴史(下)』(講談社文庫1972年8月)は、平林たい子、壺井栄、佐多稲子、林芙美子等の作風について明晰な洞察を提示する。

◎女性教祖ら(中山ミキ・出口ナヲ)のお筆先は大衆語で短歌風に書かれていた。
(同書619P)

◎彼女ら(たい子・栄・稲子・芙美子)に共通なのは、女性教祖と同じ大衆語をつづるお筆先作家ということである。
(同書619P)

◎彼女らは、社会主義的・革命主義的作家としてよりは一般大衆女性をそのまま代表している作家たちなのである。
(同書620P)

◎一般大衆女性は、彼女らの大衆語とその大衆的資質にたいして、じゅうぶんに自己自身をかんじうるのであり、聴聞衆としてでなく創造者として参加しうるのである。
(同書620P)

◎彼女(芙美子)は大衆的な欲念と、非大衆的な厭世感(観)とに引き裂かれた悲劇的詩人であった。
(同書621P)

☆「お筆先作家」と「一般大衆女性」という枠組みは、高群逸枝の独創的な把握である。加藤周一著『日本文学史序説(下)』(ちくま学芸文庫1999年4月)は、宮本百合子(前述)の作品は評価するが、「女性教祖」や「お筆先作家」への言及はまったく無い。この点も不思議である。

☆林芙美子の名作『放浪記』(改造社1930年7月)は戦前のベストセラーである。女優森光子主演の演劇(菊田一夫脚本)は、戦後繰り返し繰り返し上演されて来た。

◆「挽歌」(私の東京地図・四)(『展望』1946年11月号)
①佐多稲子(サタ・イネコ)
②1904-1998
③筑摩書房
④1946年11月1日
⑤128P・20㎝
⑥7円(送料30銭)
⑦最初の揺れがひと先ず終ったとき、みんな外へ出ろ、と誰かにうながされて、私は抱き合っていた連れといっしょに、入口から外へ出た。出たとたんに、筋向うの野沢組の赤煉瓦の建物が、ざあっと前へ崩れ落ちた。(124P)

☆「挽歌(私の東京地図・四)」は、1923(大12)年9月の関東大震災の頃を描いた自伝的小説である。佐多稲子は当時、日本橋の丸善に勤務していた。丸善の2階は洋書、1階は和書、文具、用品を販売していた。作者は1階の化粧品売場で働いていた。

☆殺害されたアナキストの大杉栄は実名で作品に登場する。佐多稲子は、丸善の1階を訪れた宮本百合子の第一印象を次のように記述する。

◎「伸子」の作者を最初に見たのもここであった。一人の人間のものの言い方や態度の系統というものは、おそろしいほど、年月を経ても変らないものだ。
(同誌116P)

☆「ものの言い方や態度の系統」という評言の意図が何であったかは、この作品では曖昧である。宮本百合子が他界した1951(昭26)年に、佐多稲子は「花について」というエッセイで次のように記述する。

◎きれいな花だ、と、花の美しさを言いながら、それは花のことだけではなく、亡くなった人を称えているおもいなのであった。百合子さんの死の直後から、告別式の前後、私たちは幾度も、霊前の花の美しさをくり返して称えたようにおもう。
(発表誌未詳,推定1951年、『佐多稲子全集第17巻』講談社1979年4月,394P~395P)

☆「挽歌」の発表から5年後である。二人の出会いからは30年後の述懐であった。

◆「曲り角」(私の東京地図・六)(『中央公論』1947年2月号)
①佐多稲子(サタ・イネコ)
②1904-1998
③中央公論社
④1947年2月1日
⑤96P・20㎝
⑥7円(送料30銭)
⑦このとき私の胎内にひとつの命が鼓動していた。すべての感覚を放擲しているつもりの私の胎内で、私は胎兒の動きを感じた。私はそのとき初めて、感情を取り戻し、悲しみと不安に戦いて、泣いた。(95P)

☆若い頃に購入した吉本隆明著『言語にとって美とはなにか』(勁草書房)は、「曲り角」の服毒心中未遂場面を引用し次のような批評を記述する。

◎作中の<私>は作者の<私>と同一人であり、<対象>化された<私>である。しかし、この表出は作者が作中の<私>に移行しきって自殺未遂のまま車にのせられてゆくときの切れ切れな断想をのべているのではない。また作者の位置が明確にあって、そこから<私>という女の動きを描いているのでもない。
(『吉本隆明全著作集6』勁草書房1972年2月,P319)

◎おそらく、ここで、いわゆる<私>小説概念を<私>小説の性格を保ったまま極限までひっぱった表現が生み出されたのである。作品としても佐多の戦後の最高の出来ばえであった。
(同書P319)

☆辛口(激辛?)批評の大家にしては好意的で精細な批評であった。

☆「移りゆき(私の東京地図・一〇)」と「道(私の東京地図・終り)」では、エンゲルス著『空想と科学(空想より科学へ)』を初めて読んだ経験が記述され、「権力」に抗する作者が出会った人々(芥川龍之介、小林多喜二等)が実名で描写される。

