2013年



☆新年は1月5日(土)から開館しております。御来館を心よりお待ち申し上げます。


☆プロバイダーのサービスで、年頭にHPのディスク容量が大幅に改善されました。15年振りにHP「房総自由民権資料館」(1998年10月11日開設)の再構築を始めました。還暦を過ぎての手習いですが、新たに撮影した写真を順次アップロードする予定です。

(2013年01月)



☆明石吉五郎の七言絶句(追悼故井上幹君、1886年、井上家文書)に訓読を付してみた。千葉卓三郎を追悼した深沢権八の漢詩(色川大吉著『明治の文化』岩波書店1970年)を思い出す。

◎漢詩
 故園紅葉錦雲悲
 故園の紅葉 錦の雲も悲し
 山郭秋闌君不帰
 山郭 秋闌(タケナワ)にして君帰らず
 一世回首幽瞑夢
 一世に首(コウベ)を回(メグ)らせば 幽瞑なる夢
 遊魂猶是自由飛

 遊魂 猶(ナオ)是(コレ)自由に飛ぶ

☆茂原市立美術館・郷土資料館の図録『企画展・千葉県の自由民権運動』(2004年)は、第二句(承句)を「山郭秋蘭君不帰」と解説している。「秋蘭(シュウラン)」ではなく、「秋闌(アキタケナワ)」であろう。

☆第四句(結句)の「遊魂(ユウコン)」は肉体を遊離した「魂魄(コンパク)」である。深沢権八は、千葉卓三郎追悼の七言律詩で「英魂(エイコン)」という語彙を使用している。(前掲書128頁)

☆誤読や誤植は避けられない。碩学の名著『明治の文化』(岩波書店1970年)にも、かつて誤りがあった。深沢権八の七言律詩「悼千葉卓三郎」の第七句は、次のように紹介されている。

◎悼殺英魂呼べど起たず
(前掲書128頁)

☆「悼殺(トウサツ?)」では何が何だか分からない。

☆26年後、色川大吉著作集第五巻『人と思想』(筑摩書房1996年)では、次のように訂正された。何の注記もなかったが。

◎悼哉英魂呼べど起たず
(同書344頁)

☆「悼哉(イタマシイカナ)」でやっと詩句の意味が理解できた。

☆明石吉五郎は木更津市出身で、薫陶学舎の民権派漢学教師『嶺田楓江』の著者である。夭折した民権家の井上幹(いすみ市)の同志であったのだ。


☆もう一つの資料は「減○請願」の小高純一(大多喜町)書簡、宛先は齊藤自治夫(茂原市)、発見者は筆者であった。

☆文面から判断すると減租建白の1887(明治20)年11月頃か?(拙著『底点の自由民権運動』岩田書院2002年132頁) 

☆それとも、減租請願運動の1884(明治17)年か?(『千葉県の歴史、資料編、近現代1、政治行政1』千葉県1996年422頁)

◎書簡
過日ハ欠敬多罪
御海容可被下候、陳者
其節御協議申
候例ノ減○請願書
弊地ニ於テ起草
仕候間御参考迠二差
上申候、御掌握ヲ
乞、○弊地ニ於テハ最
早出京委員モ相定リ
本月十五日迠ニハ是非
上京致ス積リ
御錦地ハ申迠モ
無之候得共御手配
如何ニ候哉、弊地
同様本月十五日頃ニ
上京相成候様御
尽力被成下度
望希候也
書外他日面語ニ
譲ル
出張先ニテ認メ乱文
御判読ヲ乞
小高純一
齊藤盟兄

☆発見時は、封筒も日付もない書簡であった。

☆保安条例によって、齊藤自治夫も小高純一も1889年2月11日の憲法発布恩赦まで、東京を退去させられた。薫陶学舎の嶺田楓江も『海外新話』の非合法出版によって、1851(嘉永4)年に三都所構(追放)になった経験の持ち主であった。

☆房総半島の反骨民権の系譜である。

☆楓江先生の『海外新話』について、宮地正人氏は次のように指摘している。

◎知識人の危機感と民衆が接点を持ち、火花を激しく散らす時、そこにすぐれた読み本形式の史伝が誕生する。漢詩人嶺田楓江の『海外新話』・『海外新話拾遺』がそれであった。
(『日本近代思想体系13歴史認識』岩波書店1991年513頁)

◎武士層を含む民衆の多くはアヘン戦争とその意味を本書とその挿絵から学び取ったのであり、吉田松陰も、久里浜での米国国書受領を「海外新話中に図有」(兄宛書簡)と憤激する。
(同上)

☆『海外新話』は『日本近代思想体系13歴史認識』に抄録された。嶺田楓江は舞鶴市出身であるが、顕彰碑(当館パネル展示)は千葉県内に三カ所ある。
①嶺田楓江寿碑(1881年建碑、木更津市)

②楓江嶺田先生碑(1912年建碑、茂原市)
③嶺田楓江先生墓(1913年建碑、いすみ市)

(2013年02月)




☆明石吉五郎の七言絶句について、浅学を顧みず更に私見を述べる。
訓読は当館。
 
◎故園紅葉錦雲悲
 故園(コエン)の紅葉 錦(ニシキ)の雲も悲し
 山郭秋闌君不帰
 山郭(サンカク) 秋闌(タケナワ)にして 君帰らず
 一世回首幽瞑夢
 一世(イッセイ)に首(コウベ)を回(メグ)らせば 幽瞑(ユウメイ)なる夢
 遊魂猶是自由飛
 遊魂(ユウコン) 猶(ナオ)是(コレ) 自由に飛ぶ

☆結句の「遊魂(ユウコン)」の表記は、明治期の漢詩ではほとんど見かけない。『日本国語大辞典』(小学館)は『菅家文草』にあると記す。

☆「遊魂」は体を離れて浮遊する魂である。「ユウコン」の音では、「雄魂」の表記を使用した例が『喜多方市史』に一つだけ紹介されている。訓読は当館。

◎雄魂共謀回天業
 雄渾(ユウコン) 共に謀(ハカ)る回天(カイテン)の業(ワザ)
(『喜多方市史6(中)近代資料編Ⅴ』892頁)

☆「雄魂」は雄々しい魂のことである。横山信六(福島県出身)への弔詩の結句である。1886年10月の吟であるから、上掲の明石吉五郎の弔詩と同年である。横山は加波山事件で投獄され、同年9月3日に東京で獄死した。井上幹は出獄後の病死である。

☆漢詩の表現に、夷隅事件と加波山事件のかすかな共通項を感じる。

☆杜甫の漢詩に「遊魂」の語彙を使用した例が一首ある。757年の作で、楊貴妃の死去を述べた七言歌行(カコウ)詩である。

◎明眸皓歯今何在
 明眸(メイボウ)皓歯(コウシ) 今(イマ)は何(イズ)くにか在(ア)る
 血汚遊魂帰不得
 血汚(ケツオ)の遊魂(ユウコン)は帰(カエ)ること得(カナ)わず
(黒川洋一編『杜甫詩選』岩波文庫1991年127頁)

☆「明眸皓歯」は生前の楊貴妃を謳い、「血汚遊魂」は逝去後の楊貴妃を表現している。757年は五言律詩の「春望」が作られた年でもあった。同書は次のように現代語訳する。

◎ああ、あの輝くひとみと白い歯のお方はいまどこにおられるのであるか、
 血に汚されたそのお方の魂はさまようてまだ落ち着くこともならずにおられる。
(黒川洋一編『杜甫詩選』岩波文庫1991年128頁)

☆漢詩の訓読は私たちの世代にとっても難しい。吉川幸次郎の『漱石詩注』は愛読書であるが、民権家の漢詩鑑賞の深化にほとんど結びつかない。しかし課題として残されているので、愚生の「終活」の事始とする。

☆手許には三種類の『漱石詩注』(新書・文庫・全集)がある。適宜、引用文献を記す。

◎恐有羇魂夢旧苔
 恐らくは羇魂(キコン)の旧苔(キュウタイ)を夢む有らん
(『漱石詩注』岩波文庫2002年117頁)

☆1910年10月4日の漱石の作である。吉川詩注に「羇魂」は「さまよえる魂」とある。楚辞や杜甫の例を挙げ、「漢詩文における魂の字は、亡霊ではなく、生人のそれである」と指摘する。

☆「遊魂」は生きているか?

◎擬将蝶夢誘吟魂
 蝶夢(チョウム)を将(モ)って吟魂(ギンコン)を誘(イザナ)わんと擬(ギ)し
(『漱石詩注』岩波文庫2002年250頁)

☆1916年9月24日の漱石の作である。吉川詩注は「吟魂」を「詩人の魂」と説き、荘子の「蝴蝶の夢」を例示する。漱石のこの詩句は、明石吉五郎の転句にある「夢」のイメージを理解するときに役立つ。後述する。

☆房総の民権家で漢詩集を残した弁護士に板倉中がいる。板倉の漢詩集『春峯詩縞』は当館所蔵である。訓読は当館。

◎蕭条孤影弔英魂
 蕭条(ショウジョウ)たる孤影(コエイ) 英魂(エイコン)を弔(トムラ)う
(『春峯詩縞』執中館1934年48頁)

☆「蕭条」はもの寂しいという意味であり、「孤影」は板倉中の自画像である。板倉が旧師の大井憲太郎の墓碑(東京都内)に「展墓」したときの七言絶句である。

☆大阪事件の裁判の折、板倉は旧師の弁護人を務めた。1923年12月、暗殺された原敬の一周忌の参列者は「集者如雲」であった。しかし、旧師の大井憲太郎は「墓前余一人」と付記されている。「一人」は板倉である。

☆「英魂」はすぐれた人の魂を意味する。

☆前述したように、深沢権八は千葉卓三郎への弔詩において「英魂」の語彙を結句で使用した。


☆夏目漱石には「夢魂」という語彙を使用した七言律詩もある。

◎夢魂回処気令令
 夢魂(ムコン)回(メグル)る処(トコロ) 気(キ)令令(レイレイ)たり
(『漱石全集第十八巻』岩波1995年100頁)

☆一海(イッカイ)知義氏の詩注は記す。「夢魂」は「夢」とほぼ同義である。初出の雑誌『時運』には「梵魂」とあり、誤植を指摘する。「梵(ボン)」を「梦(ユメ)」に訂正している。「処」は「時」と同義である。「令令」は、「すがすがしく涼しい」という意味である。

☆漱石の二十歳以前の作と注記されている。(1883年作か?)

