2014年7月


【1947(昭22)年】

(20)『小麥の祖先』(コムギノソセン)
①木原均(キハラ・ヒトシ)
②1893-1986
③創元社
④1947年1月20日
⑤122P・19㎝
⑥15円
⑦「こんなわけで私の仕事は小麦の外部形態よりもむしろ顕微鏡下に見る微細構造の方に多かった。」(まえがき1P)

☆所蔵本は初版である。木原均は世界的な遺伝学者であった。国立遺伝学研究所の所長を務めたこともある。

☆戦争と科学研究の関係について、「大阪の空襲(昭和20年3月)で印刷所と共に組版、原稿共に全焼、復興出来ない状態で居る中に戦争は終った。」と記述される。

(21)『春艸雜記』(シュンソウザッキ)
①中谷宇吉郎(ナカヤ・ウキチロウ)
②1900-1962
③生活社
④1947年1月30日
⑤400P・18㎝
⑥40円
⑦「本当の我が国の苦難はこれから始まるのである。しかしどういう世の中になっても、私たちはその現実の姿を直視して行きたいものである。」(396P)

☆所蔵本は初版である。18篇からなる科学随筆集で、第1部8篇は戦中に発表され、第2部10篇は戦後に発表された随筆である。著者は高名な物理学者である。

☆第2部の「原子爆弾雑話」に、「昭和15年になって、遂にウラニウムの核分裂という新しい現象が恐るべき勢力源として現われて来たのである。その論文が日本に届いたのは、確か太平洋戦争の勃発の1年くらい前であった。」と述べる。

☆「開けてはならない函の蓋を開けてしまったのである。これは人類滅亡の第1歩を踏み出したことになる虞れが十分にある。」とも述べる。「原子爆弾雑話」の初出は、『文藝春秋(1945年10月,復刊第1号)』である。

(22)『獄中十八年』(ゴクチュウジュウハチネン)
①徳田球一(トクダ・キュウイチ),志賀義雄(シガ・ヨシオ)
②徳田1894-1953,志賀1901-1989
③時事通信社
④1947年2月10日
⑤161P・18㎝
⑥16円
⑦「1940年の4月、函館から千葉の監獄へうつされた。網走の徳田、市川の諸君も一しょで、7年ぶりになつかしい同志と顔をあわせ、内地の春かぜにふかれた。徳田君も市川君も、はげしい闘志はむかしにかわらなかったが、からだのおとろえがいたいたしかった。」(148P)

☆所蔵本は初版である。徳田球一は沖縄県出身で北京で客死した。名護市に記念碑が建てられている。志賀義雄は山口県萩市出身である。

☆同書には千葉市に在る監獄が登場する。千葉刑務所では殻ばかりのアサリ汁が出されたようで、「七つ八つ からはあれども アサリ汁 実の一つだに なきぞかなしき」という替歌のパロディーが記載される。

☆二人は、1941年9月に千葉刑務所から小菅刑務所に移され、同年12月に中野の豊多摩刑務所(予防拘禁所)へ送られた。ここで東京大空襲を体験する。

☆二人は、1945年6月29日に府中の拘禁所に移され、GHQの指令で10月10日に釈放された。三木清は9月26日に、豊多摩刑務所で獄死していた。

☆マーク・ゲイン著『ニッポン日記』(筑摩書房1951年)には、志賀義雄へのインタビューが掲載されている。「妻も私と一緒に検挙されましたが、拷問ぜめに逢って、妻はとうとう共産主義を放棄してしまいました。私には妻を許すことは出来ませんでした。その日限り、私は妻と別れました」。アメリカ人宣教師に学んだことのある志賀は、英語を正確に話すことが出来た。

☆『ベストセラー物語(上)』(朝日新聞社1978年)に拠ると、『ニッポン日記』は1951年から1952年にかけてのベストセラーである。書誌データは後述する。

(23)『旋風二十年・合本』(センプウニジュウネン・ガッポン)
①森正蔵(モリ・ショウゾウ)
②1900-1953
③鱒書房
④1947年2月15日
⑤295P・18㎝
⑥30円
⑦「弾圧の総本山は特高警察であったが、今回マッカーサー司令部の命令で廃止され同時に政治犯も釈放された。」(49P)

☆下巻(前掲)発行の1年後に合本が出版された。弊館所蔵の合本は初版である。定価は30円になった。

☆1946年2月発行の下巻には、広島、長崎の原爆投下の記述がある。しかし1947年2月発行の合本では削除されている。

(24)『俳句作法(花・鳥・魚)』(ハイクサホウ,カ・チョウ・ギョ)
①水原秋桜子(ミズハラ・シュウオウシ)
②1892-1981
③二見書房
④1947年2月15日
⑤372P・18㎝
⑥35円
⑦「俳句をつくる楽しさは、花、鳥、魚を詳しく知ることゝ平行すると言ってもよいであろう。(中略)観察をひろげることによって、句境はいくらでも展けて行くわけである。昭和二十二年初冬 於八王子。」(序1P)

☆所蔵本は初版である。水原秋桜子は産科医であった。本名は水原豊である。弊館は『俳句の評釈』(篠崎書店1946年11月)初版も所蔵する。

☆同門であった山口誓子(ヤマグチ・セイシ,1901-1994)の「花の連作」が例句として取り上げられる。「うまごやし炭坑の娼婦帯結はず」、「娼婦の手坑夫はなたずうまごやし」、「うまごやし炭坑の娼婦寝てふたり」。

☆「娼婦」と「坑夫」は近代民衆史の基層であり、底点(深淵)である。著者の秋桜子は「娼婦も坑夫も皆一種の哀愁を伴って句の上に現われて来る。花と生活とがこゝまで融合すれば申し分がない。」と誓子の連作を好意的に評価する。

☆「うまごやし」はマメ科の多年草で、牧草である。誓子は家庭の事情で樺太(サハリン)で育った。新橋の俳妓であった下田実花(虚子門下)は、離散した実妹であった(下田実花著『ふみつづり』永田書房1982年)。

(25)『作歌實語鈔』(サッカジツゴショウ)
①齋藤茂吉(サイトウ・モキチ)
②1882-1953
③要書房
④1947年4月25日
⑤268P・19㎝
⑥40円
⑦「歌壇の初学者が、本書を噛みしめ、かじりつき、年を経ること10年、20年に及ばば、必ず歌人としての力量を体得し得ること必定であって、これもまた私の信じて疑はざるところである。昭和21年9月。」(148P)

☆所蔵本は初版である。『作歌實語鈔(サッカジツゴショウ)』は、大変平易な短歌解説書である。発行日に誤植が見られるが、4月25日発行と推定した。同書の後記は、疎開先の山形県で執筆された。その後再び上京する。

☆齋藤茂吉は同書で、房総出身の歌人である伊藤左千夫、蕨眞(ワラビ・マコト)、古泉千樫(コイズミ・チカシ)の短歌を批評する。

☆鴨川市出身の古泉千樫について、「千樫と私(茂吉)とは同時代に左千夫に師事して、相共に励ましあって進んで来たから、千樫のことは承知しているつもりであるが、千樫は隙のない、理づめで歌を作るという風のところがあった。」と回想する。

☆齋藤は、千樫の「えんがはにわが立ち見れば三月の光あかるく木木ぞうごける」という平淡な境地の短歌を推賞する。

☆蕨眞は山武市の出身で、本名は眞一郎である。齋藤は「歌会の席などでは、『蕨眞』を熟字にして、みずからケッシンといわれていた。しかし短冊などに、『眞』の一字を書かれたから、そのときにはマコトと訓ませる。」と記述する。

(26)『浮沈』(ウキシズミ)
①永井荷風(ナガイ・カフウ)
②1879-1959
③中央公論社
④1947年5月10日
⑤251P・19㎝
⑥60円
⑦「私が彼女に対して無限の愛情と憐れみとを覚えて止まないのは、その意識せざる行動の中に、私は絶えず謙遜の徳の隠見することを認め得るからである。」(250P)

☆所蔵本は初版である。奥付の著者名は本名の永井壮吉(ナガイ・ショウキチ)になっている。

☆『浮沈』は、奇しくも1941年12月8日に書き始められた。磯田光一編『断腸亭日乗』(岩波文庫1987年)に、「(1941年)12月8日。褥中小説『浮沈』第1回起草。日米開戦の号外出づ。」とある。

☆戦後、雑誌『中央公論』の1946年新年号(前掲)から6月号まで連載された。弊館は初出誌全冊を所蔵する。

☆この頃、永井荷風は熱海市から千葉県市川市へ転居した。『断腸亭日乗』に、「(1946年)1月16日。夕方6時市川の駅に着す。日既に暮る。歩みて菅野258番地の借家に至る。」と記載される。

☆同年の日記に、「(1946年)2月26日。銀行預金封鎖のため生活費の都合により中央公論社顧問嘱託となる。」とある。

☆翌年の日記には、「(1947年)10月初7。船橋の闇市にて食料品を購い千葉街道を歩みて海神に至らむとす。道たまたま三田浜の遊郭を過ぐ。(後略)」とあり、市川市や船橋市界隈の戦後風俗が活写されている。

☆同年発行の坂口安吾著『堕落論』(銀座出版1947年)は、『浮沈』を「極めて通俗な風俗小説」、「基盤をなすものは、むしろ不当に固定した低俗な道徳観」、「彼は遊んだだけであり眺めただけ」と痛烈に批判した。

(27)『現代日本文化の反省』(ゲンダイニホンブンカノハンセイ)
①桑原武夫(クワバラ・タケオ)
②1904-1988
③白日書院
④1947年5月10日
⑤241P・18㎝
⑥15円
⑦「第二芸術たる限り、もはや何のむづかしい理屈もいらぬ程である。俳句はかつての第一芸術であった芭蕉にかえれなどといわずに、むしろ率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかえるべきである。」(86P)

☆所蔵本は初版である。長短19篇からなる評論集である。有名な「第二芸術-現代俳句について」という評論は、雑誌『世界』の1946年11月号が初出であった。

☆金子兜太氏は『わが戦後俳句史』(岩波新書1985年)で、繰り返し何度も桑原武夫の「第二芸術論」について述べる。

☆金子は「フランス文学と比較しただけでは分らない世界が、俳句と人人との結びつきにはある。その世界は、(中略)もっとしぶとい肉体をもっている。」と述べる。

☆金子は、高浜虚子が「俳句もやっと第二芸術になったか」と語ったエピソードも紹介する。

☆金子は「論調のうわずりを嫌いかつ警戒しながらも、かなり歓迎気分をもち、ことに結社批判については共鳴していた」と書いている。しかし「桑原の論は〈韻文〉と〈散文〉の区別が明確でない。」と指摘する。

☆金子は「社会性は俳句性と少しもぶつからない。俳句性より根本の事柄である。(中略)俳句性を抹殺するかたちでは行われ得ない。」と主張する。

(28)『風知草』(フウチソウ)
①宮本百合子(ミヤモト・ユリコ)
②1899-1951
③文藝春秋新社
④1947年5月20日
⑤254P・18㎝
⑥40円
⑦「わたしは、外国へやられたり、牢屋へ入ったりばかりしていて、これまでに結婚生活をしたのは、たった七ヶ月ぐらいのもんでした。だから、御婦人の生活をよく知っているとは云えないかもしれないが、見ていると、実に日本の婦人の生活は過労です。気の毒にたえないほど疲れはてた状態だと思うんだが、どうですか。」(78P)