◎私にとっては初めての、国家の権力を向うにまわしての秘密ごとであった。
◎私には権力に反撥する強情なものがその底にいつもくすぶっている。
◎権力というものはこの時こそ私にも社会的に展がって摑まれているが、前々から私には、威張るもの一般に対して憎悪する意地の強さも激しいのであった。
(『私の東京地図』講談社文芸文庫2011年,190P)

☆佐多稲子が記述した戦前の「国家の権力」とは何であったか。

☆佐多稲子は後年、23歳の頃を回顧し、岩波文庫の『空想より科学へ』を読んだように記述した(『佐多稲子全集第17巻』講談社)。『全集第18巻』所載の「年譜」にも、1927(昭2)年に『空想より科学へ』を読んだことが記載される。

☆しかし、1927(昭2)年にはまだ岩波文庫の『空想より科学へ』は出版されていない。佐多稲子が読んだのは白楊社刊の『空想から科学へ』(後述)ではなかったか。

☆堺利彦(枯川)は、エンゲルス著『空想から(より)科学へ』を雑誌『社会主義研究』(1906年7月)に訳出紹介した。これが最初である。次いで雑誌『新社会』(1918年3月号・4月号)に改訳して掲載した。

☆堺利彦(枯川)は、1921(大10)年に大鐙閣から『空想的及科学的社会主義』という書名の単行本を出版した(『社会主義の発展-空想的から科学的へ-』改造文庫1929年2月,訳者序文)。

☆近代以降、「国家(の)権力」はどのように翻訳されて来たか。当館所蔵本から抜粋する。

①特殊の鎮圧力(即ち国家)も不必要となる筈である。(中略)社会的諸関係に対する国家の干渉は、種々の方面に於て次第々々に無用となり、遂に自ら其の間に消失する。
(堺利彦訳『空想から科学へ』白楊社1924年9月)

②特殊の鎮圧力、即ち国家の必要が無くなる。(中略)社会の諸関係に対する国家権力の干渉は各方面に対して段々と無用になり、遂におのずから消滅する。
(堺利彦改訳『社会主義の発展-空想的から科学的へ-』改造文庫1929年2月)

③特殊な抑圧権力たる国家は必要でない。(中略)国家権力が社会関係に対して行なってきた干渉は、一領域から他領域へと無用の長物となり、ついには順々に眠りにつく。
(大内兵衛訳『空想より科学へ-社会主義の発展-』岩波文庫1946年9月,1966年改訳)

☆「国家 Staat」は「特殊な抑圧権力 besondre Repressionsgewalt 」であり、ついには「死滅する absterben 」というのがエンゲルスの国家論の要点である。

☆小冊子『空想より科学へ』は、大著『反デューリング論 Anti-Dührig 』の摘要抄録である。「新メガ」に依拠した『反デューリング論』の日本語訳は次のような訳文である。

◎国家権力が社会関係に干渉することは、一つの領域から他の領域へ、つぎつぎに余計なものになり、やがてひとりでに眠り込んでしまう。

Das Eingreifen einer Staatsgewalt in gesellschaftliche Verhältnisse wird auf einem Gebiete nach dem andern überflüssig und schlaft dann von selbst ein.

◎人を統治することに代わって、物を管理し生産過程を指揮することが現れる。

An die Stelle der Regierung über Personen tritt die Verwaltung von Sachen und die Leitung von Produktionsprozessen.

◎国家は「廃止される」のではない。死滅するのである。

Der Staat wird nicht“abgeschafft”, er stirbt ab.

(秋間実訳『反デューリング論(下)』新日本出版社2001年10月,但しドイツ語は当館所蔵『ヴェルケ WERKE』第20巻)

☆レーニンは5項目の特徴、①国家権力の掌握・廃絶・死滅、②特殊権力の交替、③民主主義も国家、④民主共和制と賃金奴隷制、⑤暴力の役割、を指摘した(『国家と革命』岩波文庫,国民文庫,ちくま学芸文庫,講談社学術文庫,『レーニン全集第25巻』大月書店参照)。

☆『空想から科学へ』の訳者の堺利彦(枯川)は、1922(大11)年に創設された日本共産党の代表であった。同党の「綱領草案」は、「国家(の)権力」が「大土地所有者」と「商工ブルジョアジーの若干部分」との「ブロック」に握られていると記述する。

☆佐多稲子は、「移りゆき(私の東京地図・一〇)」で、1927(昭2)年7月の芥川龍之介の自殺を叙述した。同年は佐多がエンゲルスやレーニンの著作を読んだ年である。

☆「27年テーゼ」は「国家(の)権力」を次ように記述する。明治維新は「日本のブルジョア的発展」に道を拓いた。しかし「政治権力」は、「大土地所有者」および「軍閥と宮廷徒党」の手中に留まった。

