2014年
☆正月の休日に、鴨川市内にある第2次世界大戦の従軍慰安婦の慰霊碑を家族と一緒に見学した。
☆1973(昭和48)年10月に設置された石碑は、館山市にある慰霊碑よりも古い。場所は鴨川市花房の慈恩寺(鴨川中学校から北西へ徒歩20分)である。現在は無住の寺院なので、境内はひっそりしていた。
☆高さ3メートルの石碑には「名も無き女の碑」と刻まれている。次のような碑文である。句読点と( )のカタカナは筆者、以下同じ。
◇風雪にとざされし暗き道、春未だ来ぬ遠き道、されど春の来るをまちつつ、久遠にねむれ、汝、名も無き女よ。
☆慰霊碑の周囲は清掃が行き届いていて、水仙の花が咲いていた。台座には御賽銭もあげられていた。裏面には石碑を設置した経緯が刻まれている。
◇今次の大戦に脆弱(ゼイジャク)の身よく戦野に挺身、極寒暑熱の大陸の奥に、又遠く食無き南海の孤島に、戦塵(センジン)艱苦(カンク)の将兵を慰労激励す。時に疫病に苦しみ敵弾に倒る。戦い破れて山河なく、骨を異国に埋むも人之(コレ)を知らず、戦史の陰に埋る。嗚呼、此の名も無き女性の為(タメ)、小碑を建て霊を慰む。
昭和四十八年十月建之 東京 井谷(イタニ)忠衛
☆境内の水仙を見て、高浜虚子の佳句を想い出した。
◎水仙に春待つ心定まりぬ
(『虚子五句集・上』岩波文庫196頁)
☆1940(昭和15)年1月の句である。前年の1939(昭和14)年9月にはドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。第2次世界大戦の勃発であった。
☆慈恩寺の慰霊碑について書かれた文献は少ない。筆者は山田恵一氏の『町から村から』(館山市立図書館架蔵)しか読んだことがない。
◎今は亡き刈込善一さんは太平洋戦争に衛生兵として従軍し・・・こうした人達のために慰霊碑を建て、少しでもその霊を慰めてあげることが生き残ったものの役目ではないかとまで思った。
(『町から村から』94頁)
☆地域の「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たDepth=深淵)解明も一歩一歩である。
☆慈恩寺(新義真言宗智山派)は、長狭地域の観音霊場である。観音堂には、朱色の御詠歌の奉納額が掲示されている。( )の漢字とカタカナは筆者。
◇第三番 花房 慈恩寺
ごくらく(極楽)の 池のみきハ(汀)の はなぶさ(花房)に いつかう(生)まれん 身こそうれ(嬉)しや
文化十一年戌(イヌ)正月吉日 当村願主 津原玄濟
☆「身こそ嬉しや」は「実こそ熟れしや」の掛詞なのだろう。
☆文化十一年は1814年である。丁度200年前の正月(旧暦)に設置された奉納額である。地域の歴史の歩みを示す資料を凝視し、極楽往生を願った当時の人々に思いを馳せた。
☆小林一茶の『七番日記』には、1814年の正月の名句が記載されている。一茶は同年、房総地域を旅行した。
◎雪とけて村一ぱいの子ども哉
(『一茶七番日記・下』岩波文庫12頁)
☆この句については、以前言及したことがある。
☆1814年当時の幕政の特色を、ロシア人の眼から記述した資料にゴローニンの『日本幽囚記』(岩波文庫)がある。11代将軍の徳川家斉の時代である。
☆慈恩寺の御詠歌を調査研究した労作には、鴨川市郷土史研究会編の『長狭三十三観音巡礼ガイド』があり、鴨川市立図書館に架蔵されている。
* * * * *
☆厳寒の1月の満月を見て、すっきりとした気分になり久し振りに一句詠んだ。1年間で一番小さく見える満月という報道であった。月下は嶺岡山系の麓の稲作地域である。
☆望月を黄金の色に凍る峰 凡一(ボンイツ)
モチヅキヲ コガネノイロニ コオルミネ