☆所蔵本は初版と再版の2冊である。5月発行の初版は40円で、9月発行の再版は50円になった。4ヵ月で25%程値上がりしてもベストセラーであった。『播州平野』(河出書房1947年)も所蔵する。

☆風知草はイネ科の多年草である。同書は、執筆時期の異なる「風知草」、「乳房」、「杉垣」、「小説の一家」の短編小説からなる。戦後に執筆された作品は「風知草」である。

☆宮本百合子の日記には「(1946年)8月2日(文藝春秋から金をとってしまってあり泣く泣く『風知草』30枚)」(『宮本百合子全集第二十九巻』新日本出版社2003年)と記載される。

☆雑誌『文藝春秋』の1946年9月号、10月号、11月号に連載された。弊館は同誌3冊を所蔵する。

☆『風知草』には房総の夷隅川河口の描写がある。「ひろ子の妹が、疎開して、夷隅川のそばの障子も畳もない小屋に菰垂の姫というような暮しをしていた。ひろ子はそこで、潮の香をかぎ、鯨油ランプの光にてらされる夜、濤の音をきき、豆の花と松の若芽の伸びを見ながら、井戸ばたでよごれた皿などを洗って数日くらした」。

☆弊館所蔵の『十二年の手紙』(筑摩書房1950年、初版)には、千葉県長者町(チョウジャマチ)で書かれた百合子の手紙(1945年5月10日付)が輯録されている。「ひろびろと夷隅の川の海に入る岬のかなた虹立ちて居り」という短歌も添えられている。

☆宮本(中條)百合子は房総ゆかりの作家である。百合子の実母は、「明六社」の会員であった西村茂樹(佐倉藩出身)の長女であった。百合子にとって、西村茂樹は外祖父である。

(29)『自敍傳Ⅰ』(ジジョデン・イチ)
①河上肇(カワカミ・ハジメ)
②1879-1946
③世界評論社
④1947年5月30日
⑤475P・18㎝
⑥130円
⑦「昭和8年1月に検挙された私は、足掛け5年の牢獄生活を了え、昭和12年6月再び家に帰ることを得た。」(467P)

☆所蔵本は初版である。世界評論社発行の第Ⅱ巻、第Ⅲ巻、第Ⅳ巻も所蔵する。岩波新書版の『自叙伝』全5冊も所蔵する。ベストセラーであり、ロングセラーである。

☆1947年7月30日発行の第2刷も所蔵する。定価は150円である。同じ書籍が2ヵ月で20円の値上げである。インフレの時代のベストセラーであった。

☆河上は1946年1月30日に他界した。義弟に当たる憲法学者の末川博は、跋文に「いづれにしても世に出すのなら、仕方あるまいと考え、御迷惑をかける方々には、死んだ者の気持を汲んで寛容を希うほかはない。」と述べる。

(30)J.S.ミル著『自由論』(ジユウロン)
①柳田泉(ヤナギダ・イズミ)←訳者
②1894-1969
③春秋社
④1947年6月25日
⑤212P・19㎝
⑥45円
⑦「終戦以来、新な意義と勢いをもって、民主思想がもりあがって来たが、ミルのこの書は、そのもり上がりを背景として、今日読まれても、いささかもその価値を減じない。」(訳者序篇2P)

☆柳田泉は青森県出身である。所蔵本は戦後の初版である。1936年に春秋文庫として刊行された(弊館所蔵)。

☆柳田は翻訳家であると同時に、優れた明治文学研究者であった。同書の訳者序文に『河野盤州傳』の一節が引用されている。柳田は戦前、吉野作造主宰の「明治文化研究会」に所属した。

☆柳田は『自由論』の骨子を、「第1章、他人に関しない限り、自分で善いと思ったことを、自分流のやりかたで追求する真の自由」、「第2章、思想と言論の自由、少数者の意見」、「第3章、行動の自由、生活の自由は人類幸福の一要素」、「第4章、多数者が少数者乃至個人を抑えて可いところ」、「第5章、自由の論理を実際問題に適用」と紹介する。

☆弊館は、柳田泉訳『功利説』(JSミル、春秋社松柏館1946年6月)の初版も所蔵する

(31)『ニュールンベルグ国際裁判判決記録』(ニュールンベルグコクサイサイバンハンケツキロク)
①*
②*
③東雲堂新装社
④1947年8月1日
⑤398P・19㎝
⑥80円
⑦「ヒットラーによりこの計画実行の任務を与えられて居たアドルフ・アイヒマンの見積りに依れば、この政策遂行の結果600万人のユダヤ人が殺され、其の内400万人は絶滅機関に於て殺されたと云う。 」(159P)

☆所蔵本は初版である。「戦後50年」の節目に、銚子市民から寄贈して戴いた。翻訳は東京裁判法廷通訳の3名である。巻末の解説は、朝日新聞法廷記者の野村正雄が執筆している。

☆全体の構成は「判決書第1部」、「判決書第2部」、「不服意見」の三部構成である。

☆ゲーリング(空軍総司令官)、リッペントロップ(外相)、カイテル(陸軍最高指揮官)、カルテンブルンネル(保安総本部長官)、ローゼンベルグ(占領地域相)、フランク(法科大学学長)、フリック(内務大臣)、ストライヒヤ(反セム族新聞主筆)、ザウケル(州政府主席)、ヨードル(最高司令部作戦参謀長)、ボーマン(親衛隊将官)の11名は絞首刑の判決が下った。

☆ヘス(ナチス副総統)、フンク(国立銀行総裁)、レーダー(海軍元帥)、シーラッハ(ウィーン総督)の4人は終身懲役であった。シュペーア(軍需相)は懲役20年、ノイラート(ボヘミヤ・モラヴィア保護官)は懲役15年、デーニッツ(海軍総司令官)は懲役10年の判決であった。役職名は判決文に拠る。

☆ユダヤ人絶滅計画の責任者の一人であったアイヒマン(親衛隊将校)は、1960年にアルゼンチンで捕縛された。

(32)『自敍傳Ⅱ』(ジジョデン・ニ)
①河上肇(カワカミ・ハジメ)
②1879-1946
③世界評論社
④1947年9月5日
⑤486P・18㎝
⑥170円
⑦「末娘が、最も激しい世の荒波と闘うための革命運動の渦中に捲き込まれようとする、その船出を見送るため、東京駅のプラットフォームにおり立った私たち老夫婦の心の中には、この最愛の子に対する限りなき愛情と不安の情が、天(ソラ)打つ浪の如く逆巻いた。」(83P)

☆所蔵本は初版である。第Ⅰ巻第1刷は130円、同巻第2刷は150円、第Ⅱ巻第1刷は170円であった。

☆治安維持法違反により、河上肇は東京の小菅刑務所に投獄された。河上は「荒川堤の裾、葛飾野の一角」、「各々六百人を収容しうる、南部と北部の舎房を両翼となし、十数棟の工場と広々とした農場とを従え、繞(メグ)らすに高い高いコンクリートの分厚な土塀を以てした小菅刑務所」と回想する。

(33)『自敍傳Ⅲ』(ジジョデン・サン)
①河上肇(カワカミ・ハジメ)
②1879-1946
③世界評論社
④1947年10月15日
⑤573P・18㎝
⑥230円
⑦「瀟々(ショウショウ)たる風雨、小江の秋。是れ愁人(シュウジン)ならざるも亦た愁うべし。今に至るも猶お想う荒川の雨。手械、東に過ぐ、白首の囚。(七言絶句訓読)」(3P)

☆所蔵本は初版である。第Ⅲ巻のみ小説体である。巻頭に河上肇作の漢詩が掲げられている。河上(小説体では本田弘蔵)は、1933年10月20日に市ヶ谷刑務所から小菅刑務所へ移送された。その時の感懐である。

☆一海知義著『河上肇詩注』(岩波新書1977年)に拠ると、「手械(シュカイ)」は手錠、「白首(ハクシュ)」は白髪頭、「囚」は囚人(シュウジン)である。弊館所蔵の『河上肇詩注』は初版である。

(34)『木戸日記・木戸被告人宣誓供述書全文』(キドニッキ・キドヒコクニンセンセイキョウジュツショゼンブン)
①木戸幸一(キド・コウイチ)
②1889-1977
③平和書房
④1947年11月15日
⑤163P・21㎝
⑥60円
⑦「私の生涯は軍国主義者と闘うことに捧げられてきました、私は日記を持っていることを告げた許りでなく私に返して貰うと云う確信を得て、日記をサケット中佐に渡すようにさせたのであります。」(2P)

☆所蔵本は初版である。極東国際軍事裁判研究会の編集であった。副題は「木戸被告人宣誓供述書全文」である。

☆編者序言に「極東国際軍事裁判公判廷証拠の中で、木戸被告人の宣誓供述書はその量において最も厖大であり、質において最も重視される。」とある。

☆木戸幸一は木戸孝允(桂小五郎)の令孫である。内大臣秘書官長、文部大臣、厚生大臣を歴任し、終戦時は内大臣であった。極東国際軍事裁判では終身禁錮刑で、死刑は免れた。

☆現在『木戸幸一日記』は、「木戸日記研究会」編の上巻・下巻・東京裁判期が、東大出版会から公刊されている(弊館所蔵)。近衛文麿は1945年12月に自殺したが、木戸は占領解除後の1955年に釈放となり、1977年4月まで生きた。

(2014年7月)


◎今月の行事予定
 8月 2日:創立2周年企画展~31日(日)まで
 8月 7日:立秋
 8月15日:終戦記念日
 8月23日:処暑
 8月25日:総州忌(桜井静命日・1905年)

【1948(昭23)年】

(35)『昭和廿三年版 日本國勢圖會』(ショウワニジュウサンネンバン ニホンコクセイズエ)
①白崎享一(シラサキ・キョウイチ)←編者
②1894-1959
③国勢社
④1948年1月20日
⑤231P・18㎝
⑥75円
⑦「此の打ちのめされた姿を有りのまゝに知る事は奮発心の前提ともなり得ましょう。此の意味で本書が多少でも世間の役に立てばと願って居ります。」(2P)

☆所蔵本は初版である。戦後最初の『日本国勢図絵』である。

☆同書に初めて「原子爆弾の被害」データが記載される。死者は広島市「7万人」、長崎市「2万人」とある。傷者は広島市「13万人」、長崎市「5万人」とある。全焼全壊戸数は広島市「6万2千戸」、長崎市「2万戸」であった。(内務省発表)

☆現在の広島市HPに拠ると、原爆による同市の死者は約14万人、長崎市のHPに拠ると同市の死者は約7万4千人である。

(36)『東條尋問録・東京裁判特輯』(トウジョウジンモンロク・トウキョウサイバントクシュウ)
①東條英機(トウジョウ・ヒデキ)
②1884-1948
③ニュース社
④1948年2月10日
⑤259P・19㎝
⑥80円
⑦「ここに集録したものは、東條が戦争の最高責任者として太平洋戦争の発生原因について自ら綴ったいわゆる東條口供書と、これに対して弁護人側の行った尋問と国際検事団を代表して起ったキーナン首席検事の尋問を集録したものである。昭和23年1月 朝日新聞法廷記者団」(はしがき1P)

☆所蔵本は初版である。副題は「戦争責任者の告白」である。編集者は朝日新聞法廷記者団であった。

☆銚子市民から寄贈して戴いた貴重な刊行物の中の1冊である。

☆東條英機は「陸軍と政治との関係」について、「政党勢力の凋落に伴い、軍部が政治面に擡頭(タイトウ)した事はある。しかし、それは過去の軍閥(藩閥)が再起したものではない。」、「ナチ又はファッショのような一部政治家により、先ず徒党を組織し、構成して、国政を壟断(ロウダン)せるものとは、全然その本質及び政治的意義を異にしている。」と供述した。