☆佐多稲子が戦前の日本共産党に入党したのは、五・一五事件(海軍将校や愛郷塾生による犬養首相等の暗殺)の起きた1932(昭7)年である(『全集第18巻』年譜)。

☆「32年テーゼ」は「天皇制」の過小評価を戒め、「国家(の)権力」を次のように記述する。明治維新後に成立した「絶対君主制」は「無制限の権力」を維持し、「勤労階級にたいする抑圧および専横支配」のための「官僚機構」を作り上げた。

☆1932(昭7)年8月20日付の小林多喜二書簡(既述)には、不遇な境遇に生まれた田口瀧子宛のものがある。『党生活者』執筆中であったが、小林の「底点(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来た深淵)」への希有なヒューマニズムを示す。

◎僕は最近タキちゃんと会えば、何だか話が出来ないのだ。色々な事を沢山話そうと出かけて行っても。― 然しやっぱり会いたい。
(『小林多喜二の手紙』岩波文庫2009年)

☆佐多稲子は、小林の恋人「田口瀧子」に会ったことがあっただろうか。

☆佐多稲子は「道(私の東京地図・終り)」において、「満州での戦争」の拡大を記述する。

◎東京の町の空気は、いったいに重く沈んでいる。商店などにも活気はない。満州での戦争は拡大していて、そのことが人々の気持に蔽いかぶさっている。(中略)まだこの戦争が自分たち全体に及んでくるとまではおもっていない。(中略)そういう街を、私は赤ん坊を負ぶって歩く。
(『私の東京地図』講談社文芸文庫2011年9月,229P)。

☆「道(私の東京地図・終り)」では、1933(昭8)年2月の小林多喜二拷問死、1941(昭16)年12月の日米開戦、1945(昭20)年4月と5月の東京空襲を追懐し記述する。

☆最後の「東京地図」は、地形が剥き出しになった焼跡の「戸塚の町」(新宿区)である。

☆『私の東京地図』(講談社文芸文庫)には、空襲の「焼跡」描写が各処に認められる。同書には「焼跡」、「焼け跡」、「焼けあと」という3種類の表記の不統一(乱れ?)が残存する。編集担当者の見落としだろうか。新日本文学会刊の初版本と比較しつつ不統一のまま引用する。「  」と(   )及びカタカナは引用者。

◎つい先頃、京成電車でこの通りを通ったが、赤ちゃけた「焼跡」が電車の窓の両側に展がっていて、舗装道路の白く貫いて走っているのに街(向島)の名残りがあるばかりだった。
(文庫「版画」11P,初版本12P)

◎「焼け跡」の瓦礫の原(浅草)を越して、仲見世(ナカミセ)の桃色の壁が、これもまたセットのように見えていた。
(文庫「版画」15P,初版本19P)

◎今日の「焼け跡」を見慣れた目には、日活館だけ残って左右は跡形もなくなったこの辺(上野)を見ても、今更の感慨はなくて、バラックの小店に人絹のハンカチがひらひらさがっているのは当り前のように眺めてしまう。
(文庫「下町」44P,初版本61P)

◎清凌亭のあった並び(池之端)は、無惨な「焼け跡」の傷々しさで、板づくりの小屋がひとつふたつ裏を見せて建ちかけている。
(文庫「池之端今昔」79・80P,初版本111P)

◎道の両側は特有の赤ちゃけた「焼跡」(神楽坂)にまだバラックの建物らしいものも見えず、道だけがひっそりとしている。
(文庫「坂」110P,初版本152P)

◎電車が大塚駅のホームに停まると、私はいつも目の下に拡がる「焼(け)あと」の、丘の彼方にはもう雲のわき立っている空がつづいてしーんと音もない景色を眺めてしまう。
(文庫「移りゆき」177P,初版本246P ※文庫本は「焼けあと」、初版本は「焼あと」)

◎自分の住んでいた家(戸塚)の「焼け跡」に立って、赤さびてそれだけ残っている台所の井戸のポンプを見た。
(文庫「道」249P,初版本351P)

☆窪川鶴次郎は、『新日本文学』創刊号(1946年3月,当館所蔵)に「文学史の一齣」という評論を発表する。佐多(窪川)稲子は1945(昭20)年5月に、鶴次郎と正式に離婚した(『全集第18巻』年譜,『時に佇つ』講談社文芸文庫)。

☆単行本の『私の東京地図』(新日本文学会1949年3月初版)には、1936(昭11)年の二・二六事件と首都戒厳令についての記述がないが、夫の投獄や朝帰りの辛い「告白」もある。井伏鱒二の『黒い雨』、『遙拝隊長』に比肩する戦争文学の名作である。

(2015年4月)

《掲示板》
・5月 3日(日):「国会期成同盟発祥の地」建碑30周年のつどい
          (大阪市北区太融寺)
・5月 5日(火):こどもの日
・5月 6日(水):立夏
・5月 7日(木):薫陶忌(井上幹命日)
・5月20日(水):三省忌(君塚省三命日)