☆1週間後、梅林の白梅が咲き始めたことに気づいた。路傍には山茶花、水仙、菜の花がすでに咲いている。辛夷はまだ蕾である。放念、寂寥、そして現在は残光諷詠か。
☆老残は光に溢れ梅の色 同
ロウザンワ ヒカリニアフレ ウメノイロ
(2014年1月)
☆開館以来最も問い合わせの多い民権家は、安房郡(第8区)選出の初代衆議院議員であった安田勲である。
☆1月は鴨川市内の郷土史探訪グループ(21名)の来館があった。午前中は館内講演を依頼されたので、安田勲書簡等について説明した。午後のフィールドワークでは、安田勲墓碑や佐久間吉太郎家を案内した。
☆入館者のうち男性は4人で、殆どが女性であった。昨秋、F市の市民グループ(24名)が来館したときも男性は少なかった。レキジョ(歴女)の時代の到来を痛感した。
☆しばらく、安田勲と立憲改進党政治家としての田中正造の関係について考える。
☆『立憲改進党々報21号』に、島田三郎と田中正造の房総遊説記事が掲載されている。拙著『房総の自由民権』(崙書房1992年)で言及したことがある。( )は筆者、以下同じ。
◎(1893年)11月9日木更津町鈴木座に於て政談演説会を開く、(中略)安田勲、的場平次、田中正造、島田三郎等の諸氏順次登壇、各雄弁を振ひ、万歳聲裡に閉会せしは午後七時なりき、此日聴衆千九百人。
(『立憲改進党々報21号』1893年12月発行)
☆1900人の聴衆は非常に多い。重城巌の姓名も記載されている。
☆木更津遊説は、田中正造の衆議院時代の『日記』(全集第9巻)にも記述されている。「安田くん氏」と田中正造が記載したのは、「安田勲」のことである。田中、島田、的場、安田の4名は、木更津町(木更津市)→岩井村(南房総市)→吉尾村(鴨川市)→東条村(鴨川市)→北条町(館山市)を遊説した。
☆『日記』(全集第9巻)には、「民党ニテ尚官吏ヲ望ム」、「新陳代謝セザレバ皆腐敗ス」、「板垣仙台演説、星離縁」といった、自由党員の腐敗堕落を批判した文言が列記されている。「板垣」は板垣退助で、「星」は辣腕の星亨のことである。
☆衆議院議長であった星亨は、1893(明治26)年12月に議員除名処分に追い込まれた。
☆通商局長時代の『原敬日記』(当館架蔵)に次のような記述がある。
◎(1893年12月)十二日 衆議院は議長星亨に対し不信任の上奏。
◎(1893年12月)十三日 衆議院は議長星亨を遂に除名。
(『原敬日記第2巻』乾元社1950年)
☆前年の1892(明25)年2月、安田勲は第2回衆議院総選挙で落選している。安房地域(第8区)で当選したのは、自由党の加藤淳造(医師)であった。
☆落選した安田勲は、翌年の1893(明治26)年の11月に、立憲改進党院外運動委員に選出されている。1894(明治27)年3月の第3回総選挙には再び当選した。
☆田中正造と島田三郎が房総を遊説したのは、安田勲が再選を目指し党勢拡大に奮闘していた時期である。
(2014年2月)
☆3月も田中正造と安田勲の房総遊説を追う。1893(明26)年11月10日は平郡岩井村で演説会を実施した。『立憲改進党々報21号』に次のように記載されている。
◎午後一時開会、荒砥、安田、的場、田中、島田の五氏順次登壇各一場の演説を為せり。此日自由派の雇壮士は熟酔入場して、頻りにノウノウを唱へしが、賛成者の声に圧せられ、遂に妨害を為し得ずして、ドウゾ星君を攻撃してくれるなと嘆願の声を発するに到りしは、気の毒なる有様なりし、聴衆千三百余人。
(『立憲改進党々報21号』1893年12月発行)
☆「荒砥」は荒砥通太郎である。『党報』には「道太郎」と記述されているが、御子孫に提供して戴いた戸籍謄本には「通太郎」と記されている。
☆「安田」は安田勲である。この頃は最初の妻と離婚し、再婚するのは1898(明31)年7月である。