☆東條は極東国際軍事裁判で絞首刑になり、1948年12月23日に刑死した。

☆『高松宮(タカマツノミヤ)日記第7巻』(中央公論社1997年)は、1944年の東條内閣総
辞職を、「7月17日、8時15分護貞。18時30分新旧大臣謁見。」と簡潔に記している。「護貞(モリサダ)」は、細川護貞(近衛文麿秘書)である。

☆細川護貞自身の『細川日記』(中公文庫)は、「7月17日、午前8時、高松宮邸伺候」、「7月18日、我国はじまって以来の愚劣なる内閣は、我国始まって以来の難局に直面せるこの時、遂にのたれ死にたり。」と東條内閣を酷評する。

☆政治学者の丸山真男は、1947年6月の講演「日本ファシズムの思想と運動」で、二・二六事件以後の日本のファシズムについて次のように述べた。

☆「荒木・真崎・柳川・小幡等に代って、梅津・東条・杉山・小磯等がヘゲモニーをとります。こういう新しく陸軍首脳部を形成した勢力は、その後軍の内部においては粛軍を徹底的に行い、急進ファシズム勢力を弾圧すると共に、軍の外に対しては急進ファシズムの脅威をえさにして、軍部の政治的要求を次から次へと貫徹してゆくのであります。」(『増補版・現代政治の思想と行動』未来社1964年)。

☆引用文の「えさ」の部分には傍点が付されている。わざわざ卑俗な語彙で強調したのだろう。

(37)『親鸞・上巻』(シンラン・ジョウカン)
①吉川英治(ヨシカワ・エイジ)
②1892-1962
③大日本雄弁会講談社
④1948年3月1日
⑤446P・18㎝
⑥100円
⑦「わたくしの作家生活と親鸞とは忘れ得ないものがある。いまおもえば恥ずかしい限りだが、私が初めて小説というものを書いた最初の一作が親鸞だったのである。」(序3P)

☆所蔵本は戦後の初版である。上巻は、「乱国篇」、「紅玉篇」、「登岳篇」、「去来篇」からなる。『宮本武蔵』や『新平家物語』ほど有名ではないが、ベストセラーである。

☆京都の法然の辻説法について、吉川英治は、「武権争奪、武門栄華の世ばかりつづいて、助からぬは民衆ばかり。その民衆のために、民衆の魂を、心から、救うてとらすような聖(ヒジリ)が出てくれねば、仏法の浄土とは、嘘になる。」と叙述する。

(38)『自敍傳Ⅳ』(ジジョデン・ヨン)
①河上肇(カワカミ・ハジメ)
②1879-1946
③世界評論社
④1948年3月5日
⑤404P・18㎝
⑥170円
⑦「翁(田中正造)の演説は、多くは秩序整然などと云うことはないが、いつでも心の底から赤誠を吐露せらるゝかの如く感じて、僕(河上肇)は聴くたびごとに涙を催すのである。」(147P)

☆所蔵本は初版である。第Ⅳ巻(最終巻)は、14篇の「思い出・断片」で構成される。足尾鉱毒問題に取り組んだ田中正造、島田三郎、木下尚江に関する回想も収録されている。

☆同巻の「河上肇著作目録」に拠ると、1947年9月5日に『貧乏物語』(岩波文庫)が刊行された。1916年9月11日から12月26日まで『大阪朝日新聞』に連載された経済評論集である。

☆単行本としては、1917年3月発行の『貧乏物語』(弘文堂書房)が最初であった。現在では、国立国会図書館のデジタルコレクションにアクセスすれば、自宅のパソコンから原著を閲覧できる。

☆岩波文庫は、写真も含めて原著の忠実な翻刻である。『自叙伝』と同様に、岩波版『貧乏物語』は戦後の超ロングセラーであった。1972年5月の追記(大内兵衛執筆)に、40万冊以上売れたと記述される。昨年の2013年発行の文庫は73刷(73万部?)である。

(39)『日本資本主義の農業問題』(ニホンシホンシュギノノウギョウモンダイ)
①大内力(オオウチ・ツトム)
②1918-2009
③日本評論社
④1948年4月1日
⑤253P・21㎝
⑥130円
⑦「今日われわれに課せられた仕事が何であるかはもはや明かである。いうまでもなくそれは、日本の農民はなにゆえ貧乏であるかという問題に、科学的に答えることでなければならない。」(4P)

☆所蔵本は初版である。20年程前に古書店で100円で購入したが、安過ぎると感じた。著者が30歳のときの処女作である。大内力は大内兵衛(後述)の次男である。

☆同書は「第1章 実態」、「第2章 学説」、「第3章 分析」、「第4章 展望」という構成である。第2章では、東畑精一の「過剰人口説」、近藤康男の「高率地代説」、講座派(野呂栄太郎・山田盛太郎・平野義太郎)の「経済外的強制」を批判する。

☆著者の主張は「過小農制をつくりだし維持してきたもの」は、「人口過剰、土地欠乏というような自然的条件ではなく」、「資本の再生産の条件として存在する産業予備軍としての過剰人口である」というものである。

☆さらに、「過小農制をつくりだし維持してきたもの」は、「半封建的土地所有のもつ経済外的強制やあるいは絶対主義権力のもつ強力(ゲヴァルト)やによって実現される封建地代それ自体ではなく」、「資本の再生産の条件として与えられた低賃金にもとづく農家の低所得であり、高率地代は逆にかかる過小農の低所得性によって維持されている」と記述する。

☆大内は最終章(第4章)に於いて、「過小農は今後何年かのうちに窮乏のどん底につき落とされ」、「農民達がこの必然的な没落を充分に意識し、みずからを組織化し、共同組合経営に移行しなければならないことを自覚するにいたったとき」、「はじめて農民は真に解放されるのである。」と展望した。

☆現代日本は、村落を維持できない限界(崩壊)集落が全国各地に散在する。

☆大石嘉一郎著『日本資本主義史論』(東大出版会1999年)は 、『日本資本主義の農業問題』の方法論を「大内は結局のところ、資本主義のあり方が農業の生産関係のあり方を一方的に規定する関係として捉え、資本主義と地主制との相互規定関係を正しく把握しえなかったのである。」(第6章)と記述する。

(40)『日本資本主義の研究・上巻』(ニホンシホンシュギノケンキュウ・ジョウカン)
①高橋正雄(タカハシ・マサオ)←著者代表
②1901-1995
③黄土社
④1948年4月10日
⑤324P・18㎝
⑥150円
⑦「この世の中に何か神聖おかすべからざるものとか、何もかも根ほり葉ほり聞きただしたりしてはいけないものとか、自分にはよくのみこめないが、みんながそういってるのだからとか、(中略)そんな考えかたがウロウロしてるうちは、ほんとうの民主主義にはならないと思う。」(1P)

☆所蔵本は初版である。4名による討論の記録である。戦後に出版された日本資本主義に関する著作の中で、際だって平易な研究書である。

☆討論の参加者は大内兵衛、向坂逸郎、土屋喬雄、高橋正雄である。4名は軍国主義ファシズム時代に辛酸を嘗めた経済学者である。

☆「はしがき」に、「どんな教えにでも、それをハダカにし、自分もハダカになって、ぶつかっていかなくてはダメだと思う。」と廃墟に生きる覚悟が記述される。

☆「自由民権運動」(同書第3篇)について大内兵衛は、「藩閥政府はフランスのような絶対主義的封建的な基礎を自分がもっていなかった。それで、その反対派たる自由民権の方も戦うべき相手がそう強くなかったので、兆民もイデオローグとしてはルソーであったが、政治的意義においてはルソーに及ばなんだ。」と述べる。

☆向坂逸郎も同様の見解で、「抵抗すべき強き相手がなかったという点で、強く成長もしなかった。」、「基本的な自由は一応維新の革命では認められても、それに立脚して社会生活の各方面にわたって実現せられなければならんものについては、まだ多分に要求すべき点があった。」と捉える。

(41)『親鸞・中巻』(シンラン・チュウカン)
①吉川英治(ヨシカワ・エイジ)
②1892-1962
③大日本雄弁会講談社
④1948年4月25日
⑤440P・18㎝
⑥130円
⑦「犬さへ骨ばかりになって、ひょろひょろあるいている。町には、行路病者の死骸が、乾物みたいにからからになって捨てられてあったり、まだ息のある病人の着物を剥いで盗んでゆく非道な人間だのが横行していた。」(5P)

☆所蔵本は戦後の初版である。ベストセラーである。中巻は、「女人篇」、「大盗篇」、「恋愛篇」、「同車篇」、「法敵篇」からなる。

☆「恋愛篇」に、若い僧が念仏道場で捨子を背負い、子守歌を歌う場面がある。「ねんねん、寝たまえ 寝ねんぶつ ねんねん、寝たまえ 居ねんぶつ 立つも、あゆむも ねんぶつに 浄土の、門では 何が咲く いつも、ぼだい樹 沙羅双樹」と歌う。

☆若い僧も源平合戦時代の捨て子であった。二人とも法然上人に拾われたのである。

(42)『親鸞・下巻』(シンラン・ゲカン)
①吉川英治(ヨシカワ・エイジ)
②1892-1962
③大日本雄弁会講談社
④1948年4月30日
⑤428P・18㎝
⑥130円
⑦「ひとたび悪業の闇に踏みこむと、無間の地獄に墜ちるように、聖道門(ショウドウモン)のほうではいうが、われわれ他力本願の念仏行者は、決して悪人といえども、それが為に、憎むこともできない。避ける必要も持たない。ただ、何うかして、その悪性が善性となる転機に恵まれることを願いもし、信じもするものである。」(77P)

☆所蔵本は戦後の初版である。下巻は、「悪人篇」、「氷雪篇」、「田歌篇」からなる。

☆終章の「柳と菩提樹」に、夫婦の諍いの情景描写がある。「おまへ様が邪推をまわしたのは、この名号でございまする。・・・勿体なくも、上人(親鸞)様のお筆でございますわいな、拝みなされ、良人(ウチ)のひと、これ、よう拝んで、お前様が人殺しの罪に墜ちなかったお礼をいうてくださんせ」。

☆親鸞の生涯と悪人正機の真髄を平易に描いた長編小説である。

(43)『人間失格』(ニンゲンシッカク)
①太宰治(ダザイ・オサム)
②1909-1948
③筑摩書房
④1948年7月25日
⑤271P・18㎝
⑥130円
⑦「その夜、自分たちは、鎌倉の海に飛び込みました。女は、この帯はお店のお友達から借りている帯やから、と言って、帯をほどき、畳んで岩の上に置き、自分もマントを脱ぎ、同じ所に置いて、一緒に入水しました。女のひとは、死にました。そうして、自分だけ助かりました。」(99P)

☆所蔵本は初版である。同書の末尾に、未完の絶筆「グッド・バイ」が収録されている。若い頃に神田の古書店(地下室)で購入した。初版だが大変廉価であった。それ以来、戦後民主主義期の出版物(書籍・雑誌等)蒐集にのめり込んだ。

☆作中「第三の手記」に、「いよいよ、すべてに自信を失い、いよいよ、ひとを底知れず疑い、この世の営みに対するいっさいの期待、よろこび、共鳴などから永遠に離れるようになりました。」とある。この場面は圧巻である。

☆作中「あとがき」に、千葉県船橋市内の描写がある。「何か新鮮な海産物でも仕入れて私の家の者たちに食わせてやろうと思い、リュックサックを背負って船橋市へ出かけて行ったのである。船橋市は泥海に臨んだかなり大きいまちであった。」と記述される。