☆「魂は飛ぶ」という詩句が、漱石の房総紀行である『木屑(ボクセツ)録』(1889年)の中にある。

◎魂飛千里墨江湄
 魂(タマシイ)は飛ぶ 千里(センリ) 墨江(ボクコウ)の湄(ホトリ)
(『漱石全集第十八巻』岩波1995年137頁)

☆一海知義詩注は「墨江」を隅田川の中国的呼称と説く。「湄」は水辺である。

☆東金市から銚子市に至る途次の詩句には次のようなものがある。漱石はこの頃満22歳であった。

◎風行空際乱雲飛
 風は空際(クウサイ)を行きて 乱雲(ランウン)飛び
(『漱石全集第十八巻』岩波1995年132頁)

☆「空際」は空のかなた、「乱雲」は乱れ散る雲である。筆者の銚子市外川町在住の頃の拙句を一句だけ記す。

◇薫風や天球上に雲は飛び   凡一
 クンプウヤ テンキュウジョウニ クモワトビ   ボンイツ

☆薫風上天球雲飛。「薫風」が季語だが、殆ど七言の漢詩であった。
 
☆知らず識らずのうちに、漱石の漢詩をパロディー化していたようである。漱石は『木屑録』の旅行中、鴨川市の誕生寺も訪れた。

☆北村透谷の「三日幻境」には、「わが遊魂」の表現があり、同時代における「遊魂」という語彙の数少ない用例である。

◎屋外の流水、夜(ヨ)の沈むに従ひて音高く、わが遊魂を巻きて、なほ深きいづれかの幻境に流し行きて・・・。
(勝本清一郎校訂『北村透谷選集』岩波文庫1970年164頁)
(島崎藤村編『北村透谷集』岩波文庫1927年99頁)

☆「三日幻境」の「遊魂」は、まだ生きて(彷徨って)いる人間の魂である。島崎藤村編の『北村透谷集』は、偶然古書店で購入した。150円であった。


☆結句の鑑賞の最後は「自由飛」の部分である。「自由に飛ぶ」と訓読したが、或いは「自由へ飛ぶ」と読んだほうが作者の真情に近いかも知れない。明石と井上幹の交友に関する電文が残っているので、後日紹介する。

☆「自由」を謳った民権家の漢詩は多い。玉水嘉一(茨城県筑西市出身)の遺墨に、琴田岩松(福島県三春町出身)の七言絶句を謹書した掛軸があり、かつて大原町(現いすみ市)文化センターにおける民権資料展で展示したことがある。掛軸は向山寛夫氏(故人)から貸与されたものである。

◎囚窓幾唱自由歌
 奈此済民良策何
 今日不憂人称盗
 断頭場裏冤魂多
(野島幾太郎『加波山事件』宮川書店1900年349頁)

☆原著は漢詩のみで、訓読は付記されていない。東洋文庫の『加波山事件』は原詩を記載しないで、編者の訓読のみを記述している。(  )のカタカナ当館。

◎囚窓(シュウソウ) 幾(イク)たびか唱(トナ)う 自由(ジユウ)の歌(ウタ)
 いかんせん民(タミ)を済(スク)う 良策(リョウサク)はなんぞ
 今日(コンニチ) 憂(ウレ)えず 人(ヒト)の盗(トウ)と称(ショウ)するを
 断頭場裏(ダントウジョウリ) 冤魂(エンコン)多(オオ)し
(林基・遠藤鎮雄編『加波山事件』東洋文庫1966年349頁)

☆東洋文庫だけの読者は、原詩の心情を誤読する虞がある。

☆3年後に出版された『東陲民権史』(養勇館1903年375頁)に同首がある。一字だけ違う異稿である。転句が異なる。

◎今日不嫌人称盗
(関戸覚蔵『東陲民権史』養勇館1903年375頁)

☆「今日(コンニチ) 嫌(イト)わず 人(ヒト)の盗(トウ)と称(ショウ)するを」と訓読してみた。『加波山事件』は「不憂」とあり、『東陲民権史』は「不嫌」とある。平仄(ヒョウソク)は如何。

☆玉水嘉一は加波山事件裁判で無期徒刑になり、1894年の特赦まで服役した。神道無念流の剣豪で居合の名手であった。茨城県下館町(現筑西市)で、戦後の1949年2月まで生きた。青年の琴田は刑死した。

☆玉水や富松の墓碑のある筑西市妙西寺は、銚子市在住の頃に家族と一緒に訪れた。墓碑は巨大である。「冤魂(エンコン)」の霊気を示すように・・・。

☆東洋文庫の遠藤鎮雄氏の「冤魂多(オオ)し」という訓読で良いのだろうか。「冤魂多(タ)なり」のほうが厳格である。

☆夏目漱石の漢詩208首(『全集』1995年版)の中には、「自由」という表現の見られるものが二首ある。

◎撫魔石印自由成
 石印(セキイン)を撫魔(ブマ)して自由に成る
(『漱石全集第十八巻』岩波1995年345頁)

☆1916年8月14日の作である。『明暗』執筆中の七言絶句である。この場合の「自由」は、「自在」、「思うままに」というような意味であろう。

◎胸次欲攄不自由
 胸次(キョウジ) 攄(ノ)べんと欲して 自由ならず
(『漱石全集第十八巻』岩波1995年362頁)

☆同年、8月30日の作である。辛亥革命の志士の黃興に、書を贈られたときの七言律詩である。一海詩注は、詩句の「不自由」を「思うとおりにゆかぬ」と説く。

☆しかし、亡命中(アメリカ→日本→上海)の中国人指導者の境遇を考慮すれば、或いは「政治的自由」、「精神的自由」の概念を含むのかも知れない。

☆中江兆民の『民約訳解』(仏学塾1882年)はすべて漢文である。ルソーの「自由権」の概念を第8章「人世」において、「人義之自由(ジンギノジユウ)」、「保有之権(ホユウノケン)」、「心之自由(シンノジユウ)」と漢訳している。

☆原書の
Du Contrat Social (デュ・コントラ・ソシアール)では、「人義之自由」は liberté civile (リベルテ・シビル)、「保有之権」は propriété (プロプリエテ)、「心之自由」は liberté morale (リベルテ・モラル)である。(拙著『底点の自由民権運動』岩田書院2002年195頁)

☆小堀桂一郎氏の『日本人の「自由」の歴史』は労作である。日本における「自由」の術語の初出を『律令』の「戸令第八」(701年)としている。

◎夫得自由
 夫自由することを得む

(『日本人の「自由」の歴史』文芸春秋2010年28頁)

☆祖父母と父母がいない場合は、夫の一存で妻を離縁してよいという意味である。

☆同書は、中国における「自由」の術語の初出は『後漢書』(432年頃成立)であるとしている。

◎威服自由
◎百事自由
(『日本人の「自由」の歴史』文芸春秋24頁)

☆同書は、白居易の「閑適詩篇」から「自由」の術語を三例取り上げている。

◎進退得自由
 進退自由を得たり
◎拘牽不自由
 拘牽(コウケン)せられて自由ならず
◎楽在身自由
 楽は身の自由にあり
(『日本人の「自由」の歴史』文芸春秋54頁、55頁、56頁)

☆白居易以前の漢詩にも、「自由」の述語の例はある。後漢時代の漢詩「孔雀東南飛(クジャクトウナンニトブ)」にある。

◎汝豈得自由
 汝(ナンジ)豈(ア)に自由なるを得んや
(お前に勝手は許しません)
(松枝茂夫編『中国名詩選』岩波文庫210頁)

☆現代中国の漢詩に現れた「自由」の述語は、吉川幸次郎の『続人間詩話』に紹介されている。毛沢東の「長沙(チョウサ)」の詩句である。

◎萬類霜天競自由
 万(ヨロズ)の類(モノ)は霜の天(ヒ)に自由を競う
(『続人間詩話』岩波新書1961年172頁)

☆吉川は、毛詩の自然観について「大地はあるときは沈み、あるときには浮かびあがるというのは、中国の伝統的な詩想」と指摘している。

☆吉川は同書で、中江兆民の漢文について称賛した。

◎幕末から明治へかけての日本人の漢文は、西洋の言語と文明にふれることによって、それまでにはない英得の気を、ますものがある。・・・兆民のルソー民約論の漢訳は、まさしくそうであった。
(『続人間詩話』岩波新書155頁、156頁)

☆青年時代の明石吉五郎[1863-1944]は、「遊魂猶是自由飛」と表現し、夏目漱石[1867-1916]は「魂飛千里墨江湄」と表現した。

☆中国の三国時代(魏)の女性詩人、蔡琰(サイエン)[162-239頃]は「悲憤詩」に次の詩句を残した。

◎魂神忽飛逝
 魂神(コンシン) 忽(タチマチ)ち飛逝(ヒセイ)す
(魂はたちまちどこかへ飛んで行ってしまうのでした)
(松枝茂夫編『中国名詩選』岩波文庫336頁)

☆蔡琰は乱世の渦中で、匈奴の王との間に二児を出産した博学の漢詩人である。再び魏に帰郷し、別の男性に嫁した。蔡琰(サイエン)の長詩は文字通り名詩である。中国でも日本でも、魂は飛ぶ。男女の如何にかかわらず。

☆1885年11月19日午前に投函された明石吉五郎の葉書(井上家文書)は以下の通りである。まるで電報のような文面である。(  )の現代表記は当館。

ソノゴ ハ ヲモハス コブサタヲキハメ タリシニ ソナタサマ ニハ
(其の後は思はずご無沙汰を極めたりしに、其方様には)

イツゾヤ ヲモハヌ ヲンコヽロ ヲ イタメサセラレ シ ヲ
(何時ぞや思はぬ御心を痛めさせられしを)