☆「星君」は衆議院議長の星亨である。房総半島の演説会でも、立憲改進党は自由党の星亨を厳しく批判した。立憲改進党と自由党の対立は、互いの演説会を妨害しあう程であった。拙著『房総の自由民権』を参照されたい。
☆しかし、5年後の1898(明31)年6月22日に両党は合併し、6月30日には大隈と板垣の隈板内閣が成立することになる。
☆安田勲書簡には、小選挙区当選、落選、党派対立、離合集散、大選挙区補欠当選、疑獄事件と中央政界の変動に翻弄された記述が残されている。後日詳論の予定である。
☆1893(明26)年の11月11日と12日、田中正造、島田三郎、的場平次と安田勲は、鴨川市内を遊説している。12日は日蓮宗の古刹である小松原鏡忍寺(コマツバラ・キョウニンジ)が演説会場であった。
☆安田が大山不動尊尊の「別当」出身でなかったら、鏡忍寺を借用することができたかどうか。『立憲改進党々報』は次のように記す。
◎一行は、東条村小松原鏡忍寺演説会場に到る。午後一時開会、磯谷武一郎、安田勲、田中正造(中止)、島田三郎の諸氏等各得意の弁を振ひ、午后六時無事閉会、此日聴衆千五百十五人。夫れより小松原山屋に於て懇親会を開きしに会するもの八十余名、杯盤の間、田中、島田両氏の演説あり。・・・有力なる有志者数十名我党に加入せり。
(『立憲改進党々報21号』1893年12月発行)
☆聴衆の1515人はやはり多い。本堂が会場であったか、それとも祖師堂が会場であったのかはわからない。
☆田中正造の演説は中止と記載されている。11年前の1882(明15)年11月に、立憲改進党のイデオローグであった小野梓が安田勲と房州を遊説したときも、しばしば中止に会った。
☆小野梓の遊説は、『留客斎(リュウカクサイ)日記』に漢文で克明に記録されている。当時は船越県令に相当警戒されたのである。当館顧問の御教示によると、「留客斎」は「リュウカクサイ」と読むのが正しい。
☆11年前の小野梓と安田勲は、日蓮宗の日澄寺(ニッチョウジ)で演説会を開催し、名所の誕生寺や蓬島(ヨモギジマ・仁右衛門島)を見学した。移動手段は主に馬であった。
☆小野梓の出自は元土佐藩士である。夭折した。約10年振りの島田三郎は元幕臣である。士族インテリゲンチャの遊説であった。
☆遊説の最終日の11月13日は、北条町(館山市)の不動院で演説会が実施された。
◎鴨川町を発して北条町に向ふ、安房郡の党員秋山房次郎、平田倉次郎、高木静斎の三氏一行を南三原村に迎ひ、共に車を列して北条町吉田楼の会場に達す、会場の門前にはアーチを造り国旗を交叉し、改進党万歳、島田、田中両君万歳と大書せる国旗を翻へし、聴衆は已に場に満ち立錐の余地もなく、無慮(ムリョ)千八百八十人と数へり。
(『立憲改進党々報第21号』1893年12月発行)
☆聴衆は1880人であったと書かれている。木更津町の時の1900人とほぼ同数の聴衆であった。
◎午後二時開会、磯谷武一郎氏開会の旨意を告げ、平柳重蔵、小原金治、安田、田中、島田の諸氏登壇無事演了、喝采聲裡に閉会せしは午後七時なりし、・・・此夜入党せしもの数十名。
(『立憲改進党々報21号』1893年12月発行)
☆登壇した小原金治(オハラ・キンジ)は、後に安田勲に替わって立憲改進党から衆議院議員に当選(第4回総選挙)する。
☆小原金治の次に進歩党(立憲改進党)から衆議院議員に当選(第5回・第6会総選挙)した秋山源兵衛もこの演説会に列席している。
☆第6回総選挙(1998年8月)において、安田勲は同じ憲政党の秋山源兵衛に敗れている。
☆安田が憲政本党から三度目の当選を果たすことになるのは、大選挙区制になった第7回総選挙(1902年8月)である。浮沈が多く、決して平坦な道程では無かったのである。
(2014年3月)
☆3月中旬に植えた馬鈴薯がもう芽を出した。今年も自家産の種芋を植えた。種類はメークイン、キタアカリ、ダンシャクである。