☆菜園の馬鈴薯の蕾が開き始めました。自家製味噌の1回目の天地返しを実施しました。

☆グリーンピース、空豆、辣韮、ニンニク、ホウレンソウ、葱、里芋は順調です。キャベツ、ブロッコリー、胡瓜、茄子、トマト、ピーマンの幼苗も生育しています。南瓜、ゴーヤ、生姜、大根、枝豆はまだ発芽しません。

☆民権資料館敷地(旧村立病院跡)の大小様々の薔薇が少しずつ咲き始めました。

☆5月7日(木)はいすみ市の「薫陶学舎」を創設した井上幹(イノウエ・ミキ)の命日です。先日、御子孫の皆様(東京在住)がお墓参りの折に来館され歓談しました。有朋自遠方来 不亦楽乎。

☆民権資料館南面の「青梅」を採取して、梅酒2升を仕込みました。初秋になれば冷やして飲めるでしょう。

☆厄年の頃、闘病中に「青梅」の句を詠んだことがあります。

◇梅雨寒や青梅落ちる風の音    凡一旧句
 ツユザムヤ アオウメオチル カゼノオト

☆与謝蕪村には、次のような「青梅」の秀句があります。

◎青梅を打てばかつちる青葉哉   蕪村
 アオウメヲ ウテバカツチル アオバカナ

☆無農薬有機栽培の大蒜(ニンニク)を収穫し、醤油漬けを3瓶仕込みました。瓶は、蜂蜜の空き瓶を再利用しました。馬鈴薯を掘って、試食(ポテトサラダ・肉ジャガ・野菜カレー,etc)しています。

☆異常気象で暑いのか寒いのかよく分かりません。生姜が漸く発芽し、日照り続きなので甘藷の苗の水遣りが大変です。トマト・枝豆・里芋は順調です。近々、自家製梅干し(1年分)の仕込作業の予定です。



☆特別企画展焼跡の女性論説と雑誌の書誌データを書き続けます。今月は敗戦直後の1945(昭20)年下半期の評論とコラムを取り上げます。

◎書誌項目
①執筆者
②執筆者標目
③発行所
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

◆「海底のような光-原子爆弾の空襲に遭って」(『朝日新聞』1945年8月30日)
①太田洋子(オオタ・ヨウコ)
②1906-1963
③朝日新聞社
④1945年8月30日
⑤2面・54㎝
⑥月額2円70銭
⑦顔中の傷あとに血のかさぶたがのこっていたましい。妹の傷はくさい。普通の怪我の血と膿のせいだけでなく、毒素の臭いを感じる。(2面)

☆太田洋子は広島市出身の作家である。被爆直後の郷里を次のように記述した。

◎死骸と並んで寐ることも恐れぬ忍耐の限度を見た。おびただしい人の群れのたれも泣かない。誰も自己の感情を語らない。日本人は敏捷ではないが、極度につつましく真面目だということを、死んで行く人の多い河原の三日間でまざまざと見た。
(同紙2面)

☆「河原」は太田川である。

☆当時投獄されていた原子物理学者の武谷三男は、原爆投下について次のように回想する。

◎サイパンが陥る直前私は特高警察の手にかかって警視庁に留置された。(中略)原子爆弾を落とすときは東京などもその大部分がフッ飛んでしまう事を説いて、私を一日も早く釈放する事をすすめた。
(「原子力時代」『弁証法の諸問題』勁草書房1968年6月208P,初出は『日本評論』1947年10月号)

☆高群逸枝著『女性の歴史(下)』(講談社文庫)は、戦争と核実験による被爆について次のように記述する。

◎広島・長崎・ビキニの誓い、原水爆禁止、絶対平和への誓いに、われわれはけっして飽きてはいけないとおもう、なぜなら、この誓いこそは焦土のなかから芽ぐんだ第一のものであり、またそのすべてでもあるのだから。そして第2次大戦の歴史的意義をここにみるときにのみ、人類はなおみずからをその破滅への危険からすくうことができるだろう。
(同書530P)

◆コラム「学窓へ戻った乙女」(『アサヒグラフ』1945年9月5日号)
①*
②*
③朝日新聞社
④1945年9月5日
⑤15P・36㎝
⑥60銭
⑦泣きながら乙女達は動員から学窓へ帰還した。「勉強しましょう、つよい女性になりましよう」これが彼女等の合い言葉だ。せまい机に三人がけ、だが向学の瞳は清く美しい。(8P)

☆占領開始直後の『アサヒグラフ』(当館所蔵)である。「聯合軍内地へ進駐」という特集号は、1945(昭20)年8月28日に神奈川県厚木飛行場に到着した米軍先遣隊輸送機や軍楽隊の写真を掲載する。

☆同年8月31日の『朝日新聞』掲載記事によると、女学生達はコーラスで有名な山脇高等女学校の生徒である。

☆合唱コンクールの盛んであった館山市の旧安房南高校第2回卒業生は、『創立百年史』に次のような回想を寄稿している。

◎目指していたNHKの合唱コンクールで、私達は2位になりました。1位の山脇学園の自由曲「のばらの道」の美しさは、今でも耳に残っています。
(『創立百年史』安房南高等学校2008年2月115P)