キヽテ ヨリ ハ タヾ 一日モハヤク ジユウノ ヲンミ ト
(聞きてよりは、只一日も早く自由の御身と)

ナラレマホシク アサユウ アンジ ヲリ ソロ トコロ サキゴロ
(成られまほしく朝夕案じ居り候処、先頃)

イヨイヨ クルシキバショ ヨリ ヲンイデ ナサレ シコト ヲ
(愈々苦しき場所より御出で為されし事を)

キヨウシモ ハジメテ ショウチ イタシ ソロ ヨロコビ ノ
(今日しも初めて承知致し候、喜びの)

アマリ トリアヘズ ヲン ジユウ ヲ ヲンイワイ マウシ ソロ
(余り取り敢へず御自由を御祝い申し候。)

☆葉書の宛先は「チバケン カヅサ国 イスミゴヲリ カミフセムラ イノウエ、ミキ サマ」である。差出人は「東京ミタ ケイヲウギシク アカシ、キチゴロウ」「明治十八年十一月十九日午前発ス」とある。受付局の印は「東京・一八・一一・一九 三田」、配達局の印は「上総・夷隅・一一・二一 長志」である。

☆明石の葉書にある「自由の御身」とは、不当に監禁、拘束されないということである。「身体の自由」という概念に相当するだろう。

☆明石は、出獄した同志の井上幹の病状を気遣っている。しかし井上は半年後に急逝した。

(2013年03月)


☆明石吉五郎の弔詩の評釈を続ける。今月は転句(第3句)である。
 
◎一世回首幽瞑夢
 一世(イッセイ)に首(コウベ)を回(メグ)らせば 幽瞑(ユウメイ)なる夢(ユメ)

☆「一世」は「イッセイ」と読むべきか、それとも仏教風に「イッセ」と読むべきか。愛用の電子辞書(精選日本国語大辞典)には両様の例が記載されている。意味は「一生」とか「当世」とある。

☆夏目漱石の『吾輩は猫である』に「一世の大著述なる仏国革命史」(『漱石全集第1巻』岩波書店1993年19頁、『吾輩は猫である』角川文庫1962年25頁)の用例はあるが、漢詩208首(全集第18巻)には「一世」の語は見えない。

☆『春秋左氏伝』の「昭公元年」や『史記』の「留候世家」に用例がある。

☆漢詩では後漢の辛延年(シン・エンネン)の作に「一世」の用例がある。

◎一世良所無
 一世(イッセイ)良(マコト)に無(ナ)き所(トコロ)
(松枝茂夫編『中国名詩選(上)』岩波文庫200頁)

☆同書には「世にまたとないあでやかさ」と現代語訳されている。

☆『文選』の漢詩からも例証する。

◎人生処一世
 去若朝露晞
(新釈漢文大系14『文選(詩篇)上』明治書院1963年274頁)

☆同書の訓読は以下の通りである。

◎人(ヒト)生(ウ)まれて一世(イッセイ)に処(オ)るも
 去(サ)ること朝露(チョウロ)の晞(カワ)くが若(ゴト)し
(前掲書274頁)

☆通釈は次の通りである。

◎人と生まれてこの世に生存しても
 そのはかなさは草葉に宿る朝露のかわき易きが如きものである。
(前掲書274頁)

☆急逝した知人を悼む曹子建(ソウ・シケン)の漢詩である。子建は三国時代の魏の曹操(ソウソウ)の息子で、文帝の実弟である。同首には「孤魂」という語が霊魂の意味で使用されている。


☆「回首」とか「回頭」という表現は常套句なのか、漱石の漢詩や民権家の漢詩に多数の用例がある。一首だけ取り上げる。加波山事件で無期徒刑になった天野市太郎(福島県三春町出身)の七言絶句が優れている。空知監獄の獄中作である。

◎回首壯遊已十年
 悠々往事似雲烟
 寸心頻動当時感
 羈夢尚迷常陸天
(『加波山事件』宮川書店1900年364頁)

☆訓読は東洋文庫の『加波山事件』(当館所蔵)にある。

◎首(コウベ)を回(メグ)らせば 壯遊(ソウユウ)已(スデ)に十年(ジュウネン)
◎悠々(ユウユウ)たり 往事(オウジ)雲烟(ウンエン)に似(ニ)たり
◎寸心(スンシン)頻(シキ)りに動(ウゴ)く 当時(トウジ)の感(カン)
◎羈夢(キム)尚(ナオ)迷(マヨ)う 常陸(ヒタチ)の天(テン)
(『加波山事件』東洋文庫1966年364頁)

☆「首を回らせば」は、振り向くことである。首はあたまであり、くびではないと吉川幸次郎は説く。(『漱石詩注』岩波新書1967年63頁・129頁)「壯遊」は壮志を抱いて遠くまで旅することであり、「寸心」は自分の心をへりくだっていう語である。

☆「羈夢」は旅路の夢であろう。「常陸天」は加波山の山頂から仰いだ空かもしれない。獄中しばしば、夢に10年前の事件が現れたのではないかと推定した。

☆年長の幼馴染みの琴田岩松(従兄弟)は既に他界した。琴田岩松、横山信六、山口守太郎は1884年8月、千葉町の国吉楼で開催された自由懇親会に出席した。(拙著『房総の自由民権』崙書房1992年115頁)富松正安は安房の山中に潜伏した。

☆天野市太郎[1867-1933]の家庭環境と生涯について、『三春町史』(当館所蔵)は次のように記述する。

◎三春藩士(80石)の長男で、慶応3年の生まれ・・・三春正道館に学び、民権思想の洗礼を受けた。
(『三春町史第3巻近代1』1975年771頁)

☆映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督・藤沢周平原作)の主人公は、禄高50石の下級武士に設定され、戊辰戦争では幕府方で戦死した。天野の父は、戊辰戦争では新政府軍側で戦死した。

☆天野の父について、『加波山事件』は次のように記す。

◎天野市太郎氏の父は、大槻盤渓の高弟にして三春の藩士、録三百石を食む。維新の際、奥羽の戦争起るや、官軍の先鋒と為りて二本松を攻略し、運拙くして鋒鏑の間に斃れし也。
(『加波山事件』宮川書店1900年72頁)
(『加波山事件』東洋文庫1966年103頁)

☆「鋒鏑(ホウテキ)」とは「ほこさき」と「やじり」のことで、転じて武器や兵器を意味する。50石ではなく300石と記されている。300石ならば上級武士で「たそがれ清兵衛(真田広之)」の後妻になった「飯沼朋江(宮沢りえ)」の実家の禄高に近いと言える。

☆天野の詩才は、大槻盤渓の高弟であった父親譲りか?

☆東洋文庫には天野市太郎の写真が26章に掲載されている。宮川書店刊の原著では、天野の写真は巻頭にある。

☆『三春町史』(高橋哲夫執筆部分)は天野の没年を記していない。

☆墓碑は東京都の谷中霊園にある。筆者は「自由民権120年」のフィルドワークで一度訪れたことがある。墓石の隅に「天野一太郎」と小さく刻まれていた。没年は「昭和8年9月27日」であった。

☆天野は1894年10月3日に特赦で出獄した。(『東陲民権史』養勇館1903年400頁)

☆事実は小説よりも奇か?

☆井上幹を追悼する弔詩(詞)の作者は、木更津市出身の明石吉五郎である。奇しくも『三春町史』に下記の記述がある。(  )は筆者。

◎三春高等尋常小学校長 明石吉吾(五)郎 
 明治20年4月就職 明治21年5月退職
(『三春町史第3巻近代1』1975年237頁)

◎狐田小学校長兼任 明石吉五郎
 明治21年3月就職 明治21年6月退職
(『三春町史第3巻近代1』1975年243頁)

☆明石吉五郎[1863-1944]の家庭環境と生涯について、『木更津市史』は次のように記す。

◎文久3年明石吉右衛門の長男として誕生、家は代々農業、・・・少年の頃、嶺田楓江に師事し熱心に勉学にいそしんだ。
◎明治12年千葉師範学校に入学、・・・職を福島県に奉じ田村郡三春高等小学校長兼訓導となった。
(『木更津市史』1972年874頁)

☆井上幹の急逝の翌年、なぜ明石が三春町に転居したかは不明である。

☆「回首」ではなく「回頭」の語を使用した名詩に西郷隆盛の七言絶句がある。亡友の月照の十七回忌に作られた一首である。転句と結句のみ引用する。

◎回頭十有余年夢
 頭(コウベ)を回(メグ)らせば 十有余年(ジュウユウヨネン)の夢(ユメ)
 
◎空隔幽明哭墓前
 空(ムナ)しく幽明(ユウメイ)を隔(ヘダ)てて 墓前(ボゼン)に哭(コク)す
(日本史籍協会編『西郷隆盛文書』315頁)

☆一般的に「十有余年の夢」と訓読するが、或いは「十有余年も夢」と読んだ方が適切かもしれない。

☆隆盛と月照が錦江湾に入水したのは1858(安政5)年11月16日である。月照の十七回忌は1874(明治7)年であるから、隆盛は明治六年の政変で下野した後である。

☆明石吉五郎の転句は、西郷隆盛の転句と結句に用語がよく似ている。「回首」と「回頭」、「幽瞑」と「幽明」、そして共通する「夢」。

☆明石の「幽瞑」はかすかで暗いという意味だろう。西郷の「幽明」は冥土と現世ということである。

☆「幽冥」については、漱石の『吾輩は猫である』に次のような用例がある。
◎副意識下の幽冥界と僕が存在して居る現実界。
(『漱石全集第1巻』岩波書店1993年71頁)
(『吾輩は猫である』角川文庫1962年72頁)

☆明石吉五郎の転句の解釈で残る用語は「夢」である。夏目漱石、天野市太郎、西郷隆盛の「夢」については前述した。まだ登場していない李白と透谷の「夢」を読む。

☆李白から一例だけ引用する。

◎荘周夢蝴蝶
 荘周(ソウシュウ)は 蝴蝶(コチョウ)を夢(ユメ)み
 蝴蝶為荘周
 蝴蝶は 荘周と為(ナ)る
 一体更変易
 一体(イッタイ) 更々(コモゴモ)変易(ヘンエキ)し
 万事良悠悠
 万事 良(マコト)に悠悠たり
(『李白詩選』岩波文庫167頁)