☆蕗とタラの新芽は、すでに調理し試食した。もう少ししたらミツバやタケノコが食材である。
☆山菜や野草が美味しい季節になった。筆者の消費増税対策の基本は節電と節水だが、田舎暮らしの良い所は野生の山野草が身近にあることである。
☆常々、生活防衛の為に縄文農法(採集経済)回帰を提唱して来た。しかし葬祭場が乱立する超高齢化半島に暮らしている。先日、次のような拙句ができた。
◇春一番己の歳を過ぎ行けり 凡一
ハルイチバン オノレノトシヲ スギユケリ ボンイツ
☆館山市での講演(演題は「安田勲の生涯」)と香取郡多古町での講演(演題は「桜井静と自由民権」)が無事終了した。
☆今月も、安田勲と田中正造の関係を追う。1893(明26)年前後の安田勲は、千葉県内だけを遊説していたわけではない。安田の県外遊説について、先行研究を紹介する。
☆大日向純夫氏の『自由民権運動と立憲改進党』は、『立憲改進党々報』に依拠しつつ前年の1892(明25)年の党勢拡張と地方組織化について次のように記述している。句読点と( )は筆者、以下同じ。
◎(1892年)六月には波多野伝三郎・安田勲が富山県下へ、七月には、青木匡・丸山名政が伊豆へ、島田三郎・高田早苗らが富山へ、角田真平・波多野伝三郎・安田勲らが愛知県豊橋から岐阜県下へ(中略)それぞれ遊説に向かっている。
(大日向純夫『自由民権運動と立憲改進党』1991年、第3部第4章338頁)
☆波多野(長岡藩出身)、青木(出石藩出身)、丸山(須坂藩出身)、島田(幕臣出身)は房総半島を遊説したこともある立憲改進党員である。「出石藩」はイズシハンと読む。4人とも士族出身の知識人である。
☆安田勲は富山県、愛知県、岐阜県の遊説を担当した。愛知県における他党の妨害行動については次のような記述がある。
◎愛知県豊橋の演説会でも、「反対党の暴漢処々に現はれ、頻りに罵詈(バリ)悪口を放ち質問を為す等、終始妨害を加へた」。
(前掲書第3部第4章341頁)
☆「反対党」は自由党である。引用文の出典は『立憲改進党々報第14号』である。
☆千葉県内での妨害行動は、成田遊説がよく知られている。『成田市史近代編史料集』(1983年3月)に紹介されたことがある。
◎(1893年8月28日)大嶋千頃氏開会の旨趣を述べ、次で浅見弥助氏登壇するや反対党の末輩大凡四五十名、四隅に散在して妨害を試しが弁士の雄舌に圧せられたり。・・・夫より第五席安田勲、第六席小川三千三、第七席浅香克孝、第八席角田真平、第九席島田三郎の諸氏交々登壇したる。
(『立憲改進党々報第17号』1893年9月発行)
☆開会の挨拶をした大嶋千頃は千葉県の立憲改進党員である。矢嶋毅之氏の「佐倉の自由民権運動」(『佐倉市史研究』第17号2004年)によると、大嶋は佐倉藩出身で墓碑は佐倉市内の妙隆寺にある。
☆安田勲や島田三郎は、8月27日に佐倉町米新楼で演説を行い、翌日の28日は成田町の成田館で演説を行った。
☆島田と一緒に来房した立憲改進党員の小川三千三、浅香克孝、角田真平については、拙稿「三大事件建白運動と北村門太郎」(町田市立自由民権資料館『民権ブックス7号、北村透谷と多摩の人びと』所収)で所属政党と居住府県を分類したことがある。
☆田中正造が鴨川市や館山市でどのような演説をしたかは分からない。演説筆記は残存しない。遊説記事が掲載されている『立憲改進党々報第21号』(1893年12月発行)に、「和協の大意」と題した党大会演説筆記がある。
☆田中正造の憲法観が独特な口調で語られている。眼目と思われる部分を抜粋する。明治立憲体制とは何か。
◎諸君と共に論じて見なければならぬのは、憲法的の動作である。
◎日本の中で何が一番進歩して居るかと云へば、不完全ながらも矢張真誠なる民党が憲法的動作に熟(ナ)れて居る。