『アサヒグラフ』(9月5日)は、館山市で撮影した終戦直後の貴重な写真4点も掲載する(前述)。

◎外房州では館山の米軍進駐も無事済み、9月8日に漁業解禁となってからは、鰯の大群を目前に控え手具脛ひいて待っていた漁師たちにより勇ましい出船の声が浜辺を賑している。
(同誌14P)


☆同誌は、集団疎開をしていた女子達の消息を報道する写真も掲載する。

◎盛岡市外に再疎開した大森区第1国民校4年生の女兒40名、きょうは鎮守様のお祭で作業はお休み、麦刈りの終った畑で遊戯の一とき、祭の太鼓が響いてくるのも鄙びた楽しさだ。
(同誌9P)

◆短歌「愛(カナ)しき国土(クニツチ)」(『文藝春秋』1945年10月号)
①齋藤史(サイトウ・フミ)
②1909-2002
③文藝春秋社
④1945年10月1日
⑤31P・20㎝
⑥60銭(送料5銭)
⑦愛しき国土
・われも女(オンナ)にてこの空襲の朝々も髪よそほひすしばらくが間(ヒマ)
・住みなれしわれらが巷(チマタ)荒るるときいよよ愛(カナ)しきところとおもふ
・自(シ)が生命(イノチ)の終わりの日など言はずかも飯(イイ)もま水(ミズ)も咽喉(ノミド)にうまし
・逢ふこともなくなりし人の誰かれを思へばやさし誰もかれもの人
・こぼたれし巷をさはも嘆かふな美(クワ)し日本(ヤマト)に山川広し

☆『文藝春秋』の戦後復刊第1号は、吉川幸次郎「心喪の説」、中谷宇吉郎「原子爆弾雑話」(前述)、武者小路実篤「未曾有の痛棒」等を掲載する。

☆編集後記は、「復活第1号とも謂うべき本号は決して読者を満足させる出来栄えではないだろう。然し我々は3月号発行以後の空白を一刻も早く埋めたい焦慮で一杯であった。」と記す。「編集人」は永井龍男であった。

☆齋藤史には『齋藤史全歌集』(大和書房1979年)、随筆集『遠景近景』(大和書房1980年)等の著書がある。

☆齋藤史という女性歌人については、松本健一の遺著『評伝・北一輝』(中公文庫2014年)が言及する。

☆「いのち断たるるおのれは言はずことづては虹よりも彩(アヤ)にやさしかりにき」(『遠景近景』大和書房1980年)という齋藤史の短歌について、松本は次のように論評した。

◎二・二六が「美しい革命」として耀いている。悲惨な銃殺刑の情景さえ、エロスを漂わせている。
(『評伝・北一輝Ⅴ』中公文庫2014年12月218P)

☆また、「額(ヌカ)の真中(マナカ)に弾丸(タマ)をうけたるおもかげの立居(タチイ)に憑(ツ)きて夏のおどろや」(『遠景近景』大和書房1980年)等の短歌についても、松本は次のように論評した。

◎(齋藤)史の歌によって、権力=体制が「逆賊」あるいは「国賊」と呼んだものたちの魂は救いを得たにちがいない。
(『評伝・北一輝Ⅴ』中公文庫2014年12月219P)

☆「おのれ」も「おもかげ」も、二・二六事件の軍法会議で死刑(銃殺刑)になった栗原安秀(陸軍中尉)のことである。栗原は齋藤史の小学校時代の同級生である。栗原の父も、齋藤の父も職業軍人であった。

☆齋藤史の実父の齋藤瀏(歌人)は、二・二六事件の軍法会議で禁錮5年となり投獄された。

☆澤地久枝著『妻たちの二・二六事件』(中公文庫)はノンフィクションの力作であった。松本健一とは異なる視点から事件像に迫る。軍法会議で死刑になった栗原中尉の妻が服毒自殺未遂事件を起こし、後に再婚した事例を記述した。

◎栗原夫人は、その後栄養士の学校へ通っていたが、夫の一周忌を前に再婚した。(中略)固い沈黙の世界へ姿をかくしてしまった。
(『妻たちの二・二六事件』中公文庫1975年2月96P)

☆吉本隆明著『言語にとって美とは何か』(勁草書房)は、齋藤史の「わが頭蓋の罅(ヒビ)を流るる水がありすでに湖底に寝ねて久しき」のような短歌を、「二・二六事件」とは無関係に次のように批評した。

◎きわめて自在な印象をあたえるのは、一首の<意味>が、現実世界で行なわれる行為の意味と対比する必要をはじめから放棄しているからである。
(『吉本隆明全著作集6』勁草書房1972年2月138P)