☆現代語訳は次の通りである。

◎かの荘周は、夢の中で蝴蝶となり
 目覚めれば蝴蝶は、荘周だったのだ。
 一つのものが互いに変化しあい
 万事はまことに限りなく変化しつづけるのだ。
(『李白詩選』岩波文庫168頁)

☆荘子の「夢」解釈を、漱石は踏襲している。

◎蝴蝶夢中寄此生
 蝴蝶夢中 此の生を寄す
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波新書1967年123頁)
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波文庫2002年192頁)

☆同首の吉川詩注は「迷い且つ悟った」と伝統的な解説である。

◎古代の哲学者荘子は、夢に蝶となり、夢からさめると、再び人であった。人間であるのが本当のおれか、蝶であるのが本当のおれか、どっちも本当と、迷い且つ悟った。・・・荘子の世界に、此の人生をあずけよう。
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波新書1967年124頁)
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波文庫2002年193頁)

☆「民権漢詩」の鑑賞であるから、「夢」の最後はやはり透谷である。透谷の漢詩にも「夢」は表出されている。困惑するのは訓読に二通りあることである。当館所蔵の書籍から、両論並記する。

☆桶谷秀昭氏は次のように訓読し、「漢詩は夢の世界」、「夢の体験よりは虚構」と書いた。

◎入夢枕上神出没
 夢に入り枕上(チンジョウ)に神(シン)出没す
◎夢乎也惘々
 夢(ユメ)乎(カ)また惘々(モウモウ)
(『北村透谷』ちくま学芸文庫1994年7頁~15頁、単行本は1981年)

☆「惘々(モウモウ)」は「ボウボウ」とも読む。愛用の電子辞書(精選版日本国語大辞典)には、ぼんやりするさま、われを忘れるさまとある。

☆色川大吉氏は別様に訓読し、「透谷は松方不況のど真ん中を歩いていた」と書いた。

◎入夢枕上神出没
 夢に入れば枕上に神出没す
◎夢乎也惘々
 夢乎や惘々
(『北村透谷』東京大学出版会1994年9頁)

☆「富士山遊びの記憶」に記載された長詩全編の両氏の訓読に、多くの差異がある。浅学の筆者は、この点を詳細に比較検討した論考を読んだことがない。

☆自ら挑む余力もない。

☆どちらの訓読に軍配を上げるかではなくて、余り細かい点は気にせずに思い切って(今様に?)読むべきであると考えている。吉川幸次郎はそんな風に説いたように記憶する。

☆吉川ならばどのように訓読しただろうかという思いは残るが・・・。

☆念の為に、「三日幻境」に記載された俳句の「夢」も鑑賞する。

◎七年を夢に入れとや水の音    透谷
◎夢いくつさまして来しぞほととぎす   龍子(リュウシ)
(島崎藤村編『北村透谷集』岩波文庫1927年100頁)
(勝本清一郎校訂『北村透谷選集』岩波文庫1970年164頁)

☆「龍子」は八王子市の豪農民権家の秋山国三郎の俳号である。秋山は居合いの名人で刀剣に詳しく、義太夫もやり句集も残した。
   

(2013年04月)


☆5月は弔詩の承句と起句を評釈する。その後は更に「終活」を続け、房総の民権家の対外(アジア)認識について再考する。民権か国権か? 加藤陽子著『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書2002年)と『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社2009年)の批判的な検討を予定している。

☆明石吉五郎の弔詩の承句は次の通りである。

◎山郭秋闌君不帰
 サンカク アキタケナワニシテ キミカエラズ

☆「山郭」については、高校時代に杜牧(トボク)の七言絶句を学んだ。山沿いの村である。

◎水村山郭酒旗風
 スイソンサンカク シュキノカゼ
(松枝茂夫編『中国名詩選・下』岩波文庫1986年174頁)

☆同書の現代語訳には、「水辺の村にも、山ぎわの里にも、居酒屋の青い旗が風にはためいて」とある。

☆漢文の先生は研究熱心で、後に母校の教授に転出した。ギョロリとした大きな眼で、授業は楽しい時間だった。筆者のクラス担任の方は「酒旗風」に溺れ、アルチュウで急逝した。

☆「山郭」の風景は杜牧の七言絶句のように長閑である。いすみ市大原の井上家周囲に高山はない。平地の水田と里山である。しかし、「君不帰」。井上幹(ミキ)君はもうこの世にいない。

☆明石吉五郎と井上幹の関係は同門(師は嶺田楓江)と言うべきか、それとも同志と言うべきか。

☆「秋闌」の語法は漱石に用例がある。1910年10月17日の『日記』の稿である。

◎仰臥秋已闌
 ギョウガ アキスデニタケナワニシテ
 一病欲銀髭
 イチビョウ ギンシナラントホッス
(『漱石全集第18巻』岩波書店1995年269頁)
(『漱石全集第20巻』岩波書店1996年233頁)

☆同年10月18日の『日記』は次のように推敲された。

◎仰臥秋已闌
 ギョウガ アキスデニタケナワニシテ
 苦病欲銀髭
 ヤマイニクルシンデ ギンシナラントホッス
(『漱石全集第18巻』岩波書店1995年270頁)
(『漱石全集第20巻』岩波書店1996年235頁)

☆定稿で「秋闌」は削られた。

◎江山秋已老
 コウザン アキスデニオイ
 粥薬鬢将衰
 シュクヤク ビンマサニオトロエントス
(『漱石全集第18巻』岩波書店1995年264頁)
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波新書1967年75頁)
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波文庫2002年126頁)

☆漱石は1910年8月6日に修善寺へ静養に出かけて大吐血した。闘病中の俳句は秀句が多い。秋の句のみ引用する。

◎秋風や唐紅の咽喉仏       (9月7日)
 アキカゼヤ カラクレナイノ ノドボトケ
(坪内稔典編『漱石俳句集』岩波文庫159頁)
(『漱石全集第20巻』岩波書店1996年200頁)

◎秋の空浅黄に澄めり杉に斧    (9月12日)
 アキノソラ アサギニスメリ スギニオノ
(坪内稔典編『漱石俳句集』岩波文庫160頁)
(『漱石全集第20巻』岩波書店1996年202頁)

◎生残るわれ恥かしや鬢の霜
    (9月14日)
 イキノコル ワレハズカシヤ ビンノシモ
(坪内稔典編『漱石俳句集』岩波文庫161頁)
(『漱石全集第20巻』岩波書店1996年204頁)

☆同年10月11日、漱石は東京へ戻った。引用の漢詩は療養中に推敲されたものである。

☆井上幹は1886年5月7日に夭折した。追悼会は同年11月3日に大原駅前の旅館「竹楼」(現存しない)で挙行された。『千葉新報』には次のような記事がある。(句読点は当館)

◎旧自由党員、故井上幹氏ノ為メニ、来ル十一月三日、大原竹楼ニ於テ追悼会ヲ開ク。同感ノ士ハ御来会アランコトヲ請。但、来会ノ諸君ハ十一月一日マデニ、下名ノ内ヘ御申込アルベシ。会費金五十銭当日持参ノコト。夷隅郡発起人、十月、松崎要助、河野嘉七、石井代治、吉清新次郎、岩瀬武司、久貝潤一郎、田中恒次郎。

☆発起人は、投獄(東京鍛冶橋監獄に4カ月)され生き残った同志7名であった。漱石の草稿の「秋已闌」は10月中旬である。明石吉五郎の弔詩の「秋闌」は11月初旬頃と推定する。

☆「秋闌」の語法は『古今著聞集』の「文学」(巻第四)にも用例がある。

◎楼臺月映素輝冷
 ロウダイツキエイジテ ソキスサマジ
 七十秋闌紅涙余
 ナナジュウノアキタケテ コウルイオオシ
(『日本古典文学大系84・古今著聞集』岩波書店1966年125頁)

☆同書は「アキタケナワ」とは訓読せずに、「アキタケテ」と訓読している。「素輝」は白い光、「紅涙」は血涙と同義で悲嘆の涙を意味する。

☆『中原中也詩集』は、「秋闌」を「アキタケル」と読んでいる。

◎秋闌(タ)ける野にて
 みのりたる稲穂の波に雲のかげ黒くうつりて我が心うなだる
(大岡昇平編『中原中也詩集』岩波文庫298頁)

☆若い頃は『中原中也全集』や『小林秀雄全集』を所蔵していたが、古書店に売却し今は手許にない。

 * * * * *

☆残る評釈は起句のみとなった。

◎漢詩
 故園紅葉錦雲悲
 故園の紅葉 錦の雲も悲し
 山郭秋闌君不帰
 山郭 秋闌(タケナワ)にして君帰らず
 一世回首幽瞑夢
 一世に首(コウベ)を回(メグ)らせば 幽瞑なる夢
 遊魂猶是自由飛

 遊魂 猶(ナオ)是(コレ)自由に飛ぶ

☆「錦」は美しい模様の高価な絹織物で、「紅葉」は秋の「錦」である。漢詩における「故園」の用例は多数ある。李白や杜甫にも用例がある。先ず、漱石の漢詩から一例のみ評釈する。

◎故園何処得帰休
 コエン イズコカ キキュウヲエン
(吉川幸次郎著『漱石詩注』岩波新書1967年121頁
(『漱石全集第18巻・漢詩文』岩波書店1995年339頁)

☆吉川幸次郎は、「故園」を「そこへ帰って休息を得べきわがふるさと」と解説している。「人間としてもっとも本質的なもの、それが故園の二字の含意であろう」と述べた。碩学の見事な見解である。

☆筆者は壮年の頃、通勤の自家用車内で、吉川のカセットテープの講演録を繰り返し聞いたから、少しは吉川の語り口の影響を受けたかもしれない。

☆次は加波山事件で投獄された青年の漢詩である。「故園」の用例が二首ある。(カタカナの訓読は当館)