☆同書編集者の臼井吉美は、「作者の死は(1948年)6月13日深更」と記す。『人間失格』初版発売時には、太宰治は他界していた。

☆本多秋五著『物語戦後文学史(上)』(岩波書店1992年)は、「彼(太宰治)は滅亡の歌の歌い手として戦後文学に参加した。」と指摘している。

☆弊館は太宰の戦中の作品『新釈諸国噺』(生活社1945年1月)、戦後のベストセラー『斜陽』(新潮社1948年7月)、短編小説掲載雑誌等を所蔵する。

(44)『日本資本主義の研究・下巻』(ニホンシホンシュギノケンキュウ・ゲカン)
①高橋正雄(タカハシ・マサオ)←著者代表
②1901-1995
③黄土社
④1948年9月1日
⑤305P・18㎝
⑥180円
⑦「日本の窮乏化した大衆の状態を救うには、海外に発展するほかはないというイデオロギーで、海外にたいする侵略的な意見を主張し実行する。それによって救われるものは金融ブルジョアジーの資本家、資本主義社会自身である。そういう性質をファシズムはもっている。日本ではそれを特に軍部を中心としてやった。(向坂)」(188P)

☆所蔵本は初版である。下巻は「天皇制」、「日清・日露」、「第1次大戦と帝国主義的進出」、「資本主義分析と論争」、「戦後の現段階」を議論する。

☆近衛文麿内閣の特質について、「近衛のときになって、いわゆる新体制運動、翼賛運動というのがおこりましたが、あれをファシズムの体制がだんだん整ってきた形とみていいのでしょうか。(土屋)」と述べる。

☆「それは官僚勢力を中枢として軍隊ファッショなものと政党ファッショが野合調和したものだ。これが新体制だね。実行的にはファシズム、国民的には形骸だけの政党、中心は官僚。(大内)」と説明する。

☆次のようにも指摘する。「五・一五の事件で犬養が殺されたとき、政友会に本当に軍部を叩きつけるだけの力と意思とがあったらば、僕はファッショの擡頭は抑え得たと思う。(中略)あのとき政友会のなかにすでにファッショがあったいうべきだ。(大内)」。同時代を生きた大内兵衛の体験的なファシズム観である。

(45)『滞日十年・上巻』(タイニチジュウネン・ジョウカン)
①ジョセフ・C・グルー(石川欣一訳)
②1880-1965
③毎日新聞社
④1948年11月1日
⑤375P・18㎝
⑥200円
⑦「1944年合衆国での本書の出版は、二重の目的を持っていた。その一は1941年の戦争勃発を導くにいたった日本の趨勢と各種の進展を明瞭にすることであり、その二は米国の公衆に日本と日本人のより深く、精しい心象を与えようと努めたことであった。」(3P)

☆所蔵本は初版である。原題は“ TEN YEARS IN JAPAN ”である。著者のグルーは外交官で、1932年から1942年まで駐日アメリカ大使を務めた。

☆同書は1936年の二・二六事件について、「鈴木提督の話は歴史に残るべきである。(中略)安藤は三発撃った。一発は頭蓋骨を擦って過ぎたが脳には入らず、一発は胸部を貫通し、残る一発は脚に入った。」と記述する。

☆「鈴木提督」は鈴木貫太郎侍従長で、関宿藩出身(前述)であった。「安藤」は、安藤輝三(テルゾウ)陸軍大尉である。安藤は銃殺刑となり、鈴木は生き残って終戦内閣の首相を務めた。

☆1937年7月8日のグルーの日記は、「蘆溝橋で中日軍隊が戦闘を始めた。どちらが先に手を出したのか明瞭でない。」と記述する。

☆1937年8月29日のグルーの日記は、「8月14日の上海空襲は、爆弾は無差別に投下されて、米国宣教師の子息、ボブ・ライシャワァはカセイ・ホテルの入口で致命傷を負った。」と記述する。上海戦では千葉県の木更津航空隊も爆撃に加わった(加藤陽子著『満州事変から日中戦争へ』岩波新書2007年)。

☆1937年10月の朱徳(第八路軍総司令)は、「戦略的にいえば、われわれは、持久戦、それから敵の戦闘力と補給との消耗をねらっている。」、「われわれの計画は、華北と西北一帯との敵の背後に、多くの地区山間基地を設けることだ。」と説明した(A.スメドレー著『偉大なる道』岩波書店1955年)。

☆アグネス・スメドレーは米国出身の女性ジャーナリストである。朱徳に同行し、取材していた。

☆1938年2月10日のグルーの日記は、「南京に侵入した日本軍の言語に絶した残忍と、彼らの放恣(ホウシ)な米国諸権利の侵害が伝わって来た。」、「中国人は大体無差別に殺され、多数の中国婦人が陵辱された。」と記述する。

☆1938年5月頃の毛沢東の講演「持久戦について」は、「日本は人的、軍事力、財力、物力にいずれも欠乏を感じており、長期の戦争にはたえられない。」、「国際ファシスト諸国の援助をうることはできるが、援助の力をうわまわる国際的な反対の力にぶつからざるをえない。」と指摘した(『毛沢東選集第2巻』外文出版社1972年)。日米開戦まで3年余であった。

(46)『滞日十年・下巻』(タイニチジュウネン・ゲカン)
①ジョセフ・C・グルー(石川欣一訳)
②1880-1965
③毎日新聞社
④1948年12月10日
⑤360P・18㎝
⑥200円
⑦「戦端を開いた時、彼らは失敗の準備を何もしておらず、退却の路は何一つ残しておかなかったのです。彼らはその指揮下にあるすべての武力と精力あげて、体当たりしたのです。そして彼らは完全に壊滅されるまでは同様な戦いを続けることでしょう。」(320P)

☆同書は松岡洋右外相について再三不信感を記述する。

☆1940年11月18日のグルーの日記は、「天皇は三国(日独伊)条約に同意することをこの上もなく嫌い、最後に松岡(外相)が、枢軸国との同盟が締結されぬ以上合衆国との戦争は避けえないという、深くたくらんだ確信を申し述べるにいたって、とうとう同意したそうである。」と記述する。

☆1941年12月8日のグルーの日記は「午前7時私は出来るだけはやく外相(東郷重徳)にあいにきてくれという電話で起こされた。」と記述する。日米開戦の日の朝である。

☆グルー駐日大使等は、1942年6月に交換船で帰国の途に就いた。同書には珊瑚海海戦までの記述はあるが、日本海軍が大敗を喫したミッドウェー海戦の記述はない。

(47)『俘虜記』(フリョキ)
①大岡昇平
②1909-1988
③創元社
④1948年12月20日
⑤214P・18㎝
⑥140円
⑦「私は昭和20年1月25日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となった。(中略)私の属する中隊は昭和19年8月以来、島の南部及西部の警備を担当した。」(5P)

☆所蔵本は初版である。「俘虜記」、「サンホセ野戦病院」、「レイテの雨」、「西矢隊始末記」の4篇からなる。

☆自決の場面が2カ所ある。「笑いながら『あばよ』といって、その呼びかけから連続した動きで、信管を地上の石に打ち当てた。信管は飛び、手榴弾は火を噴かなかった」。当時、日本軍の手榴弾の6割が不発だったそうである。

☆第2の自決は「私は上半身を起して銃口を両手で額に当て、右足の靴を脱してその親指で引き金を引こうとした。しかし私はこの不安定の姿勢を保つことが出来ず横に倒れた。」と叙述する。戦地フィリピンでマラリアに感染した兵士も多数描かれる。

☆同書「西矢隊始末記」だけ、全文が漢字とカタカナである。1944年7月のサイパン島陥落はわずかに、「沖縄島沖ニテ兵ハサイパンノ敗報ヲ知ラサレタ。」と記述される。

☆吉田裕著『アジア・太平洋戦争』(2007年岩波新書)は、1944年6月のマリアナ沖海戦について、「日本海軍は、大型空母=2隻、小型空母=1隻を失い、基地航空部隊も壊滅した。」と記述する。7月にサイパン島の日本軍守備隊(4万4000人)は全滅したが、マッピ岬(バンザイ・クリフ)断崖からの集団自決は悲惨である。

☆同年7月18日に東条内閣は総辞職し、小磯内閣が組閣された。

☆前掲『アジア・太平洋戦争』は10月のレイテ沖海戦について、「空母=4隻、戦艦=3隻、巡洋艦=10隻、駆逐艦=11隻、潜水艦=1隻を失い、連合艦隊は事実上、消滅する。」と記述する。

☆本多秋五著『物語戦後文学史(中)』(岩波書店1992年)は『俘虜記』を、「生命の危機に立つ人間を描きながら、これほど沈着冷静に分析し、縦横に考察の筆をふるった作品は、これまで日本の小説にはなかった。」と批評した。

(48)『アメリカ英語の背景』(アメリカエイゴノハイケイ)
①竹中治郎(タケナカ・ジロウ)
②1901-1976
③国際出版社
④1948年12月30日
⑤208P・18㎝
⑥160円
⑦「合衆国の五大都市と称せられるものは、人口100万以上を有するニュー・ヨーク、シカゴ、フィラデルフィア、デトロイト及びロサンジェルスである。」(80P)

☆所蔵本は初版である。副題は “ THE BACKGROUND OF THE AMERICAN LANGUAGE ”である。

☆ニューヨーク市について、「嘗て世界一を占めていたロンドンが、ドイツ空襲による破壊から未だ復興しない現在に於ては、世界最大の都会である。」と記述する。

☆ニューヨークの人口は「700万人以上」、その中に「ユダヤ人180万人」、「白系ロシア人48万人」、「黒人42万人」、「ポーランド人35万人」と説明する。

☆合衆国第2の都市シカゴはイリノイ州に在り、人口は「350万人」で「世界屈指の食料集散地」と説明する。

☆「アメリカでは婦人は夕方、一人で街を歩いてはいけない。夕方一人歩きをする人は、売笑婦と看なされる。」、「street-girlと言うのは売笑婦のことであり、公娼のないアメリカでは私娼が歩道(sidewalk)を、夕方一人で歩く」という記述もある。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

【1949(昭24)年】

(49)『泡沫の三十五年』(ホウマツノサンジュウゴネン)
①来栖三郎(クルス・サブロウ)
②1886-1954
③文化書院
④1949年3月1日
⑤242P・21㎝
⑥250円
⑦「自分は日米交渉という重大使命の失敗によって、外交官生活の終止符を打った。三十五年は畢竟泡沫にしか過ぎなかったのである。」(173P)

☆所蔵本は初版である。古書店で購入した初版本の巻末に、「昭和二十四年四月九日 於日本橋求之 S.Kuru 」と書込がある。「 S.Kuru 」が著者のサインかどうかは不明である。

☆巻頭には、来栖夫妻の写真が掲載されている。夫人はアメリカ人であった。

☆著者は1910年に外交官になり、1940年の日独伊三国同盟調印のときは駐独大使であった。1941年の日米開戦時は特派大使である。駐米大使の野村吉三郎(前述)を補佐した。

☆1942年7月23日の記述に、「野村大使と自分とは、グルー大使と埠頭で相当な距離を隔てて行違って、互に帽子をとって挨拶を交わした。」とある。グルー(前述)は駐日米国大使である。交換船で帰国する両国大使がすれ違った港は、ポルトガル領のロレンソ・マルケス(現モザンビーク)である。