◆「上野高女四年生が盟休」(『朝日新聞』1945年10月9日)
①国本満里子ほか約150名
②*
③朝日新聞社
④1945年10月9日
⑤2面・54㎝
⑥月額2円70銭
⑦敗戦の苦しい心の中にも懐しい母校へ帰る美しい夢を抱いていました。ところが工場から帰った私達の眼に映る母校の姿は私達若い、正義に燃ゆる者の到底我慢の出来ない不正だらけです。(2面)

☆「上野高女」は私立上野高等女学校であり、「盟休」はストライキ(戦後最初)である。同紙には戦後学生運動の始まりを報道する解説記事もある。

◎水戸高校やその他二、三地方の中等学校でも、校長排斥や学校農園作物の不公平な分配などとからんでストライキ事件が起きているようだ(後略)。
(同紙2面)

☆当館所蔵の『昭和二万日の全記録・第7巻(昭和20年
21年)』(講談社1989年)は、1945(昭20)年の10月中に各紙に報道された、戦後黎明期の「盟休」を10校程紹介している。

☆武田清子著『天皇観の相剋-1945年前後』(岩波書店1978年)が、1945(昭20)年11月23日の同紙「声」欄に掲載された岸本寿美子の天皇観を比較検討している。武田清子は雑誌『思想の科学』(前述)の創刊メンバーであった。

(2015年5月)


《掲示板》
・6月 7日(日):寸心忌(西田幾多郎命日)
・6月 9日(火):巨峰忌(安田勲命日,没後99年)
・6月19日(金):当館創業記念日(3周年)
         :桜桃忌 
・6月22日(月):夏至
・6月23日(火):柳蛙忌(井上伝蔵命日)
・6月30日(火):『民権館通信№5』発行



☆馬鈴薯と枝豆の混植(コンパニオン・プラント)は相性が良いようです。今夏は大根と大豆の混植も試しています。今の所順調です。

☆青首大根は、本葉の部分が黒虫に蚕食されました。しかし農薬は不用です。大根の生育力は強靱で、長葱や小麦に匹敵します。

☆井上伝蔵に次のような1893(明26)年の追善句があります。

◎梅雨晴や手向けの水に立つ煙     柳蛙
 ツユバレヤ タムケノミズニ タツケムリ

☆北海道に「梅雨」は無いと思われますが、初夏の吟のようです(中嶋幸三著『井上伝蔵-秩父事件と俳句』邑書林2000年)。

☆深夜、裏山の暗闇からホトトギス(時鳥・子規・杜鵑)の「トッキョキョカキョク?」、「テッペンカケタカ?」という声が聞こえます。早朝、雌雄の紋白蝶が何処からか菜園に飛来します。先日、虫刺されで市内の救急センターに駆け込みました。

☆享保年間に成立した『芭蕉七部集』の「猿蓑」に、破門された京医師の「凡兆」や遊女であった「奥州」の時鳥の句が採録されています(新日本古典文学大系70岩波書店1990年)。

◎ほととぎす何もなき野の門構     凡兆
 ホトトギス ナニモナキノノ モンガマエ

◎こい死ば我が塚でなけほととぎす   奥州
 コイシナバ ワガツカデナケ ホトトギス

☆俳人の鈴木真砂女(鴨川市出身)には、次のような佳句もありました。

◎闇空をつらぬくものやほととぎす   真砂女
 ヤミゾラヲ ツラヌクモノヤ ホトトギス

☆関東もいよいよ入梅ですが、今年は甘藷の苗に勢いが有りません。

☆里芋と生姜の生育にようやく拍車がかかって来たようです。毎朝少しずつ、土寄せと追肥(有機肥料)をします。



☆哲学者の西田幾多郎は、1945(昭20)年6月7日に病気で急逝した(没後70年)。今月は、同年の西田幾多郎の『日記』(『全集』所載)を先入観なしに検証する。

☆1945(昭20)年の『日記』から要所を抜粋する。仮名遣いと句読点は引用者。

◎1月 8日(月):三木清、小林勇来訪。
◎2月11日(日):細川護貞来訪。
◎2月15日(木):近衛公爵来訪、細川と同道。
◎2月28日(水):細川護貞来訪。
◎3月 8日(木):高倉へハガキ。
◎3月12日(月):一昨夜のB29130機の空襲東京大火災、聞けば聞く程悲惨。
◎3月16日(金):警視庁の特高より大槻という警部、高倉を探しに来る。
◎4月 6日(金):鈴木貫太郎大命拝受。ソ連日ソ條約破棄通告。
◎4月14日(土):宗教論一先了。
◎5月 1日(火):ムッソリーニ等処刑(28日午後4時10分)せられたという。ミラノにさらさる。
◎5月 2日(水):昨日午後ヒットラー負傷死す。
◎5月 9日(水):ゲッペルス家族と共に毒薬自殺。
◎5月26日(木):昨夜250機来襲。宮城、大宮御所炎上。都内所々火災。山手不通。東京大船間不通。
◎5月29日(火):B京浜来襲400機。
(『西田幾多郎全集第17巻』岩波書店1966年5月698P~709P,『西田幾多郎随筆集』岩波文庫1996年10月304P~312P)