◎毎思故園涙沾衣
 コエンヲオモウゴトニ ナミダキヌヲウルオス
 夜々愁情入夢飛
 ヨヨノシュウジョウ ユメニイッテトブ
 況是孤囚々裡恨
 イワンヤコレ コシュウシュウリノウラミ
 枕辺堪聴不如帰
 マクラベ キクニタエタリ ホトトギス
(『加波山事件』宮川書店1900年318頁)
(『加波山事件』東洋文庫1966年324頁)

☆獄中作である。「毎思故園涙沾衣」の七言絶句は小針重雄(死刑)の作である。

◎三歳為囚稀漁雁
 ミトセトラワレトナリ マレニギョガン
 夢魂幾向故園回
 ムコン イクタビカムカウ コエンノメグリ
 鐵窓漏入半輪月
 テッソウモレイル ハンリンノツキ
 應照阿母枕上来
 マサニ アバノチンジョウヲ テラシテキタルベシ
(『加波山事件』宮川書店1900年348頁)
(『加波山事件』東洋文庫1966年年318頁)

☆「夢魂幾向故園回」の七言絶句は琴田岩松(死刑)の作である。「阿母(アバ)」は故郷の生母を意味する。士族出身の青年民権家が、漢詩において父ではなく母を詠うのは何故だろうか。

☆小針重雄と琴田岩松の墓碑は東京都の谷中霊園にある。

☆古賀メロディー風で恐縮であるが、李白の30代の七言絶句「春夜(シュンヤ)洛城(ラクジョウ)に笛を聞く」を引用する。「故園」の優れた用例がある。(カタカナの訓読は当館)

◎誰家玉笛暗飛聲
 タガイエノキョクテキゾ ヤミニコエヲトバス
 散入春風満洛城
 サンジテ シュンプウニイッテ ラクジョウニミツ
 此夜曲中聞折柳
 コノヨ キョクチュウ セツリュウヲキク
 何人不起故園情
 ナンピトカオコサザラン コエンノジョウ
(松枝茂夫編『中国名詩選・中』岩波文庫1986年293頁)

☆「洛城」は古都の洛陽である。「折柳」は別れの曲である。李白の「故園」は西域であるが、小針重雄の「故園」は白河市で、琴田岩松の「故園」は福島県三春町である。

☆李白の「何人不起故園情」をどのように解釈するか。同文庫の現代語訳は「だれが故郷をしのばずにはいられようか」と演歌調である。

☆明石吉五郎には『刀水漢詩集』(当館所蔵)という和綴じの著書がある。約170篇の漢詩が収められている。井上幹追悼の弔詩は収録されていない。「歳暮感」という七言絶句に「故園」の用例がある。

◎節迫歳除帰故園
 毎懐亡友易消魂
 百年生死都天命
 自鞭駑才又出門
(明石吉五郎『刀水漢詩集』1939年4頁)

☆年代順に編集されていないので、同首の成立年は不明である。転句の「百年生死都天命(ヒャクネンノショウジ スベテ テンメイ)」は含蓄がある。井上幹の「故園」はいすみ市であるが、明石吉五郎の「故園」は木更津市である。

☆評釈の最後の引用は『春峯詩稿』である。板倉中にも「故園」を詠み込んだ七言絶句がある。

◎寒林寂寞鳥空鳴
 菊折楓残不耐情
 歎息故園人已没
 空山墓上白雲横
(板倉中『春峯詩稿』1934年3頁~4頁)

☆題名は「哭河野氏」とある。「歎息故園人已没(タンソクス コエンノヒトノ スデニボッスルヲ)」とあるのでやはり弔詩だろう。河野氏の「故園」は不明であるが、板倉中の「故園」は千葉県白子町である。

☆『春峯詩稿』の「展大井馬城先生」(1923年)については前述した。同書の漢詩の配列は年代順である。筆者は「哭河野氏」を「戊寅」(1878年)1月頃の作であると推定する。青年時代の板倉を研究する好資料である。

 * * * * *

☆菜園にインゲン豆を蒔き、小豆も蒔いた。休耕田に薩摩芋の苗を時間差で(4月下旬・5月初旬・5月中旬)合計500本、家族全員で植えた。気温の異常に低い日もあったので心配したが、薩摩芋の苗は強い。しっかり根付いている。

☆夜は蔵書の水上勉『土を喰う日々』(新潮文庫)と杉浦明平『私の家庭菜園歳時記』(朝日文庫)を読む。

☆季節は移り日中は暑い。愚妻は可憐な薔薇に執心である。久し振りにこんな句を詠んだ。

◇野良着脱ぐ初夏は満月湯屋に窓         凡一
 ノラギヌグ ショカワマンゲツ ユヤニマド   ボンイツ

☆朝御飯は菜園の春蒔き大根(150本)から、一本を掘ってきて台所で下ろす。5カ月のストックである。

☆早朝、下仁田葱(50本)や長葱(100本)の新芽を摘み、細かく刻んで納豆と一緒に食べる。この時期の葱は、目を見はる程成長が速い。毎日摘むことが出来る。殆ど365日のストックである。

◇梅雨入りや葱の強さに打たれけり        凡一旧句
 ツユイリヤ ネギノツヨサニ ウタレケリ

☆無農薬で無肥料だからリーズナブル・ベジタブルである。略して「リーズ・ベジ」(凡一新語)。今年の新語大賞候補か?

☆まるで仏僧のような暮らしになった。

(2013年5月)



☆6月になったので、 加藤陽子著『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書2002年)と『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社2009年)の「民権」観を検討する。

☆もっと早くブログに批判を書くべきであったが、他の人がやるだろうと考えてしまった。とても容認できない叙述が幾つかある。例えば、

◎幹は日記のなかで、国会開設か条約改正かといえば、むしろ、条約改正を実現して国家の実権を恢復することが先だと冷静に述べていました。
(『戦争の日本近現代史』講談社現代新書58頁)

◎民権派が、為政者や民衆よりは、対外認識において積極論や対外硬論を展開していくであろうということは、ここに予想できるのです。
(『戦争の日本近現代史』講談社現代新書60頁)

☆「幹」は幹義郎(カン・ヨシロウ)のことで、茂原市の民権家である。民権家ではあるが、自由党にも立憲改進党にも入党しなかった。「幹」は房総の代表的な民権家とは言えない。「民権派」を十把一絡げにするなかれ。

☆「日記」は『詠帰堂日記(上)(下)』(茂原市立図書館2004年・2005年)である。「幹」はこの日の日記を「冷静に」書いてはいない。「幹」の人物像は多面的であり、「娼妓」、「芸妓」の記述さえある。

☆神奈川県の私立高校生への授業でも、加藤陽子氏は幹義郎の日記を一面的に取り上げている。

◎彼の主張を一言でいうと、なんでしょう。
 まず条約改正をしろと。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社110頁)

◎民権派といっても、また反政府といっても、どうも事が外交や軍事に関する問題になると、福沢や山県の考えていることと、あまり変わらなそうだなぁというイメージが描けるのです。
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社112頁)

☆「幹」がどのような立場の「民権派」であったのかということについて、一片の説明もなく、「彼の主張を一言でいうと、なんでしょう」?と問うのは、高校生に対して如何にも恣意的である。

☆エラそうな事は言えない。しかし歴史教育の正道とは思えない。

☆研究対象の社会的立場と、研究者の立ち位置を不問にするならば、歴史研究は根無し草か、時間の海に漂う浮遊物になってしまう。

☆歴史家は宿木(ヤドリギ)か。

☆加藤教授に質問されて答えている男子高校生は、正解の答案しか考えていないのではないかという気もした。出版社のヤラセジュギョウでは仕方ないかもしれない。ヤングの覇気が感じられなかった。

☆何故、『戦争の日本近現代史』を問題視するか。同書には、5人の房総の民権家(幹義郎・山崎源左衛門父子・加藤淳造・板倉中)が登場する。民権家ではないが、千葉県山武郡源村の村長であった並木一郎の『日記』も引用されている。

☆一人一人の検証が必要である。牛の涎の如く、延々と異論を書き連ねることになろう。筆者の「終活」(「就活」ではない)である。何カ月かかるか全く分からない。


        * * * * *

◆訃報。知人のメールで井下田猛(イゲタ・タケル)先生(大著『千葉県労働運動史』等の執筆者)の御逝去を知りました。1932年4月21日誕生、2013年4月22日永眠、行年81歳でした。

◆御高齢にも拘わらず、井下田先生は昨年(2012年)12月、同年齢の御友人と房総自由民権資料館へ来館されました。厳寒の折、筆者は自家用車で鴨川市の民権史跡を案内いたしました。学恩に感謝し、慎んで御冥福をお祈り申し上げます。

     * * * * *


☆『戦争の日本近現代史』を批判する筆者の研究課題は、今も「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たDepth=デプス)である。

☆『詠帰堂日記(上)(下)』(茂原市立図書館)には、「底点」に関する記述が数カ所ある。「終活」であるから、単刀直入に課題の核心を提起する。地域名望家の「売(買)色」と「女卑」の汚点を指摘する。(  )と読点は当館。

①埴生(ハブ)郡親睦会ヲ開ク、(中略)茂原鳥長楼ノ芸妓ヲ携テ行カントス
②民約論ノ源旨(ゲンシ)権利義務ノ根元ヲ論シ、国ニ憲法ナカルベカラサルヲ痛論ス
③終テ唱妓七八名出テ絃ヲ奏シ歌ヲ唱フ、又酌女二十名(中略)皆競テ美ヲ飾リ酒ヲ侑(スス)ム
④鳥長楼ニ飲ム、(中略)余(ヨ)独リ妓ヲ擁シテ眠リ図ラスモ忽(タチマ)チ恍惚ト浮山ノ夢ヲ結ヘリ
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館80頁)

☆1881(明治14)年1月30日の記述である。

☆①の「鳥長楼」は私娼(公の許可を受けていない売春婦)を置く飲食店である。

☆②の「民約論」は、ルソーの『コントラ・ソシアール(社会契約論)』の訳書である。前年の『詠帰堂日記』には、「松田屋ニテ、ルーソフ氏ノ民約論一部ヲ買ヒ去ル、代価壱円五十八銭也」(1880年3月19日)と記述されている。