◎政府は如何にも憲法的動作と云ふものに就ては御不熟(オフナ)れでござります。
(『立憲改進党々報第21号』、『田中正造全集第二巻』106頁)
☆次のような主張もある。初期議会期の藩閥政府批判である。
◎六萬の官吏の中、憲法の下調べに従事した者が何人ある。枢密院を始めとして百人とはないのである。
(『田中正造全集第二巻』107頁)
◎政府は、二十三年帝国議会の開けるまでは、専制政府、圧制政府の飯を喰って居った。
(前掲書108頁)
◎腐敗の原因と云ふものを調査せなければ、和衷協同の実が挙らない、腐っては、和衷協同は出来ない。
(前掲書109頁)
◎今の政府は藩閥政府なり、薩長政府なり、藩閥政府を倒して、責任ある政府を造らなければならぬ。
(前掲書112頁)
☆反骨稜々たる政談演説である。
☆1893(明26)年11月の田中正造の日記に、木更津方面遊説の記述が残されている。そこには「和衷協同」(『全集第九巻』364頁)、「撞着ノ和協」、「二十三年六万」(同書365頁)、「憲法的動作」、「自由と和協」(同書366頁)と記されている。党大会演説と同様の政論が房総遊説でも語られたと考える。
☆前述したように、11月9日から11月13日まで田中、島田、的場、安田は房総半島南部を演説旅行した。
◇11月 9日、木更津町演説会、懇親会、聴衆1900人(現木更津市)
◇11月10日、岩井村演説会、懇親会、聴衆1300人(現南房総市)
◇11月11日、吉尾村演説会、懇親会、聴衆1500人(現鴨川市)
◇11月12日、東条村演説会、懇親会、聴衆1515人(現鴨川市)
◇11月13日、北条町演説会、懇親会、聴衆1880人(現館山市)
☆筆者愛用の電子辞書に依ると「和衷協同」とは、心を合わせて共に仕事をすることである。初出は大日本帝国憲法発布の勅語である。
☆1893(明26)年2月10日に、和衷協同の詔勅が出された。『原敬日記』に次のような記述がある。
◎去十日(2月10日)詔勅あり、和衷協同を命ぜらる。
◎陸奥大臣は、是れは伊藤の発案なり、妄りに批評を試むる勿れと注意したり。
(『原敬日記第二巻』乾元社80頁~81頁)
☆「陸奥」は陸奥宗光(外相)、「伊藤」は伊藤博文(首相)である。原敬(通商局長)の日記は正確で透徹している。
☆『原敬日記』は、本人の遺言を破って御子孫が第2次大戦後、公刊に踏み切った。翻刻版と影印本の2種類が刊行され、近代史研究の基本図書である。房総の民権家の安田勲(立憲改進党→進歩党→憲政本党)や板倉中(自由党→立憲政友会)も登場する。
☆同年の田中正造についての先行研究を批判的に検討した労作に、赤上剛氏の「『和協の詔勅』と田中正造」(『田中正造と足尾鉱毒事件事件研究』vol.15-2009所収)がある。同誌は当館架蔵である。
☆前掲の『自由民権運動と立憲改進党』には、1894(明27)年4月時点における、党員数1000人以上の県が一覧表になっている。①栃木県、3,215人 ②宮城県、2,712人 ③三重県、2,634人 ④静岡県、2,426人 ⑤長野県、1,419人 ⑥千葉県、1,319人 ⑦茨城県、1,225人(『立憲改進党々報第29号』)
☆田中正造の地元の栃木県が最も多く、党勢拡張が著しい。1884(明17)年4月時点の栃木県の立憲改進党員数は148人で、全国4番目であった。
☆千葉県の立憲改進党員数も非常に増加した。1884(明17)年4月時点の千葉県の立憲改進党員数は36人で、全国13番目であった。10年で約40倍に増加し、全国順位は6番目になった。
☆安田勲は当時、どのような演説をしていたのだろうか。『立憲改進党々報』から演説記事を書き抜く。「 」は演題、( )は『立憲改進党々報』の号数。
・1892(明25)年