☆「三木清」は治安維持法違反で検挙(3月28日)され、戦後の9月26日に豊多摩刑務所で獄死した(前述)。

☆警視庁から脱走(3月6日)した「高倉」(タカクラ・テル)は、再検挙(3月21日)されたが、戦後最初の衆議院総選挙に立候補し当選する(後述)。

☆西田幾多郎の『日記』に依ると、「三木」と「高倉」は、京大退職後に鎌倉市へ転居した西田をしばしば訪問する。「湯川(秀樹)」、「桑原(武夫)」、1945(昭20)年8月9日に獄死した「戸坂(潤)」も訪問する。

☆西田幾多郎の4月28日(土)の『日記』に、「高倉通より手紙」、「三木、布川へハガキ」とある。「高倉通」は、高倉輝の妻(高倉津宇・山宣の従姉妹)であろう。同日はすでに、高倉輝も三木清も獄中である。

☆「近衛公爵」(元総理)は、同年12月16日に服毒自殺する(前述)。上田閑照著『西田幾多郎』(岩波同時代ライブララリー1995年)は、1945(昭20)年の西田幾多郎(鎌倉市在住)と「三木」、「高倉」、「小林」、「近衛」、「細川」の関係に全く着目しない。

☆細川護貞著『細川日記[上][下]』(中公文庫)には、1945(昭20)年2月11日の西田幾多郎の談話が克明に記載される。

◎将来の世界はどうしても米国的な資本主義的なものではなく、やはりソヴィエット的なものになるだろう。(中略)日本本来の姿も、やはり資本主義よりは、あヽ云った形だと思う。
(『細川日記[下]』中公文庫1979年350P)

☆西田幾多郎の意外な談話である。戦時のスターリン体制を批判した談話も記載される。

☆1945(昭20)年2月15日の西田幾多郎と近衛文麿の対談も、前掲『細川日記[下]』に記載される。日米戦争末期の終戦締結を模索する記録である。

☆鶴見俊輔氏は、戦時期の西田幾多郎に対して批判的であった。名著の『戦時期日本の精神史』において次のように指摘する。

◎彼(西田)の考え方は、政治思想においては無の立場を代表する人として天皇を理想化して考え、戦時に入ってからは天皇崇拝の流れに自分を投げ入れました。
(『戦時期日本の精神史』岩波書店1982年5月128P)

◎彼(西田)はやがて東亜共栄圏思想という日本の戦争目的に関する文書を起草するところまできました。
(同書128P)

☆加藤周一の大著『日本文学史序説[上][下]』は、西田幾多郎の影響力を肯定的に捉えた。西田哲学の特徴を明晰適確、そして平易簡潔に記述した。

◎西田は独特な文体を作った。(中略)高度に抽象的な話題を語りながら、一種の感情的な反応を読者によびさます。
(『日本文学史序説[下]』ちくま学芸文庫1999年4月290P,初出は1980年4月)

◎基礎的な概念は、「純粋経験」である。「純粋経験」は個人の意識の根底にあり、その上に個人的な意識を成立せしめるような一般意識であって、また同時に、世界の多様性を生み出す唯一の実在とみなされる。
(同書310P)

☆加藤周一は、西田哲学の「絶対無」や「絶対矛盾の自己同一」概念を、「禅」の究極の立場に他ならないと指摘する。

☆底点の「民権学」を標榜する筆者が、何故、戦時の西田幾多郎の立場を検証するのか。

☆桑原フランス学でもなく、吉川中国学でもなく、今西自然学でもなく、武谷原子物理学でもなく、羽仁・服部史学でもなく、丸山政治思想史でもなく、宇野経済学でもなく、大塚史学でもなく、柳田・宮本・折口民俗学でもなく、栗原農業理論でもなく、吉本幻想論でもなく、今、西田哲学を取り上げる意味は何か。

☆次のような「ねむい西田哲学」という見出しの新聞記事が気にかかるのである。少し長いが記事の全文を引用する。(   )と仮名遣いと句読点は引用者。

◎これは大人の読書の世界 - 西田幾多郎全集第一巻七千部のうち二百五十部が、(七月)十九日午前八時を期して神田岩波書店から売り出されるというので、三日前の十六日夕方には、はやくも角帽組が店にあらわれ、十八日朝までには“永遠の相”にとっつかれた人たちざっと二百人がかくのごとく行列、イスを持出したり、交代で食糧補給やら、なかには売り飛ばすのが目的だというのもいるはず。
(『朝日新聞』1947年7月20日)

☆同紙は、岩波書店前で3日3晩待ち続ける行列の写真を2段抜きで掲載する。この日の朝刊小説は、後に映画化される石坂洋次郎作『青い山脈』(第5回)である。

☆ロングセラーの『青い山脈』には、「戦後民主主義」に関する洞察と警句が散りばめられている。

◎新しい憲法も新しい法律もできて、日本の国も一応新しくなったようなものですが、しかしそれらの精神が日常の生活の中にしみこむためには、五十年も百年もかかると思うんです。
(『青い山脈』新潮文庫1952年11月30P)