☆幹義郎は翻訳者の氏名を記述していない。当時公刊されていた『民約論』は中江兆民の漢訳ではなく、服部徳の和訳(1877年刊)である。

☆植木枝盛の『購求書日記』には、1878(明治11)年の項に「民約論一冊 一円八十五銭」(『植木枝盛集第八巻』岩波書店198頁)と記されている。書籍の代金について、幹義郎は「壱円五十八銭」と記しているのだが。

☆③の「唱妓」は「娼妓」の誤記か、それとも誤植か。「絃」は「弦」であるが、「ゲン」とも読めるし、「イト」とも読める。

☆④の「妓ヲ擁シ」は「売(買)色」と判断せざるを得ない。

☆1月30日は「民約論」について論じ、「憲法」を痛論し、その夜「妓」を擁した。これが或る名望家の実像である。まるでアウグスティヌスやルソーの名著『告白』である。二つの『告白』は、高校生にとっては古典である。

☆「史実」と自伝「文学」は異なる(と考える)。更に、ルソーの『エミール』と『告白』は明と暗である。

☆池田宏樹氏の『日本の近代化と地域社会』(第4章、国書刊行会2006年)も、大庭邦彦氏の「青年名望家・幹義郎と自由民権運動」(『千葉県史研究第17号』2009年)も、同日の『日記』を引用しているが「売(買)色」について言及がない。

☆誤解を招くと困るので予め付記して置く。上記のような部分を削除せずに翻刻したK先生の地域史研究者としての良心と見識に、また『日記』の公刊に踏み切った御子孫と茂原市立図書館の英断に敬意を表し、以下詳論する。

☆ドナルド・キーン氏の『続百代の過客・日記にみる日本人』(朝日選書1988年)はショッキングな著作であった。同書も当館展示室にある。

☆ドナルド・キーン氏は『植木枝盛日記』の「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きるDepth=デプス)認識を、外国人研究者(2011年日本国籍取得)らしく冷静に乾いた眼(cool and dry eyes)で凝視している。キリスト教の性道徳が倫理的規範として設定されているように感じられた。(  )と読点は当館。

◎明治十一年五月九日、(中略)琴平の宿で、「夜妓、阿潑(オハツ)を召」したと書いている。これは植木日記の顕著な特徴、すなわち彼が“買った”さまざまな女性についての記述の、おそらく最初の例であろう。
(『続百代の過客・日記にみる日本人(上)』朝日選書1988年315頁)

☆筆者の翻刻した鴨川市の『原亀太郎日誌』(当館展示)には、亀太郎の恋愛感情の吐露はあっても、「売(買)色」の記述は皆無である。清潔な日記であった。

☆日本近代史の基本史料である『原敬日記』(乾元社・当館所蔵)も、妻の不貞に関する記述はあっても(1905年12月17日の条)、本人の「売(買)色」の記述は無い。

☆ドナルド・キーン氏は、自由党のイデオローグであった植木枝盛の「売(買)色」を次々に指摘する。植木は1882年と1883年に房総半島各地を遊説し懇親を深めた。影響は小さくない。

☆1878年5月4日に、植木は徳島の自助社を訪問し、愛国社の再興を相談している。5月9日の『日記』には次のように記述されている。(  )と読点は当館。

◎象頭山(ゾウズサン)に到り、金比羅(コンピラ)の祠を見る。一の坂高松屋に投ず、夜、妓、阿潑(オハツ)を召す。
(『植木枝盛集第7巻』岩波書店1990年150頁)

☆象頭山は標高538mで山容は象の頭に似ている。

☆翌々日の5月11日、植木は松山の愛香社を訪問し、西河通徹と面談した。西河は後に桜井静が創刊した『総房共立新聞』の記者(編集局長)になる。

☆暫くは、『詠帰堂日記(上)(下』と『植木枝盛日記』のパラレルな検討を続ける。

☆幹義郎は1881年3月20日も、「鳥長楼」で祝宴を開いている。同楼の常連だったようである。(  )と読点は当館。

◎茂原鳥長楼ニ行キ事件ノ落着ノ祝宴ヲ開キ歓ヲ尽ス、余(ヨ)芸妓某ヲ擁シテ眠リ、一夕ノ春意(シュンイ)ヲ逞(タクマシ)フス
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館85頁)

☆「事件」は、東光寺という寺院と片岡猶吉の所有地に関する争論である。(3月16日の条参照)

☆通常、辞書では「芸妓」は芸者であり、娼婦や遊女を意味する「娼妓」とは異なる。「春意」は男女間の情欲のことであるから、「芸妓某ヲ擁シ」は弁解の余地は無いと言える。

☆このような不品行では夫婦円満とはいかなかったであろう。妻の今子の行動について以下のような記述がしばしば見られる。

◎3月10日 妻今子生家ニ行ク
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館84頁)

◎3月24日 此日妻今子帰宅ス、又義兄飯高氏来ル
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館85頁)

☆約2週間の里帰りであり、3月20日は妻が不在である。3月24日は、妻の実家の義兄が幹義郎を訪ね面談している。

☆ドナルド・キーン氏は日本文学研究者の目線で、自由党のイデオローグであった植木枝盛の性生活(性病)にまで触手を伸ばしている。

◎大阪に戻る。そしてその夜は、「妓若松を召」したとある。ところがその翌日には、「少しく淋病を得」と書いている。しかし、植木は、それにもめげずに、その翌晩も、同じ若松を呼んでいる。
(『続百代の過客・日記にみる日本人(上)』朝日選書1988年316頁)

☆筆者の知る限り、日本の近代史研究者でこの地平までフィールドにしている学者は数える程である。

☆この難題(民権と廃娼)を解決する糸口は、水上勉の「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たDepth=デプス)の女性をヒロインにした作品(『越前竹人形』新潮文庫)等にある(と考える)。『越前竹人形』の時代設定は1920年代である。

☆筆者の読書の範囲では、小林多喜二書簡の「田口タキへの恋文」(『小林多喜二の手紙』岩波文庫)も重要な資料である。時代は1920年代から1930年代である。「タキ」は“Depth”の女性であった。

☆「底点」の語彙に、英語の“Depth”を当てるについては、ドナルド・キーン氏の『おくのほそ道』英訳に示唆を得た。同書は「あまの、この世を、あさましう、下りて」(34市振)を次のように翻訳している。

◎Like fisherwomen, we have dived to the depths of this world.
(ドナルド・キーン訳『英文収録おくのほそ道』講談社学術文庫108頁)

☆筆者愛用の電子辞書に、“the depths”は、「底なしの淵」、「最深部」、「深淵」、「奈落」、「絶望のどん底」とある。

☆前掲書巻末にあるノーマ・フィールド女史の「タキ宛て書簡」解説は、(ドナルド・キーン氏以上に)民権と廃娼について示唆に富む。同氏の『小林多喜二』(岩波新書2009年)は新鮮であった。いずれ詳論できるだろう。

☆『詠帰堂日記』との対比の都合上、『植木枝盛日記』の赤裸々な記述を引用する。1880年5月23日、24日、25日の条である。

◎23日 朝七時過ぎ車を以て発し、大阪に帰る。着すれば則方に黄昏。夜妓若松を召す。
◎24日 少しく淋病を得。
◎25日 妓若松を召す。
(『植木枝盛集第7巻』岩波書店1990年236頁)

☆5月23日の「則方に」は、「スナワチマサニ」と読むのだろう。5月26日は、愛国社の本部にいる片岡健吉を訪問した。5月31日は医師の診察を受け、淋疾(淋菌を持った者との交接によって感染し尿道炎等を発症)の治療をしたことも記述されている。

☆まだ板垣総理の栄光の自由党は結成されていない。

☆1881年の『詠帰堂日記』は酒宴、外泊、遊蕩が続く。ドナルド・キーン氏の手法に倣って幹義郎の放蕩振りを列記する。

◎4月8日 白井氏と芸妓二名ヲ携エテ河村屋ニ行テ泊ス
◎4月9日 白井氏并ニ妓二名ト相対シテ写真ヲ撮ル
◎4月13日 愛妓ヨリ情書来ル、書頗ル情アリ
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館87頁)

☆「白井氏」は親友の白井喜一郎のことである。喜一郎は1854(安政元)年2月生まれであった。この頃千葉県会議員である。幹義郎は1853(嘉永6)年9月生まれであるから、義郎の方が年上である。

☆白井喜一郎は翌年8月にコレラで急逝した。1882年8月17日の『詠帰堂日記』には「地引村白井喜一郎氏コレラ病ニ罹リ死去セリ・・・悄然トシテ悲嘆ニ沈ミ覚エス落涙」とある。

☆年少の親友に替わって、幹義郎(選挙では次点)自身が県会議員になった。

☆4月13日の自ら「愛妓」と書く心境は、まるで井原西鶴の『日本永代蔵』(「京にかくれなき始末男、壱歩拾ふて家乱す悴子」)に登場する、財産を使い果たした道楽息子のようである。

☆1881年6月27日は、「鳥長楼」に出かけ3人(高橋喜惣治・板倉胤臣・幹義郎)で宴会を開いている。喜惣治と胤臣はほとんど外泊しない。

◎6月27日 酒肴ヲ呼ヒ、唱妓ヲ招キ、三人歓ヲ尽クシ灯ヲ点シ
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館100頁)

☆幹義郎は、1881年7月17日も「鳥長楼」に外泊した。これでは厳父の幹徳一郎ともうまく行かなかったはずである。身から出た錆と言うべきか、才能に溺れたと言うべきか。

◎7月17日 唱妓某及び楼婦等ト戯嘘談笑、遂ニ酔フテ・・・泊ス
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館103頁)

     
* * * * *

昨年6月に館山税務署に開業届を提出しました。開業日は6月19日なので、創業1周年を迎えることができました。。「創業は易く守成は難し」明治維新の頃によく使われた名言です。出典は中国の『唐書(トウジョ)』のようですね。