◎11月21日、東京府厚生館、安田勲演説「内閣と政党の関係」(1号)
・1893(明26)年
◎ 1月15日、神奈川県髙座郡藤沢駅国府屋、安田勲演説(3号)
◎ 1月20日、神田錦輝館、安田勲演説「元勲内閣に望む」(4号)
◎ 1月21日、浅草鷗遊館、安田勲演説「元勲内閣に望む」(4号)
◎ 1月22日、神田錦輝館、田中正造演説「一銭一厘も減する能はずとは何の謂乎」(4号)
◎ 1月30日、東京府下谷区上野上広亭、安田勲演説(4号)
◎ 2月19日、千葉県野田町西光院、安田勲演説「内閣と政党の関係」(6号)
◎ 3月12日、千葉県第2区代議士の狩野揆一郎埋葬式、安田勲吊辞(7号)
◎ 6月26日、富山県富山市諏訪座、安田勲演説「立憲政治の効用」(12号)
◎ 6月27日、富山県蠣波郡出町眞光寺、安田勲演説「代議政と政党」(13号)
◎ 7月27日、静岡県沼津町中村座、安田勲演説「輿論の勢力」(14号)
◎ 7月28日、愛知県豊橋駅朝倉座、安田勲演説「代議政治」(14号)
◎ 7月31日、岐阜県高須町養蚕場、安田勲演説(15号)
◎ 8月 2日、岐阜県武儀郡関町千歳座、安田勲演説(15号)
◎ 8月22日、千葉県下総八幡来唱寺、安田勲演説(16号)
◎ 8月27日、千葉県佐倉町米新楼、安田勲演説(17号)
◎ 8月28日、千葉県成田町成田館、安田勲演説(17号)
◎ 9月27日、三重県伊賀上野町菅原座、安田勲演説「代議政治と政党」(18号)
◎11月 4日、神田錦輝館、安田勲党大会参加、田中正造演説「和協の大意」(20号・21号)
◎11月 5日、神田錦輝館、安田勲演説「政党論」(20号)
◎11月 9日、千葉県木更津町鈴木座、安田勲、田中正造演説(21号)
◎11月10日、千葉県岩井村、安田勲、田中正造演説、(21号)
◎11月11日、千葉県吉尾村、安田勲、田中正造演説(21号)
◎11月12日、千葉県東条村鏡忍寺、安田勲演説(21号)
◎11月13日、千葉県北条町吉田楼、安田勲、田中正造演説(21号)
・1894(明27)年
◎ 1月 2日、京橋区築地、立憲改進党事務所、安田勲新年会に参加(24号)
◎ 6月10日、千葉県流山町、田中正造演説「内治を改良し国権の伸張に及ぶ、附第六議会の報告」(30号)
☆1893(明26)年の安田勲は東奔西走であった。
(2014年4月)
☆『立憲改進党々報第27号』に、一つだけ安田勲の長文の政論が掲載されている。『鴨川市史』も『千葉県史』も、安田の政論について記述がないので、新史料の紹介ということになるかもしれない。
☆論題は「自由党と解散の理由」で、自由党の変節を厳しく批判している。段落毎に検討する。( )と句読点は筆者。
◎自由党は、第四議会の開会以前に於て、已に軟化の萌芽を発し、第五議会に其形体を顕はし、総選挙の時に於て、全く政府党たるの實を示せるを以て、第六議会に於ては、公然政府と提携するならんとは、我も人も等しく想像する所なりしに、何事ぞ、自由党は、近来頻りに強硬を粧ふたる論説を其機関新聞紙上に掲載し、以て政府に抗抵せんとするの状を示すこと。
(『立憲改進党々報第27号』1894年4月22日発行)
☆安田勲は1890(明23)年の第1回総選挙に当選し、第2回総選挙では自由党の加藤淳造に敗れた。1894(明27)年3月の第3回総選挙では、自由党の佐久間慎吾に勝って再び当選した。この政論を発表した時は議員であった。
☆前述したように、1893(明26)年11月から12月にかけての第5議会では、自由党の星亨(衆議院議長)が議員を除名された。
☆第3回総選挙の後、衆議院の第6議会は5月12日に開会したが、6月2日には解散した。内閣は第2次伊藤博文内閣(元勲内閣)である。大変目まぐるしい。7月16日に日英通商航海条約に調印し、8月1日に清国に宣戦布告した。