☆野村と来栖の乗船した交換船は、大西洋とインド洋を経由する航路であった、同年8月20日に横浜港に到着した。

☆著者は第10章の「新しい日本の建設」において、「多年日本憲政の癌をなし、山本権兵衛総理大臣の非常な苦心と勇気とによって、辛うじて除去することの出来た陸海軍大臣の現役制は、この時(二・二六事件後の広田弘毅内閣)に無造作に復活せられてしまった。」と悔悟する。

(50)『この子を残して』(コノコヲノコシテ)
①永井隆(ナガイ・タカシ)
②1908-1951
③大日本雄弁会講談社
④1949年4月30日
⑤239P・18㎝
⑥130円
⑦「そこへ不意に落ちてきたのが原子爆弾であった。ピカッと光ったのをラジウム室で私は見た。その瞬間、私の現在が吹き飛ばされたばかりでなく、過去も滅ぼされ、未来も壊されてしまった。(中略)妻は、バケツに軽い骨となってわが家の焼跡から拾われねばならなかった。」(12P)

☆所蔵本は初版である。ベストセラーである。奥付の著者略歴に「1928年松江高等学校卒業、1932年長崎医科大学卒業、1934年カトリック洗礼、1946年長崎医科大学教授」とある。

☆著者は放射線医学の研究者であり、「浦上の天主教徒1万のうち8千人が死んだ。ここには純心と常清(ジョウセイ)の二つの女学校があった。教員は修道女がほとんどすべてであった。純心の生徒たちは、工場に動員されていたが、燃ゆる火の中で讃美歌をうたいつつ、次々息絶え、灰になっていった。」と記述する。

☆弊館は、永井隆著『ロザリオの鎖』(ロマンス社1948年)も所蔵する。筆者の義母(故人)は、戦争中長崎市役所に勤務した。

(2014年8月)



◎今月の行事予定
 9月 1日:関東大震災記念日
 9月 2日:亀太郎忌(原亀太郎命日,1894年9月2日他界,満33歳)
 9月 8日:十五夜
       名月や光降る村静寂にて (凡一)
       メイゲツヤ ヒカリフルムラ シジマニテ (ボンイツ) 
 9月19日:HP移転(ocn → sakura)



☆8月の企画展は好評のうちに無事終了しました。御協力を賜りました皆様に心より御礼を申し上げます。

☆9月は書誌データの残りを書き続けます。書誌項目は、①著者、②著者標目、③出版社、④初版発行年月日、⑤大きさ・容量、⑥値段、⑦本文抜粋。選書は1人1書を原則(分冊は例外)。書名のみ旧字体。(   )と句読点は筆者。
(8月から続く)

『生きてゐる兵隊』(イキテイルヘイタイ)
①石川達三(イシカワ・タツゾウ)
②1905-1985
③河出書房
④1945年12月20日
⑤172P・19㎝
⑥4円50銭
⑦「此の作品が原文のままで刊行される日があろうとは私(著者)は考えて居なかった。筆禍を蒙って以来、原稿は証拠書類として裁判所に押収せられ、今春の戦災(東京空襲)で恐らくは裁判所と共に焼失してしまった。」(1P)

☆所蔵本は初版である。1938(昭13)年の初出誌『中央公論』は発禁処分となり、石川達三は有罪(執行猶予)になった。判決理由は「皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍紀弛緩の記述」(2P)である。

☆同書は、1937年夏から冬にかけての上海戦や南京戦(前述)の実相を描写する。

☆南京陥落後の慰安所について、「百人ばかりの兵(日本兵)が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。」、「露路を入ると両側に五六軒の小さな家が並んでいて、そこに一人ずつ女がいる。」、「言葉も分らない素性も知れない敵国の軍人と対して三十分のお相手をするのだ。」、「鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた。」と叙述する。

☆吉見義明編『従軍慰安婦資料』(大月書店1992年)は、「1937年に日中全面戦争が始まると、年末頃から軍慰安所の設置は急増した。」と記す。

☆弊館は、戦後ベストセラーになった『望みなきに非ず』(読売新聞社1947年)も所蔵する。

『敗因を衝く-軍閥専横の実相』(ハイインヲツク-グンバツセンオウノジッソウ)
①田中隆吉(タナカ・リュウキチ)
②1893-1972
③山水社
④1946年1月20日
⑤327P・18㎝
⑥6円
⑦「無条件降伏の瞬間迄、最後は必ず勝つと教えられ、又必ず勝つと信じていた国民は、呆然として自らを失い、唖然として言う所を知らなかった。而して今や何人も異口同音に『何が故に?』と敗北の原因を問い尋ねつつある。」(1P)

☆所蔵本は初版である。奥付の著者略歴に拠ると、田中隆吉は「元陸軍省兵務局長」で「陸軍少尉」である。「兵務局」は、軍人及び軍属の不法行為を監視監督する部局であった。

☆田中は、「第3篇 敗因」の「軍属化せる官僚」で、「生きんがために已むを得ざる国民の闇行為に対する処罰は峻厳を極めた。愛する子女のために、千葉県から少量の甘藷を購い来れる一婦人は、市川橋の袂に於て警官に没収せられ敲打せられたため、その子女と共に身を河中に投じた。」と記述する。

☆弊館は続刊の『日本軍閥暗闘史』(清和堂書店1947年10月)初版も所蔵する。同書「第12 再生日本の方向」で、田中は「われら日本及び日本人は、数百万の同胞の鮮血で購い得たるこの自由を、無為と貪慾と放縦の悪徳のうちに葬り去ってはならぬ。」(170頁)と結語する。この叫びは悲痛である。

『先祖の話』(センゾノハナシ)
①柳田国男(ヤナギタ・クニオ)
②1875-1962
③筑摩書房
④1946年4月15日
⑤253P・21㎝
⑥12円
⑦「この度の超非常時局によって、国民の生活は底の底から引っかきまわされた。日頃は見聞することも出来ぬような、悲壮な痛烈な人間現象が、全国の最も静かな区域にも簇出(ソウシュツ)して居る。」(3P)

☆所蔵本は初版である。奥付に発行部数「10,000部」とある。1945年の東京大空襲の最中に執筆された原稿である。遺書のつもりであったかも知れない。弊館は『定本柳田国男集』(筑摩書房)全巻を所蔵する。

☆戦後に執筆した序文において、柳田国男は「今度という今度は十分に確実な、又しても反動の犠牲となってしまわぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ。(中略)力微なりといえども我々の学問は、斯ういう際にこそ出て大いに働くべきで、空しき詠歎を以てこの貴重なる過渡期を、見送って居ることは出来ないのである。」と記述した。

『水いらず・壁』(ミズイラズ・カベ)
①サルトル
②1905-1980
③世界文学社
④1946年12月30日
⑤150P・19㎝
⑥22円
⑦「リュリュ(妻)は息がつまるかと思うほどはげしく泣いた。もうやがて夜が白む。人間は決して決して、望むとおりのことは出来やしない。人間はただ流されるのだ。」(70P)

☆所蔵本は初版である。「水いらず」も「壁」も短編小説である。「水いらず」という作品は冒頭から濃密である。サルトルは、「リュリュが裸で寝るのはシーツに身体をこすりつけるのが好き」と書き始める。

☆夫婦の関係を、「リュリュは夫の腰のあたりを軽く撫で、腿の付け根をちょっと捻った。アンリー(夫)は唸ったがピリッともしない。不能になってしまったのだ。リュリュは微笑した。」と描く。

☆『壁』の訳者の伊吹武彦は、サルトルの実存主義を「人間はその属する環境によって制約されつつ、しかも不確定の中心であり、この不確定によってこそ選択の自由と責任を有する。」と解説している。

☆翌年に出版されたサルトルの『嘔吐』(青磁社1947年2月)はベストセラーになった。

『私の記録』(ワタシノキロク)
①東久邇宮稔彦(ヒガシクニノミヤ・ナルヒコ)
②1887-1990
③東方書房
④1947年4月1日
⑤260P・18㎝
⑥38円
⑦「米国軍の第1次本土進駐連絡のために、飛行機で(8月)19日に比島(フィリピン)へ出発した河邊中将以下のわが方の全権代表が、20日の予定時刻になっても、まだ帰って来ない。」(152P)

☆所蔵本は初版である。著者は戦後最初の首相である(前述)。日本では陸軍士官学校に学び、フランスでは陸軍大学校を卒業した。夫人は明治天皇の皇女である。東久邇宮は満102歳まで生きた。

☆1945年の米軍の占領開始文書について、「(8月)21日朝、不時着した河邊全権の一行は、無事東京に帰ってきた。直ちに報告を聞き、比島で米軍から手渡しされた書類を見た。」と記述する。米国と日本外務省の間の連絡は「無電」であった。

☆米軍の厚木飛行場進駐が決定した。

☆同書の終章「次代文明への理想」では、「従来のような意味での、大都市集中主義の再建ということは避けたい」、「国民皆農、農工一体化」を模索すべきであると主張する。

「暗愚小伝」(アングショウデン),『展望』(1947年7月号)所載
①高村光太郎(タカムラ・コウタロウ)
②1883-1956
③筑摩書房
④1947年7月1日
⑤64P・21㎝
⑥15円
⑦「日本の形は変りましたが、あの苦しみを持たないわれわれの変革を あなたに報告するのはつらいことです。(報告)」(62P)

☆弊館が所蔵する『展望』(1947年7月号)は、「暗愚小伝」の初出誌である。後に詩集『典型』(中央公論社1950年)に収録された。

☆①「土下座(憲法発布)」、②「ちょんまげ」、③「郡司大尉」、④「日露戦争」、⑤「御前彫刻」、⑥「建艦費」、⑦「楠公銅像」、⑧「彫刻一途」、⑨「パリ」、⑩「親不孝」、⑪「デカダン」、⑫「美に生きる」、⑬「おそろしい空虚」、⑭「協力会議」、⑮「真珠湾の日」、⑯「ロマン・ロラン」、⑰「暗愚」、⑱「終戦」、⑲「報告(智惠子に)」、⑳「山林」の20篇からなる重厚長大な連詩である。

☆1889(明22)年から1947(昭22)年までの近現代史(約60年)を串刺しにする思想詩である。

☆印象深い詩句を抜粋する。
⑥「だからこれから光(ミツ)も無駄をするな。(建艦費)」
⑩「あれほど親思いといわれた奴の頭の中に 今何があるかをごぞんじない。(親不孝)」
⑬「智惠子の狂気はさかんになり、七年病んで智惠子が死んだ。(おそろしい空虚)」
⑯「暗愚の魂を自らあわれみながら やっぱり私は記録をつづけた。(ロマン ロラン)」
⑱「占領軍に飢餓を救われ、わずかに亡滅を免れている。(終戦)」

☆発病した智惠子が療養生活をおくった家屋は、房総の九十九里沿岸に在った。海岸線には光太郎の詩碑が建てられている。

◆『財界回顧』(ザイカイカイコ)
①池田成彬(イケダ・シゲアキ)
②1867-1950
③世界の日本社
④1949年7月25日
⑤304P・21㎝
⑥250円
⑦「井上(準之助)君や団(琢磨)さんを殺したのは日召の例の血盟団員で、私も危なかったですよ。私を狙ったのは何でも、私の麻布の家の近所の電車通りの煙草屋の二階を借りて一週間とか十日とか泊って、私を始終狙った。」(174P)

☆戦後の隠れたロングセラーである。後に三笠書房(1952年)や図書出版(1990年)からも発売された。池田成彬(三井常務理事)は、戦時国家独占資本主義時代の財界と金融界の指導者であるが、終戦後にA級戦犯指名され公職追放となった。