先日、当館HPの読者氏から、千葉県の民権結社の音読(オンドク)について問い合わせがありました。60社以上を検出した神尾武則先生の網羅的な労作(「千葉県の民権結社」『千葉史学第25号』1994年)がありますが、音読が付記されておりません。

問い合わせのあった27社の「難読?」結社の音読について、メールで回答させて戴きました。参考までにHPに掲載します。( / )は結社総数中の難読結社の割合。尚、全結社については当館展示室。

難読結社(おんどく)
◇安房地域(1/7)
・浩鳴社(こうめいしゃ)

◇夷隅地域(2/6)
・益友会(えきゆうかい)
・嚢錐社(のうすいしゃ)

◇君津地域(6/11)
・嚶鳴社支社(おうめいしゃししゃ)・興村会(こうそんかい
)・尚風会(しょうふうかい・庶(鹿)陽社(しょようしゃ)・天羽聯合学術演説会(あまはれんごうがくじゅつえんぜつかい・三省社(さんせいしゃ)

◇長生地域(7/8)
・海鷗社(かいおうしゃ)
鳴求社(めいきゅうしゃ)・喈鳴社(かいめいしゃ・崇文社(すうぶんしゃ)・愛景社(あいけいしゃ)・共雍社(きょうようしゃ・上埴生正党会(かみはぶせいとうかい

◇山武地域(3/11)
・測蠡会(そくれいかい)・興愛社(こうあいしゃ)・益友会(えきゆうかい)

◇千葉地域(0/2)

◇印旛地域(4/5)
・共洽社(きょうきゅうしゃ
・履信会(りしんかい・盍簪社(こうしんしゃ・叢談会(そうだんかい)

◇海匝地域(0/3)

香取地域(3/5)
・温知社(おんちしゃ)・朋友談話会(ほうゆうだんわかい)・好問社(こうもんしゃ

東葛地域(1/2
・東寧会(とうねいかい

長生地域に難読結社が多かったことになります。安房地域の結社名の「浩鳴(こうめい)」は、広く大きく鳴くという意味です。

印旛地域の結社名の「盍簪(こうしん)」は、中国の古典の『易経(エキキョウ)』にあり、友人同士が寄り集まるという意味です。随分難しい結社名にしたものですね。

筆者が関心を持ち続けて来た結社は、長生地域の「鳴求社」です。自由党に入党した齊藤和助(自治夫)が参加していました。「鳴求」とは仲間を求めて声を発するという意味です。

日本最古の漢詩集『懐風藻(カイフウソウ)』に、次のような詩句があります。五言律詩の第三句と第四句です。カタカナの訓読は当館。

真率無前後
 シンソツゼンゴナク
 鳴求一愚賢
 メイキュウグケンヲイツニス
(『日本古典文学大系69懐風藻・文華秀麗集・本朝文粋』岩波書店171頁)

作者は上総守(カミツフサノカミ)です。詩句の意味する所は、貴賤を問わず等しく迎え入れられ、賢愚が共に慕い合い群れを為すということです。「鳴求一愚賢」、流石ですね。

齊藤和助(自治夫)の雅号は「物外」でした(齊藤家所蔵掛軸)。「鳴求」だけでなく、「物外」の用例も、『懐風藻』にあります(前掲書180頁)。「物外」は吉野(奈良県)のような俗界の外、世間を離れた場所を意味し、同書は「モツガイ」ではなく、「ブツガイ」と読んでいます。

脱俗的な雅号ですね。自由党員の齊藤和助は『詠帰堂日記』に登場します。後日、詳述できるでしょう。

「物外」の近代における用例は、夏目漱石の『それから』にあります。世俗的なものに煩わされない世界という意味で使用されています。

何時見ても疲れた態もなく、噪ぐ気色もなく、物外に平然とし(後略)
(夏目漱石『それから』新潮文庫77頁)

漱石の『それから』には、「日糖疑獄事件」が当時(1909年)の新聞紙上の話題として取り上げられています。(   )のカタカナは当館。

その明日(アクルヒ)の新聞に初めて日糖事件なるものがあらわれた。砂糖を製造する会社の重役が、会社の金を使用して代議士の何名かを買収したと云う報知である。
(夏目漱石『それから』新潮文庫126頁)


「何か日糖事件に関係でもあったんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかった」
(中略)
「日糖もつまらない事になったが、ああなる前にどうか方法はないんでしょうかね」
(同書148頁)

平岡はこの時邪気のある笑い方をした。そうして、
「日糖事件だけじゃ物足りないからね」と奥歯に物の挟まった様に云った。
(同書240頁)

この疑獄事件には、房総地域選出の衆議院議員が1人関わっていました。「民権」と「金権」の課題も個々に即して論じなければならないでしょう。

(2013年6月)



☆7月である。梅雨明けが近そうである。6月に続いて『戦争の日本近現代史』(講談社現代新書)批判を続ける。筆者のパラダイムは「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たDepth=デプス)である。

☆『植木枝盛日記』には、妻に関する記述は僅かしかない。句読点と(   )は筆者、以下同じ。

◎7月20日 今夜、山脇香梅(カメ)女と結婚の礼を行ふ。(1881年)
◎7月24日 夜、山脇に行く、之を婿入となす。(1881年)
(『植木枝盛集第7巻』岩波書店270頁)

☆幹義郎(カン・ヨシロウ)は、随所に妻の出産や家族との軋轢について記述している。

◎12月31日 実子ナキトキハ妾ヲ買テ、以テ子ヲ得テ己レ自ラ分家シ、本家ハ弟量平ニ譲リ、該分家ハ我カ子則チ妾腹ノ子ヲ以テ立ツルコソ得策ナリト(1881年)
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館123頁~124頁)

◎7月3日 妻分娩の兆アリ、(中略)女子出産ス、誠ニ失望ノ極ト云ヘシ。(1882年)
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館146頁)

◎6月14日 妻正ニ分娩ニ臨ム、産婆来ル、(中略)男子出産、母子共強壮、余及ヒ一家ノ喜悦云ヘカラス、嗚呼相続人ヲ得タリ。(1887年)
(『詠帰堂日記(下)』茂原市立図書館114頁)

☆「量平」は幹義郎の実弟である。義郎はキリスト教からほとんど影響を受けていない。現代からは、「妾腹」等の露骨な男尊女卑の記述がある。「妾腹」は「ショウフク」とも「メカケバラ」とも読む。

☆ドナルド・キーン氏は指摘していないが、結婚後、植木枝盛は同一の娼妓を何度も訪れた。

①7月14日 夜、芳(吉)原に行き大文字楼に上り、妓白露を聘す。師範学を卒業し学問に富む。美亦た称すべし。(1882年)
②7月21日  夜、吉原大文字楼に登楼し、妓白露を召す。(1882年)
③10月28日 夜、大文字楼に遊び、白露を聘す。(1882年)
④11月24日 夜、大文字楼に登る、白露妓を召す。(1882年)
⑤11月25日 白露妓を召す。(1882年)
⑥12月2日  夜、吉原大文字楼に上る、白露を召す。(1882年)
⑦12月3日  今日、白露の室に息ふ、夜此に眠る。(1882年)
⑧12月15日 夜、吉原大文字楼に遊ぶ、白露を召す。(1882年)
⑨12月17日 山口千代作、平島松尾と芳(吉)原大文字楼に遊ぶ、白露を召す。(1882年)
⑩12月26日 東京に返り、大文字楼に上り白露を召す。(1882年)
⑪4月6日   夜、芳(吉)原大文字楼に上る、白露を召す。(1883年)
⑫4月15日  夜、大文字楼に白露に会す。(1883年)
(『植木枝盛集第7巻』岩波書店298頁~318頁)

☆合計12回、大文字楼(ダイモンジロウ)の同一の娼妓を訪れている。1882年12月3日の「今日、白露の室に息ふ、夜此に眠る」という記述は、植木枝盛の精神がどのような場所で憩うことができたのかを(寂しく)暗示している(と考える)。

☆既に板垣総理の自由党は結党されていた。

☆妓名の「白露」は、「シラツユ」と読むべきか、それとも「ハクロ」と読むべきか。この「底点」の知的な女性の生涯については不明である。資料的な限界なのだろう。

※百人一首に「白露(シラツユ)に風の吹きしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける」(文屋朝康『後撰集』)がある。

☆1882年12月17日記載の「山口千代作」と「平島松尾」は、福島県の著名な民権家であった。逃走中であった。

☆房総の民権家の幹義郎も、東京の「吉原」遊郭に登楼している。

◎4月22日 花ヲ芳(吉)原ニ観ル。・・・茶店青柳ニ上リ芸妓ヲ招キ一宴ヲ開キ、夫レヨリ春情ヲ稲本楼ニ買ヒ(中略)更ニ又、某楼ニ転シテ快楽ヲ添ヒ各六曲屏風裏ニ香夢ヲ結フ。(1883年)
◎4月23日 早起シテ青柳ニ帰リ茶ヲ喫シテ去リ。(1883年)
(『詠帰堂日記(上)』茂原市立図書館176頁)

☆「春情ヲ買ヒ」とか、「屏風裏ニ香夢ヲ結フ」という記述は、やはり弁解の余地は無い。公娼街の妓楼に外泊したのである。

☆『詠帰堂日記(上)(下)』に、植木枝盛は登場しない。『植木枝盛日記』に幹義郎の姓名の記載は無い。1883年4月、枝盛は「大文字楼」に通い、義郎は「稲本楼」に登楼した。

☆「大文字楼」も「稲本楼」も吉原(日本)有数の妓楼であった(福田利子著『吉原はこんな所でございました』ちくま文庫49頁)。大見世(オオミセ)の「大文字楼」跡地は、現在、吉原公園になっている。(負の)民権史跡の一つであると言うべきだろうか。

☆吉原はどんな所であったか。正岡子規には「傾城(娼妓)」を詠んだ句が数多くある。『子規全集第1巻』所載の「傾城」句については、すでに述べたことがある。吉原遊郭そのものを詠み込んだ句も残っている。3句だけ引用する。