◎日本人のこれまでの暮し方の中で、一番間違っていたことは、全体のために個人の自由な意思や人格を犠牲にしておったということです。(中略)国家のためという名目で、国民をむりやりに一つの型にはめこもうとする。
(同書39P)

☆戦時の「全体」は軍部ファシズムである。

☆次に、三木清より2カ月早く獄死した唯物論哲学者の戸坂潤(没後70年)の西田幾多郎批判を考える。

☆西田幾多郎の『日記』には、戸坂潤も登場する。要所を抜粋する。

◎1932(昭7)年4月22日(金):戸坂来訪。
◎1933(昭8)年3月25日(土):夜戸坂、梯来訪。
◎1941(昭16)年8月28日(木):戸坂来訪。
(『西田幾多郎全集第17巻』岩波書店1966年5月487P,493P,643P)

☆『全集』から、戸坂潤宛に投函された西田書簡の要点を抜粋する。

◎1932(昭7)年4月30日(東京市外杉並町阿佐ヶ谷250戸坂潤宛、かまくらより)「過日は遠方の所をわざわざお尋ね下さいまして有難御座いました。(後略)」
(『西田幾多郎全集第18巻』岩波書店1966年6月451P)

☆『日記』に拠ると、戸坂潤の訪問は同年「4月22日(金)」である。

◎1935(昭10)年7月20日(東京市杉並区阿佐ヶ谷3丁目250戸坂潤宛、京都より)「御著書お送り下さいまして有難御座いました。(中略)君には君の見る所に任す。」
(『西田幾多郎全集第18巻』岩波書店1966年6月533P)

☆1935(昭10)年の西田書簡に記された「御著書」は、戸坂潤著『日本イデオロギー論』(白揚社)ではないかと推定する。同書には西田哲学を批判的に論じた「『無の論理』は論理であるか」と「現代日本の思想界と思想家」の章がある。

◎1936(昭11)年2月27日(東京市杉並区阿佐ヶ谷3ノ250戸坂潤宛、かまくらより[はがき])「折角だが本屋の出版の広告文をかくことはお断りいたします。(後略)」
(『西田幾多郎全集第18巻』岩波書店1966年6月562P)

☆西田は、1936(昭11)年に出版された戸坂の新著への推薦文執筆を断ったようである。前掲書簡には「君には君の見る所に任す」とある。

☆戸坂潤は、『日本イデオロギー論』(白揚社1935年初版,1936年増補版)で西田哲学を次のように批判した。

◎無(西田哲学)の論理は論理ではない。なぜなら、それは存在そのものを考えることは出来ないのであって、ただ存在の「論理的意義」だけをしか考え得ないのだから。
(『日本イデオロギー論』岩波文庫1977年9月247P)

◎現代人の近代資本主義的教養は、この(西田)哲学の内に、自分の文化的自由意識の代弁者を見出す。そこで之は文化的自由主義の哲学の代表者となるわけである。ここに西田哲学の人気があるのだ。
(同書249P)

☆戸坂が批判した「文化的自由主義」の実体を検証する。

☆『西田幾多郎全集』の「初期草稿」篇から、日本の「自由民権運動」に影響を及ぼした3人の思想家(ルソー・ミル・スペンサー)について、西田がどのように捉えたかを抜粋しておく。(  )と句読点は引用者。

☆若き西田はルソーについて肯定的に記述する。

◎ルーソーナカリセバ仏国ノ革命カノ時ニ起ズシテ、其(天子神権ノ)害更ニ大ナルヤ必セリ。然ラバ即チ、ルーソー実ニ大恩人タルニアラズヤ。
(『西田幾多郎全集第16巻』岩波書店1966年8月586P)

☆ミルについては、代表的な著作の “Utilitarianism”1863 を原文に即して厳密に検討している。明治後期の壮年の西田は “Utilitarianism” という術語に「功利主義」ではなく、「功利教」という訳語を当てる。

◎人生の目的は幸福あるのみ。然らば人は幸福を常に願うも、Will は時に之に反する如く見るは何ぞ。Mill 曰く、是 habit に由るのみ。 Will は desire の子にして、後は habit の支配に属するものなりと。
(『西田幾多郎全集第16巻』岩波書店1966年8月81P)

☆ルソー(仏)とミル(英)の研究書は汗牛充棟の観がある。スペンサー(英)の研究は少ないように思う。独学の思想家(社会学者)スペンサーの「社会進化論」について、西田は次のように記述する。

◎人は元来社会的動物なれば他に関係なく一個人のみにて進歩する能わず。故に一個人の進化と共に社会の進化を伴うなり。最上の進化は両者共に進歩するにあらずんば得べからず。
(『西田幾多郎全集第16巻』岩波書店1966年8月83P)

☆来月は、筆者が若い頃に愛読した羽仁五郎著『自伝的戦後史』と、筆者自身の「自分史」を検証する予定である。

(2015年6月)