☆池田は幕末の米沢藩(平侍)出身なので、生涯の回顧談は痛快である。

☆同書巻末に年譜がある。日中戦争勃発前後から敗戦までの池田の略歴を抜粋する。(  )は筆者。
・1937(昭12)年・・・日銀総裁(林内閣)
・1938(昭13)年・・・蔵相兼商工相(近衛内閣)
・1939(昭14)年・・・中央物価委員会会長(平沼内閣)
・1941(昭16)年・・・枢密顧問官(東条内閣)
・1944(昭19)年・・・勲2等叙勲( 〃 )

☆吉野俊彦は『財界回顧』(図書出版1990年)の解説で、「正直な所読んで面白いのは、『高橋是清自伝』と池田成彬の『財界回顧』の二冊であった。」と記す。吉野は元日本銀行調査局長であり、いすみ市の民権家(自由党員)であった吉野朝吉の子孫である。

☆吉野は『日本銀行』(岩波新書1963年)で、「ドイツにおいても、シャハト(経済相)がナチスによって利用されながら最後にはふりすてられたように、日本のシャハトとでもいうべき池田・結城レジーム(体制)に対する反感が、戦争末期に軍部なり政府なりに出てきた。」と記す。

☆大島清・加藤俊彦・大内力著『日本資本主義の没落Ⅳ』(東大出版会1964年)の見解は、「総帥になった池田成彬が、一方で三井の再編成をやりながら、他方北一輝をつうじて右翼に献金し、それとの結びつきを強めていった。」、「財閥に買収されたのは、一右翼団体ではなく、軍部であり官僚であり、権力機構そのものであった。」というものである。

☆「反感」を重視するか、それとも「結びつき」と「買収」を重視するか。

☆福島県自由民権運動の先駆的な研究者であった大石嘉一郎は、『日本資本主義の構造と展開』(東大出版会1998年)において、戦時統制経済の展開を5期に区分した。簡単に紹介する。
・開始期(日中戦争勃発,1937.7~第2次世界大戦開始)
・強化期(第2次世界大戦開始,1939.9~アメリカの対日資産凍結)
・転換期(アメリカの対日資産凍結,1941.7~ガダルカナル撤退)
・破綻期(ガダルカナル撤退,1943.2~サイパン陥落・東条内閣総辞職)
・解体期(サイパン陥落・東条内閣総辞職,1944.7~敗戦)

☆それぞれの時期の特徴については、同書第6章を参照されたい。大石嘉一郎は第6章で、「植民地から食糧輸送が断たれた終戦時には飢餓水準に近づいていた。」、「政府がポツダム宣言の受諾を決意するとき、最後まで固執したのは、国民生活ではなくて『天皇制の護持』であった。」と記す。

☆政府は鈴木貫太郎内閣(前述)である。大石の評価は「結びつき」一辺倒ではない。

☆『財界回顧』の座談に登場する池田夫人は、中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)の娘である。同書は名著なので、スタンダードな文庫本にして若い世代が気軽に購入でき、広く読まれるようにすべきだろう。軍部と財界の対立に関する談話は、暗い谷間の時代の恐るべき証言である。

『自然と理性』(シゼントリセイ)
①湯川秀樹(ユカワ・ヒデキ)
②1907-1981
③秋田屋
④1947年10月25日
⑤204P・18㎝
⑥60円
⑦「第1部に集録した9篇の小品は全て終戦後の1年間に、色々な新聞や雑誌の半ば強制的な依頼に従って書かれたものである。」(1P)

☆所蔵本は初版である。鴨川市民から寄託して戴いた出版物である。湯川秀樹がノーベル賞を受賞したのは2年後の1949(昭24)年である。

☆湯川秀樹は、「原子爆弾の実用的威力は巷に宣伝されている。しかし、原子爆弾は原子核研究という最も基礎的な研究の副産物である。」と記述する。

☆広島市平和記念公園の「平和の像」(1966年設置)には、「まがつびよ ふたたびここに くるなかれ 平和をいのる 人のみぞここは」という湯川の短歌が刻まれている。「まがつび(禍津日)」は原爆を指す。

☆弊館は湯川秀樹の半生と中間子論を平易に解説した、長澤玄光著『少年 湯川博士』(新陽社1950年)も所蔵する。

『忘れられた思想家・上巻』(ワスレラレタシソウカ・ジョウカン)
①E.H.ノーマン(大久保愿二,オオクボ・ゲンジ訳)
②1909-1957
③岩波書店
④1950年1月31日
⑤227P・17㎝
⑥90円
⑦「この書物は、その副題が示すように、体系的な論文というよりはむしろ一篇の随筆であり、もともと1948年3月東京の日本アジア協会の会合の席上で朗読した報告書が一年余りたつあいだに書物の長さに成長したものである。」(ⅰP)

☆所蔵本は初版である。同書の副題は「安藤昌益のこと」である。英文の原題は Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism である。

☆上巻は「第1章 序説」、「第2章 安藤昌益-その人」、「第3章 昌益の時代-徳川封建社会」、「第4章封建制の批判-社会階級とイデオロギー」で構成される。

☆著者は長野県軽井沢で生まれ、占領期に駐日カナダ使節団主席を務めた。弊館は『ハーバート・ノーマン全集』全4巻(岩波書店1977~1978)も所蔵する。

☆安藤昌益の『自然真営道(四巻)』について、「武士は身分的には恵まれているけれども、他の三つの階級の全部を搾取するものは実は大商人であると述べて、当時の社会的変化に対するたぐい稀れな洞察を示している。」(第3章)とノーマンは記述する。

☆昌益の商人観を、「イギリス封建制の崩壊を目撃したところのやはり鋭い社会批評家サー・トマス・モアにくらべられよう。」(第3章)と記述する。占領期の比較近代史の視座は、ノーマンの独創性を示す。

☆『統道真伝(巻五)』については、「昌益は仏教が婦人を劣等の地位におとしめたことを糾弾し、女性解放論の先駆者としてあらわれている。」(第3章)とノーマンは記述する。このような評価は戦後改革の産物であり、ノーマンの置き土産である。

『忘れられた思想家・下巻』(ワスレラレタシソウカ・ゲカン)
①E.H.ノーマン(大久保愿二,オオクボ・ゲンジ訳)
②1909-1957
③岩波書店
④1950年1月31日
⑤225P・17㎝
⑥90円
⑦「私(ノーマン)には、宣長(ノリナガ)が長たらしくごたごたしているように思われるのに、昌益(ショウエキ)はこれにくらべて直截で碑銘のように簡潔である。その言葉づかいは荒削りだが古いラテン語のように彫りが深い。」(第5章10P)

☆所蔵本は初版である。下巻は「第5章 文章と方法」、「第6章 理想社会・改革・熱望」、「第7章 影響と比較」、「文献目録」で構成される。

☆昌益の視野について、「オランダの独立の闘争に鍛えられた強固な国民的団結」と「世界最大の商業国たらしめた現実的重商政策」を「鋭敏に捉えた」(第6章)とノーマンは指摘する。

☆昌益の人物像について、「私は、昌益を純朴な田舎医者と考えたい。(中略)書物の学問よりも生きた現実に多くを学ぶという、鋭いけれども温い眼をもって自然と同胞をながめ、それから学びまた教えることのできた人であった。」(第7章)とノーマンは記述した。

☆ノーマンの評伝については、中野利子著『外交官 E.H.ノーマン』(新潮文庫2001年)がある。弊館は『安藤昌益全集』(農文協)全巻を所蔵する。一昨年木更津市の市民から、『現代に生きる安藤昌益』(お茶の水書房2012年)を寄贈して戴いた。

(2014年9月)


◎今月の行事予定
 10月11日(土):デジタル・ミュージアム開設16周年(1998~)
 10月13日(月):栗邨忌(加藤淳造命日,1914他界,満62歳)
 10月22日(水):物外忌(齊藤自治夫命日,1916他界,満59歳)
 10月23日(木):フィールドワーク(団体)
 10月25日(土):フィールドワーク(団体)



☆10月に他界した房総の民権家に、加藤淳造と齋藤自治夫(和助)がいます。南房総市の加藤淳造は、1852(嘉永5)年3月3日に誕生し、1914(大正3)年10月13日に他界しました。今年の栗邨忌(リッソンキ)は没後100年に当たります。

☆茂原市の齊藤自治夫は、1857(安政4)年10月8日に誕生し、1916(大正5)年10月22日に他界しました。壮年の頃に、和助から自治夫に改名し、雅号は物外(モツガイ)です。

☆次回企画展
焼跡の雑誌論文の書誌データ(約70誌)を書き始めました。

◆書誌項目

①論文・コラム執筆者
②執筆者標目
③雑誌社
④発行年月日
⑤大きさ・容量
⑥値段
⑦本文抜粋
☆コメント
※選書は1人1誌を原則。引用文は新仮名、新字体。(    )と句読点は当館。

【1946(昭21)年】

◆「女性と自由」(『世界』1946年創刊号)
①羽仁説子(ハニ・セツコ)
②1906-1987
③岩波書店
④1946年1月1日
⑤192P・21㎝
⑥4円
⑦明治十八年自由党員として大阪事件に連座した福田英子女士(史)の自伝「妾の半生(涯)」などを読み直したい。激しい怒と涙のなかで、私たちは、自由の権利と封建制への抵抗と(中略)深刻な戦いを覚悟せねばならないのである。(134P)

☆当館は1946年発行の『世界』(1月号~12月号)を全冊所蔵する。紙質は良くないが製本はしっかりしている。

☆「女性と自由」は9頁の時評である。執筆者の羽仁説子は、歴史家の羽仁五郎の妻である。説子は日中・日米戦争における女性の受難を、「私たち女性は、母親として、姉妹としてどれだけの息子を、兄弟を、夫を、父親を、失ったか。」と記述した。

☆夫の五郎は8月15日の敗戦を獄中で迎えた。同志による救出は無かった(『自伝的戦後史』講談社1976年 )。妻の説子は軍閥と財閥の策動に対し、「なぜ反対出来る人が少なかったのか」、「何が、これほど日本国民を無告の民にしてしまったのか」(132P)と問いかける。

☆創刊号は、大内兵衛「直面するインフレーション」、桑原武夫「趣味判断」、湯川秀樹「自己教育」、尾崎咢堂「感遇(漢詩・短歌)」、志賀直哉「灰色の月」、岩波茂雄「『世界』の創刊に際して」等を掲載する。

◆「飢餓の街」(『中央公論』1946年新年号)
①壺井栄(ツボイ・サカエ)
②1900-1967
③中央公論社
④1946年1月1日
⑤112P・21㎝
⑥2円50銭
⑦近所の人たちの話では千葉県では一貫目三円から五円で手に入るというので、甘藷の期間中三日にあげず買出しに出かけていた。(65P)

☆掲載誌は復刊第1号である。『中央公論』は1944(昭19)年以来、休刊状態であった。

☆「飢餓の街」は8頁程のルポルタージュ(探訪記)である。執筆の動機は、「食糧に追われている東京の姿を見てこいというのが中央公論の注文である。ついでにおさつの買出しもして、身をもって経験してきてほしいということであった」(64P)と記される。「おさつ」は甘藷である。

☆買出し先に「飯岡」という地名が登場する。千葉県海上郡飯岡町(現旭市)のことであろう。「飯岡の近くでは、十二日の甘藷買出し法度の法令を無視して買出しに行った人たちが、巡査を木にしばりつけた。」(70P)という記述がある。