☆総選挙と解散の変転を整理しておく。
◎1890(明23)年 7月 1日・・第1回総選挙
◎1891(明24)年12月25日・・解散(1年5ヵ月後)
◎1892(明25)年 2月15日・・第2回総選挙
◎1893(明26)年12月30日・・解散(1年10ヵ月後)
◎1894(明27)年 3月 1日・・第3回総選挙
◎1894(明27)年 6月 2日・・解散(3ヵ月後)
(『原敬日記』、『世外井上公傳』)
☆第4回総選挙が実施されるのは、3ヵ月後の9月1日である。
☆衆議院の解散については、明治憲法の第7条(解散権)、第44条(貴族院の同時停会)、第45条(5ヵ月以内の招集)に規定がある。解散権の乱用を制限する条文がない。
☆井上馨は元勲内閣の内務大臣であった。『原敬日記』には、驚く程しばしば井上馨が登場する。服部之総(ハットリ・シソウ)著『明治の政治家たち(下巻)』(岩波新書)は、井上馨(の妻)と原敬(の妻)の姻戚(母子)関係について記述している。
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☆5月7日(水)はいすみ市の民権家、井上幹(イノウエ・ミキ)の命日である。井上は1853(嘉6)年6月6日に生まれ、1886(明19)年5月7日に32歳で夭折した(墓誌、『憲政功労者銘記』)。
☆弊館は毎年5月7日を、民権学校の薫陶学舎に因んで「薫陶忌」と呼び顕彰する。
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☆第2回総選挙(千葉県第8区)に当選した自由党の加藤淳造(医師)は、星亨除名問題にどのように対処したか。硬骨漢振りを示す記事が残されている。
◎衆議院議長星亨氏は取引所法案に関して当業者と待合茶屋に密会し之が通過に力を尽したるの報酬として大坂株式取引所の顧問に聘せらる。
◎(11月)30日小林、長谷場、加藤淳造の三氏を総代として党議変更の議を板垣総理に致さしめ、別に嘉悦氏をして星議長に向て辞職を勧告せしめたり。
◎(12月)1日前十時を以て左の十氏も亦脱党届を呈出せり。(中略)高梨正助、加藤淳造。
(『立憲改進党々報第21号』1893年12月5日発行)
☆高梨正助は夷隅・長柄・上埴生郡(千葉県第6区)選出の自由党代議士である。
☆自由党の内部対立が『立憲改進党々報』に記載されたのである。同じ頃の『自由党々報第50号』には、加藤淳造や高梨正助の「脱党届」に関する記述はまったく無い。
☆『板垣退助君傳記第3巻』(原書房)には、「排星派」の星亨議長処分を求める意見書についての記述がある。加藤淳造も登場する(同巻509、510頁)。
☆加藤淳造は自らの進退をかけて、星亨の政治倫理を糾弾したと言えるだろう。
☆代議士時代の加藤淳造と高梨正助の壮挙は、1893(明26)年1月の「女権回復請願の議院請求」にも見ることができる。次のような請求書の要求者に名前を連ねている。句読点と( )は筆者。
◎我刑法第三百五十三条(姦通罪)の如きは、実に女子の人権を蹂躙したるものと云はざるを得ず(中略)、我衆議院は人民権利の擁護者を以て自認するものなれば(中略)、本件(刑法の一部改正)を院義に付すべきを要求す。明治二十六年一月、要求者、千葉禎太郎、・・加藤淳造、・・石坂昌孝、・・高梨正助・・。衆議院議長 星亨殿。
(『女学雑誌337号』1893年2月、『武相自由民権史料集第五巻』43頁)
☆戦前の刑法第353条(改正後183条)は、女性の人権を蹂躙する法令であった。
☆要求者31名の議員のうち、千葉禎太郎、加藤淳造、高梨正助は千葉県選出の自由党代議士である。このような史実によって、房総の民権家のイメージは随分救われている。
(2014年5月)