☆同誌は、蝋山政道「我が国体と民主主義」、羽仁五郎「福沢諭吉・人と思想の研究」、齋藤茂吉「短歌・小吟」、永井荷風「浮沈」等を掲載する。

☆壺井栄は瀬戸内海小豆島出身の女性作家である。『二十四の瞳』(光文社1952年)はベストセラーになった(『ベストセラー物語・上』朝日新聞社1978年)。

『二十四の瞳』は何度も映画化、テレビドラマ化され、すでに60年が経過した。主役の大石久子先生を世代の異なる女優(高峰秀子・香川京子・島かおり・田中祐子・黒木瞳・松下奈緒etc)が次々に演じてきた。筆者の同世代は島かおりさんである。

(2014年10月)


◎11月の行事予定
 11月02日(日):加波山事件130周年記念シンポジウム
          (喜多方市「松楽館」)
 11月07日(金):立冬
 11月09日(日):秩父事件130周年記念集会
          (秩父市吉田農村環境改善センター)
 11月22日(土):安房歴史文化研究会公開講座
 11月27日(木):岩井忌(岩瀬武司命日,1923年他界,満64歳)



☆11月に他界した房総の民権家に、自由党員の岩瀬武司(以文会第3代会長)がいます。御宿町の岩瀬家は、今も酒造業(銘酒「岩の井」)を営んでいます。11月27日は岩井忌(ガンセイキ)です。

☆岩瀬武司の事蹟は『憲政功労者銘記』(以文会1927年)に、「加波山事件の嫌疑に連座して、同志井上幹(ミキ)、高梨正助(ショウスケ)、久貝(クガイ)潤一郎君等と共に獄に投ぜられ」と記述されています。

☆井上幹は出獄後夭折しました。岩瀬武司は1898(明31)年の第6回総選挙に立候補(憲政党)し当選しました。

☆11月9日(日)の「秩父事件130周年記念集会」に、館長と副館長の2人で参加しました。秩父事件の史跡探訪は4回目になります。1回目(30年前)は、吉田町と小鹿野町(オガノマチ)の史跡を2日間歩きました。2回目(20年前)は、長野県の東馬流(ヒガシマナガシ)周辺を2日間歩きました。

☆3回目(10年前)は、群馬県の神流川(カンナガワ)流域を日帰りで訪ねました。浅学を顧みず『自由民権18号』(町田市立自由民権資料館紀要2005年)に、秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件』(新日本出版社2004年)の新刊紹介を執筆したことがあります。今回は、道の駅に隣接する「秩父事件資料館」周辺を見学できました。



☆次回企画展
焼跡の雑誌論文・コラムの書誌データ(約70誌)を書き継ぎます。

【1946(昭21)年】

◆「終戦日誌」(『中央公論』1946年2月号)
①平林たい子(ヒラバヤシ・タイコ)
②1905-1972
③中央公論社
④1946年2月1日
⑤112P・21㎝
⑥2円50銭
⑦8月15日(中略)きょうに限ってラヂオは甚だ雑音多く、これも殆んどききとり難い。しかしその中に「ポツダム宣言を受諾」なる言葉あり、「降伏」、「敗北」等の言葉はさけて居れども、まさに無条件なるを知る。(81P)

☆当館は1946(昭21)年発行の『中央公論』(1月号~12月号)を全冊所蔵する。1月号は2円50銭(送料10円)で、12月号は5円50銭(送料30銭)である。紙質は良くないが、掲載論文の活字を追うことはできる。

☆発表された「終戦日誌」(同号79P~85P)は、1945(昭20)年8月13日から8月26日までの日記である。

☆同号は、東畑精一「地主の実体」、蔵原惟人「政治と文化」、河合栄治郎「法廷に闘える自由主義」等を掲載する。

☆水原秋桜子は、「蘆(アシ)枯れぬ四五枚獲(エ)たる堀の鮒」、「梅嫌(ウメモドキ)思わぬ富士を峡(カイ)に見る」の句を同誌に発表している。

◆「雪国の女達(金沢便り)」(『アサヒグラフ』1946年2月15日号
①大庭さち子(オオバ・サチコ)
②1904-1997
③朝日新聞社
④1946年2月15日
⑤18P・36㎝
⑥1円
⑦敗戦を契機に、女の世界にも新しい風が吹き初めた今、季節の春を待つまでもなく、自らの手で雲を払い、雪をくぐって青春の情熱と純真さを取り戻し、内攻する感情を思い切り解放して、新しい世界を作り上げる努力をしてもいいのではなかろうか。(6P)

当館は1946年の『アサヒグラフ THE ASAHI PICTURE NEWS』を25冊所蔵する。紙質は良くないが写真は鮮明である。

☆コラム「雪国の女達」は、
疎開先の北陸の女性に関する約2000字の随筆である。大庭さち子は京都府出身で、同志社女子大学で学んだ。作家であり、翻訳家でもあった。

☆2月15日号は、「民主戦線への行進」というコラムを掲載する。「寒空も物かわ来り会する者3万を数え大衆の志向を端的に示し」、「黄昏の街々には久かたぶりに赤旗がなびき、インターナショナルの歌声が流れた」と記述する。

☆「首相官邸前のデモ」等の写真数葉も掲載する。首相は幣原喜重郎で、占領期2代目の内閣である。

☆加藤楸邨の句集『野哭』(松尾書房1948年)には、「赤旗へ雲よりふりし燕(ツバクラメ)」(1946年5月吟)の句が収録されている。敗戦翌年の激動する首都を捉えた佳句である。

◆「湖畔の風景(山梨だより)」(『アサヒグラフ』1946年3月25日号
①森三千代(モリ・ミチヨ)
②1901-1977
③朝日新聞社
④1946年3月25日
⑤18P・36㎝
⑥1円50銭
⑦村では、いったいに男達が大切にされて、女達が働く。女達は、子供の時から畑もうつ。肥料もやる。養蚕もやる。収穫もする。また薪割りから、炭焼きもやる。そのほか、どんなことでも女のやらないことはない。(6P)

☆頁数や装丁は殆ど同じであるのに、2月15日号は1円、1ヵ月後の3月25日号は1円50銭である。超インフレが続いていた。

☆コラム「湖畔の風景」は、
山中湖周辺の暮らしに関する約1800字の随筆である。森三千代は愛媛県出身で、東京女子高等師範学校に学んだ。詩人の金子光晴(1895-1975)の妻であった。仏文学者の森乾(モリ・ケン,1925-2000)は令息である。

☆夫の金子光晴は、同年の『中央公論』(5月号)に「黴(カビ)」という詩を発表している。次のような詩句を含む。「兵器でまっ白になった地球の/はてなき寂しさは一つ/お互に人間であることだ」。

☆三千代(妻)、光晴(夫)、乾(息子)には、『詩集「三人」』(講談社2008年)という戦中の抵抗詩集がある。山中湖畔の疎開生活から生み出された異色の合作詩集で、三人の没後に発見され出版された。

◆「憑きもの」(『世界』1946年4月号)
①網野菊(アミノ・キク)
②1900-1978
③岩波書店
④1946年4月1日
⑤160P・21㎝
⑥5円
⑦敗戦は日本の婦人達に参政権を贈った。「女も哀れでなくなる時が来た」とヒロは思った。若し、ヒロが生れた時から既に日本の妻が夫と対等の身分でいたものであったら、ヒロも実母も一生の間の苦労は二人がすごしたものとは違ったものになっていたであろう。(142P)

☆約7頁の短編小説である。戦前の姦通罪による訴訟を描く。「ヒロ」は主人公の女性である。戦前の家族制度の中で、「ヒロ」の父も実母も離婚と再婚を繰り返し、親子関係の設定は複雑である。「ヒロ」自身も離婚した。

☆戦後インフレで、1946年の同誌の値段は急激に変動した。創刊号は4円(税込)、2月号は5円(税込)、3月号~9月号は5円(送料20銭)、10月号は5円(送料30銭)、11月号~12月号は6円(送料30銭)と跳ね上がっている。

☆購読者も編集者も大変であったろう。社長の岩波茂雄は、4月25日に他界した。羽仁五郎は同誌7月号に追悼論文を発表し、「岩波茂雄君は、ただにわが国において学問を開拓したのみならず、それをいわゆる官僚的アカデミイに対するたたかいにおいて遂行した」と記述する。

◆「茶摘み(五月の自然観察)」(『アサヒグラフ』1946年5月5日号
①辻村みちよ(ツジムラ・ミチヨ)
②1888-1969
③朝日新聞社
④1946年5月5日
⑤18P・36㎝
⑥1円50銭
⑦緑茶の中にあるカロチンはビタミンAの作用を、フラビンはビタミンB
2の作用をする。更に最近になって、緑茶中にビタミンCが多量に存在することが動物実験の結果立証されて、茶の栄養的意味が深くなった。(14P)

☆執筆者の辻村みちよの経歴は、理化学研究所の所員で農学博士と記載されている。

☆同誌の1948年7月28日号(定価20円)は、コラム「博士女史告知板」を掲載する。辻村は埼玉県出身で小学校教員を経験した後、東京女子高等師範学校に学んだ。卒業後、北海道大学に副手として勤務し、関東大震災後に理研に入所した。戦後、新制大学のお茶の水女子大教授になる。

☆コラム「博士女子告知板」は、辻村みちよ(農学博士)、保井コノ(理学博士)、黒田チカ(理学博士)、小川文代(理学博士)、松本静子(理学博士)、波多腰ヤス(農学博士)、井口ヤス(農学博士)、加藤セチ(理学博士)、丹下ウメ(農学博士)等9名の先駆的な女性科学者を写真とともに紹介する。


☆同誌掲載の「年をへて埋れしままの粗珠(アラタマ)そ(ゾ)とり出て(イデ)見ればつちくれにして」は、辻村の詠んだ短歌である。丹下と黒田は、東北大学に入学(1913年入学)した最初の女性であった。

(2014年11月)



◎12月の行事予定
 12月12日(金):『民権館通信第4号(2015年新年号)』印刷投函
 12月22日(月):冬至(日出06:46~日没16:32)
 12月28日(日):楓江忌(嶺田楓江命日,1883年没)
 12月29日(月):看雨忌(村田峰次郎命日,1945年没)
 12月30日(火):納会(煤払い)



☆12月に他界した房総ゆかりの民権家に、漢学者の嶺田楓江がいます。12月28日は楓江忌(フウコウキ)です。

☆京都府出身の嶺田楓江は、いすみ市の薫陶学舎在職中の1883(明16)年12月28日に病没しました(『自由新聞』記事)。木更津市と茂原市に顕彰碑があり、いすみ市に墓碑があります。

☆薫陶学舎で嶺田と一緒に勤務したのは、長州出身の村田峰次郎(英学担当)です。峰次郎は明治藩閥政府の末路である日中・日米戦争敗戦まで長生きし、1945(昭20)年12月29日に他界しました(満88歳)。「看雨(カンウ)」は峰次郎の雅号です。

☆峰次郎の墓碑は、山口県長門市の「村田清風記念館」の近くに在ります(村田家墓所は記念館から約300㍍)。峰次郎は清風(長州藩家老)の令孫でした。実父は大津唯雪(オオツ・タダユキ)でした。

☆先日、木更津市内の映画館で「不思議な岬の物語」(吉永小百合主演)を鑑賞しました。孤児であった喫茶店経営者(叔母)と少年(甥)の物語でした。

☆現代に生きる人間の孤独と様々な人生の悲哀が、房総半島の漁港を背景に映し出されています。ギタリスト村治佳織の演奏と相俟って、思わずホロリとさせられました。

◆評論家の松本健一氏が11月27日に逝去されたことを新聞で知りました。若い頃に松本氏の御労作(『風土からの黙示』、『歴史という闇』)に蒙を啓かれ、房総半島に生きた民権家の掘り起こしに着手できました。40年来の御交誼に感謝し、慎んで御冥福をお祈り申し上げます。
 黙示録白き孤影も時雨れけり   凡一
(モクジロク シロキコエイモ シグレケリ)



☆次回収蔵品企画展
焼跡の雑誌論文・コラムの書誌データを書き続けます。

◆「この喜び』(『アサヒグラフ』1946年5月5日号
①波多野勤子(ハタノ・イソコ)
②1905-1978
③朝日新聞社
④1946年5月5日
⑤18P・36㎝
⑥1円50銭
⑦思いがけなくも終戦になって、今私達は一家揃って生き残った。何といううれしさであろう。子供はどの子もがっちり肥って、まっかな頬をしてとびまわっている。空襲はもうない。これからは安心してこの母の手の内で子供たちを守り抜ける。(15P)

☆波多野勤子は心理学者であり、『少年期』(光文社1950年)等の著書がある。随筆の前半で甲府空襲に触れ、「小さい子をつれている人の空襲をおそれる気持は、ただ死を恐れるというのではなくて、どっちが生き残っても困るというところにあった。」と記述する。

◆「国史教育座談会報告」(『歴史学研究・第122号(復刊第1号)』1946年6月)
①村田静子(ムラタ・シズコ)=座談会出席者
②1923-
③岩波書店
④1946年6月20日
⑤49P・26㎝
⑥3円50銭
⑦歴史学研究会全体は未だ再発足していなかったが,歴史教育の改変は焦眉の急に迫っていると認められたので、日本史部会によって「国史教育再検討座談会」を催したところ、非常な盛会で、多数の歴史学徒及び教育家の参加を得て、活発な討議が行われた。(責任者遠山茂樹・松島榮一)(48P)

☆村田静子は座談会出席者43名中の紅一点であった。当館は1946(昭21)年に復刊された『歴史学研究』の第122号(6月刊)、第123号(8月刊)、第124号(10月刊)を所蔵する。

☆同誌122号掲載論文は、「シナの史といふもの」(つださうきち)、「日本の農家における自給経済生活の史的展開」(西岡虎之助)等である。書評欄は、井上清が「羽仁五郎氏の近業-革命期の歴史学-」を執筆する。

☆1959(昭34)年の「森の家日記」(『髙群逸枝全集第9巻』理論社1966年)には、次のような記述と髙群逸枝書簡(村田静子宛)草稿が記載される。

◎4月21日、くもり、村田静子『福田英子』受贈。「村田静子様・・・英子には詳伝がなく、いろいろ知りたいことや疑問がありましたが、長い御努力でこのような立派な本をお出し下さったことを心から感謝します。(後略)」。
(前掲書450P)

◆座談会「女性の解放を阻むものは何か」(『婦人公論』1946年7月号)
①渡邊道子(ワタナベ・ミチコ), 平林たい子(ヒラバヤシ・タイコ), 大町榮子(オオマチ・エイコ), 松岡洋子(マツオカ・ヨウコ), 渡邊華子(ワタナベ・ハナコ)

③中央公論社
④1946年7月1日
⑤80P・21㎝
⑥4円50銭
⑦私たちいちばん問題になるのは結婚観というものを全く改めること、そして本当に正しい結婚観から出発して家庭生活に入ってゆくことによって日本の社会が高められてゆくと思うのです。・・・不自然な男女の交際というようなもの、それから感情の問題、女性の問題の大半はそこから出発しているのではないかとすら思います。(18P)

☆座談会は「生活様式の改革」、「家族制度の枠」、「人民管理について」、「産児制限について」、「正しい結婚観」、「夫婦の問題」、「憲法について」の諸テーマを話し合う。

☆同誌の出席者紹介文に依れば、渡邊(道)は「早稲田大学法学部大学院に学び弁護士試補」、平林は「作家」(前述)、大町は「共産党婦人部長」、松岡洋子は「アメリカ、スワルスモア大学卒」、渡邊(華)は「東京女子大学卒」である。

◆「封建的ということ」(『婦人公論』1946年7月号)
①坂西志保(サカニシ・シオ)
②1896-1976
③中央公論社
④1946年7月1日
⑤80P・21㎝
⑥4円50銭
⑦命を鴻毛の軽きに置くことを日本人の美徳としたのは封建的遺物で、民主主々義の下では、何処までも命を惜み、無駄なく生きる事である。(中略)生命を尊ばない国民に偉大な仕事は出来ないし、大きな発展は望まれない。(36P)

◆「プリマドンナの死-三浦環の生涯-」(『婦人公論』1946年7月号)
①原信子(ハラ・ノブコ)
②1893-1979
③中央公論社
④1946年7月1日
⑤80P・21㎝
⑥4円50銭
⑦先生(三浦環)の最後の放送のバタフライを伺って泣きました。先生もあとで「やっぱりだめよ。力が入れられなかったの。」と云われました。だけどすぐ死んでゆかれる重病人のお歌としては立派すぎると思いました。(41P)

☆5月26日に他界した三浦環(ミウラ・タマキ)への追悼文である。執筆者の原信子は声楽家である。

☆髙群逸枝の『火の国の女の日記』(髙群逸枝全集10、理論社1965年)には「三浦女史を悼む」という弔詩が記載されている。「おおいまこそ君は帰れる/君が故郷に/さよなら(ママ)、さようなら/たのしく帰りゆく君よ/さようなら」(同書346P)。


◆「宵霧」(『婦人朝日』1946年7月号)
①藤川榮子(フジカワ・エイコ)
②1900-1983
③朝日新聞東京本社
④1946年7月1日
⑤62P・26㎝
⑥3円
⑦戦争がすんで、生命に対する直接の危機からの脱出は、ともかく私にある生活上の気分的余裕をあたえてくれたが、それはかつての自分の位置へ(を)ようやくとり戻させようとする一方、私の周囲に不可抗力に発生した問題は今もそのまま残っており、単に日々を耐え忍ぼうとする一瞬々々に唯一の努力があるに過ぎないようなのだ。(17P)

☆藤川榮子は洋画家であった。香川県出身である。当館は1946(昭21)年発行の『婦人朝日』7月号と12月号(後述)を所蔵する。7月号は「家」特輯号である。

☆同号は、今和次郎「農村の台所」、平野謙「『家』の教訓-島崎藤村の芸術-」、藤原義江「お蝶夫人(三浦環)今や亡し」、林健太郎「農家の姑と嫁」等も掲載する。

◆「日本の『家』と女性」(『婦人朝日』1946年7月号)
①高群逸枝(タカムレ・イツエ)
②1894-1964
③朝日新聞東京本社
④1946年7月1日
⑤62P・26㎝
⑥3円
⑦敗戦を機として日本憲法が改められ、基本的人権とともに夫婦の平等が謳われることとなり、ここにいよいよ家は一新されざるを得ない段階まできた。(81P)

☆1945(昭20)年12月31日の「森の家日記」は鋭敏に記す。

◎かえりみれば、苦しき年なりしかな。一敗血(ママ)にまみれ、巷には飢餓と寒さと呪いと、そしてインフレ激化と、生産停止と。-革命前夜だ-われら眼前の苦痛にたえて未来をたのしみまたむ。除夜の鐘をきいて就寝。
(『高群逸枝全集第9巻』理論社1966年272P)

☆1946(昭21)年正月元日の『朝日新聞』は、「聲」欄に高群執筆の「日本の美点」(約1600字)を掲載した。当館は同年の『朝日新聞縮刷版』(上下2巻)を所蔵する。

◎自分自身の美点を知ることも民主化の上に必要な(る)ことと思います。私は古代の婚姻制度や家族制度を調べていますが、わが父系が略奪婚からでなく、妻問い婚から始まっていることを知り、これは確かに一つの美点ではないかと考えています。
(『朝日新聞』1946年1月1日)

同年5月17日の「森の家日記」は、次のように穏和に記す。

◎いんげんおよびトマトの支柱をつくった。子供らきょうもいりこむ(自然薯掘り)。やむなく垣を結う。『婦人朝日』に原稿「日本の家と女性」をおくる。
(『高群逸枝全集第9巻』理論社1966年281P)

☆5月17日に投函された原稿は、『婦人朝日』7月号(「家」特輯)に掲載された。同日の日記には、「ふるさとの恋しき頃よ遠蛙(トオカワズ)」の佳句も記される。

☆鹿野政直氏は高群の女性史学を、「高群逸枝の仕事は究極のところ、日本古代における母系の存在の論証(『母系制の研究』)と、同じく日本古代の婚姻形態としての婿入婚の証明(『招婿婚の研究』)の二つとして要約される。」(『近代日本の民間学』岩波新書1983年187頁)と明快に指摘する。(   )は引用者。

(2014年12月)



寄贈図書(2014年)↓】※御支援に感謝しております。
□『田中正造とその周辺』(随想社2014年)
□『週刊・朝日ジャーナル』(1967年,1968年,1969年,1970年,1971年,約250冊)
□『鴨川9条の会会報第14号~第16号』(2014年,「史跡をめぐり、鴨川の自由民権運動史がいきいきとよみがえる」等)
□『房総史学 No.54』(2014年,「夷隅・安房地区臨地研究会の記録」ほか)
□『紀要・自由民権27号』(町田市教育委員会2014年)
□『民権ブックス27号』(町田市教育委員会2014年)
□『自由のともしび vol.77』(高知市立自由民権記念館2014年)
□『郷土に耀く人々・第1集』(多古町郷土史の会1985年,「桜井静」ほか)
□『並木栗水あて書簡』(多古町米本図書館2014年,「鱸松塘書簡」「大須賀庸之助書簡」ほか)
□『自由民権と新聞-福島民報創刊まで』(福島民報2014年,抜刷)
□『田中正造と足尾鉱毒事件研究 vol.16』(2013年,「田中正造における自由民権運動体験」ほか)
□『田中正造大学ブックレット・救現 Kugen No.11』(2010年,「自由民権運動と田中正造」ほか)
□湯川秀樹『自然と理性』(秋田屋1947年)
□『西海義民流人衆史』(長崎文献社2014年)
□Tokyo Tea Party『民撰議院設立建白書』(手帳版)
□『歴史読本8月号』(2014年,「小松宮彰仁親王コマツノミヤアキヒトシンノウ」ほか)
□『古本倶楽部274号~282号』(中野書店2014年)
□『永森書店目録第19号~第20号』(永森書店2014年)
□『誠心堂書店書目129号~130号』(誠心堂書店2014年)
□『松井簡治資料集』(2014年,「銚子関係資料」ほか)
□『五日市憲法草案をつくった男・千葉卓三郎』(くもん出版2014年)
□『自由民権〈激化〉の時代』(日本経済評論社2014年)
□『地方史情報118~121』(岩田書院2014年)
□『安房国再発見!館山まるごと博物館』(安房文化遺産フォーラム2014年)
□『歴史科学6月号』(大阪歴史科学協議会2014年,「『自由民権期の社会』像の構築」ほか)
□『企画展図録・自由民権と憲法』(高知市立自由民権記念館2014年)
□『千葉市・とけ9条の会会報第51号』(2014年,「平和バスツアー,安房鴨川自由民権運動・伊八の彫刻・名もなき女の碑報告」等)
□『熊野寮五十周年記念誌』上下巻(京都大学熊野寮五十周年記念誌を発刊する会2014年)