◎吉原の太鼓聞ゆる夜寒かな  (1897年秋)
 ヨシワラノ タイコキコユル ヨサムカナ
◎吉原の燈籠見による酒の酔  (1897年秋)
 ヨシワラノ トウロミニヨル サケノヨイ(エイ)
◎吉原てはくれし人や酉の市  (1899年冬)
 ヨシワラデ ハグレシヒトヤ トリノイチ
(『子規全集第3巻』講談社66頁70頁302頁)

☆季語の「余寒」は春、季語の「夜寒」は秋である。季語の「燈籠」は、盆燈籠である。吉原には「玉菊燈籠」という年中行事もあった。

☆「酉の市」は浅草の鷲(オオトリ)神社の祭礼(11月)である。同郷の高浜虚子は子規の句を踏まえたのか、1950年に「此頃の吉原知らず酉の市」(『高浜虚子全集第3巻』毎日新聞社239頁)と詠んでいる。虚子の懐は深いと筆者は感じる。

☆根岸の子規庵から、吉原はそれ程遠くない。子規には、新聞『日本』紙上に公表した次のような句があり、暗然とする。

◎女郎買をやめて此頃秋の暮  (1900年秋)
 ジョロガイヲ ヤメテコノゴロ アキノクレ
(『子規全集第3巻』講談社352)

☆『コントラ・ソシアール(社会契約論・民約論)』の著者であるルソーは、イタリアのヴェネチアにおける娼妓(パドアーナとズリエッタ)体験を、『コンフェシオ(告白・懺悔)』に詳述している。語られた内容は史実だろう(と考える)。

☆近代民主主義と「底点」の関係を考察できる典型的な文献であるので、避けて通ることはできない。「終活」である。

     * * * * *

☆加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)は、ルソーの「戦争および戦争状態論」のエッセンスを私立高校生に紹介している。

◎戦争とは相手国の憲法を書きかえるもの。(挿絵のセリフ)
(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』朝日出版社2009年42頁)

☆高校生に対して、こういう提起の仕方はやはり一面的である。

☆『ルソー全集』(白水社)の「国家相互のあいだの戦争の一般的概念」には、次のように述べられている。

◎国家の心臓というのは、社会契約なのだ。
◎全体を分割することができないので、各部分ごとに襲いかかるのだ。(中略)政府や、法律や、風習や、財産や、所有地や、人々を攻撃するのだ。
◎こうした手段は・・・武装解除された敗者に危害を加えるために勝者が強制する条件なのだ。
(『ルソー全集第4巻』白水社1978年392頁)
(『ルソー・コレクション文明』白水社2012年204頁)

☆「全体」と「部分」の構造並びに関係は、ルソーの最も得意とする論理である。

☆加藤陽子氏は、「共通性は、ある一定の視角から眺めていなければ見つけることができなかった」、「巨大な戦争の後には基本的な社会秩序の書きかえがなされる、とのルソーの真理に気づけるかどうか」(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』46頁)と私立高校生に語っている。

☆しかし、戦後の社会秩序の心臓もまた社会契約なのである。旧い社会契約から、新しい社会契約への移行は、「強制」だけではない。

☆晩年の中江兆民は、『一年有半』(原著・全集・文庫を当館架蔵)で遺言のように書いた。

◎民権これ至理なり、自由平等これ大義なり。
◎百の帝国主義ありといへどもこの理義を滅没することは終に得べからず。
(『一年有半・続一年有半』岩波文庫56頁)

☆漢訳の『民約訳解』の訳者緒言には、「民権」について「明民之有権」と記されている。恐らく中江兆民の著述における「民(之)権」の初出である。読み下し文のみ引用する。

◎(ジャンジャック)著すところの民約の一書、時政を掊撃(ホウゲキ)して、余力を遺(ノコ)さず、以て民の権あることを明かにす。
(桑原武夫編『中江兆民の研究』岩波書店1966年218頁)

☆「時政」はその時代の政治、「掊撃」は攻撃と同義である。『中江兆民の研究』(当館架蔵)は「民之権」を「民の権」と訓読している。

☆筆者愛用の電子辞書には、「民権」の語義は「人民の身体、財産などを保持する権利」、「人民の政治に参与(加)する権利」と説明されている。初出は意外に新しく、津田真道訳『泰西国法論』(1868年)としている。

☆『津田真道全集』から、「民権」の用例の初出を引用する。

◎居住の外国人に一切の民権を準許する(第2編国民外国人 13章)
(『津田真道全集上』みすず書房2001年136頁)

◎一切の民権を有し得たり(第3編自主民不自主民 第11章)
(同書137頁)

◎斯(カカ)る民権を其公権と称す(第7編国民の公権 第2章)
(同書145頁)

☆『泰西国法論』における「民権」は、一般的な国民(人民)の権利という意味で使われている。その後の用例は、『学問のすゝめ』、『明六雑誌』、『文明論之概略』、『民権自由論』、『東洋民権百家伝』、『三酔人経綸問答』、『新日本史』、『自由党史』、諸新聞等、多数ある。

☆中江兆民は主著の『三酔人経綸問答』(1887年刊)で、「恢復的(カイフクテキ)民権」(下より進んで取る民権)の未来を描いている。

◎恢復的の民権は下より進取するが故に、其分量の多寡は、我れの随意に定むる所なり。
(『三酔人経綸問答』岩波文庫194頁)
(『中江兆民全集8』岩波書店261頁)

☆中江兆民の「恢復的民権」と「恩賜的民権」いう語彙は、独創的な用語である。しかし先立つ用例はある。

◎旧弊を除きて民権を恢復せんこと、方今(ホウコン)至急の用務なるべし。
(福沢諭吉『学問のすゝめ(第4編)』岩波文庫42頁・原著は1874年刊)

◎人民もし奮って民権を取り、・・・政府の民権を賜(タマ)うを待つは、たとえば黃河の清むを待つがごとく・・・。
(西村茂樹「政府与人民異利害論(セイフトジンミン、リガイヲコトニスルノ、ロン)」『明六雑誌(下)』岩波文庫288頁・原著は1875年刊)

☆西村茂樹は佐倉藩出身であった。著書の『万国史略』(全十一巻)は、いすみ市の民権学校「薫陶学舎」で教科書として使用された。(拙著『底点の自由民権運動』岩田書院191頁)

☆詩人の北村透谷の「民権」観は、深い思い入れを伴っていた。1893年の評論において、「精神の発動」、「精神の動作」として捉えている。

◎吾人の眼球を一転して、吾国の歴史に於て空前絶後なる一主義の萌芽を観察せしめよ。即ち民権といふ名を以て起こりたる個人的精神、是なり。
(「明治文学管見」『北村透谷集』岩波文庫258頁)

☆筆者自身は「民権派」よりも、「民権家」の語彙を頻用してきたように思う。自由党入党者や立憲改進党入党者、そして都市や地域の結社に加盟したり、演説会等に出席しただけの人物も含めて広い意味で使用してきた。

     * * * * *

☆前掲書の「ある一定の視角」とは、パラダイム(基底の枠組み)のことであると理解する。

☆筆者のパラダイムは「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たDepth=デプス)であるから、ルソーの戦争についての「断片」ではなく、『告白』について述べる。

☆『告白』は、ルソーの生前には刊行されなかった。第一部は第1巻から第6巻、第二部は第7巻から第12巻まである。同書から、ルソーの懺悔を二つ取り上げる。

☆第7巻にはヴェネチアの娼婦をフィレンツェへ追いやってしまった不始末が記述されている。第12巻には、妻テレーズとの間に生まれた5人の子供全員を、孤児院に預けてしまった父親としての悔恨が記述されている。

☆娼婦パドアーナとの行為では、性病の不安も語られている。

◎館にもどったとき、わたしはてっきり悪い病気がうつったと思いこんで、さっそく医者をさがしにやって、煎じ薬をもらった。
(『告白(中)』岩波文庫69頁70頁)

☆ルソーは、もう1人の娼婦ズリエッタには幻惑されたようである。

◎「お久しぶりねぇ!」とさけんだと思うとわたしの腕のなかに身をなげかけ、わたしの口にその口を押しつけ、息もつまるほどわたしをだきしめた。
(『告白(中)』岩波文庫71頁)

☆翻訳は現代の大衆作家のような文章である。訳者代表の桑原武夫の「底点」認識も、後日検討が必要であろう。この健脚のフランス文学者の感性はどのように形成されたのか。

◎いま、おれの自由になっているこの女は、精神も、肉体も、すべて完璧だ。愛嬌があり、美人であるばかりか、善良で、心もひろい。(中略)この女は、だれにでも身をまかすあわれな商売女なのだ。
(『告白(中)』岩波文庫75頁)

☆娼婦ズリエッタへの悔恨は次のように記述された。

◎おのれの失態に気づき、自責の念にかられ、こちらの出方しだいで、生涯でもっとも甘美なものとなったはずの時間を、むだにしたことを悔い(後略)。
(『告白(中)』岩波文庫77頁)

☆原因は身体的なことであった。ルソーの人間観の基底は「ピチエ=憐れみの情」(『人間不平等起源論』岩波文庫71頁)であったはずなのだが。

☆第7巻には次のような訳文もある。

◎以上が、二つの色話である。
(『告白(中)』岩波文庫77頁)

☆「色話」は「イロバナシ」と読むのだろう。いったい、訳者はどのような顔つきで原文を訳出したのか。同書の初版は1965(昭和40)年7月である。筆者は外房(ソトボウ)の高校1年生だった。

     * * * * *

☆もう一つ、懺悔を取り上げる。捨て子である。

☆ルソーは、テレーズとの出会いから離反までを詳細に記述している。年譜(『世界の名著30ルソー』中央公論社、『世界の大思想2ルソー』河出書房新社)に拠ると、1746年に第1子が誕生した。ルソーは34歳、妻のテレーズは10歳程年下であった。

☆ルソーは親権(父権)を放棄している。

◎赤ん坊は、普通の形式にしたがって、産婆の手で孤児院の事務所へ預けられた。その翌年も同じ目にあい、・・・テレーズのほうは相変わらず、なかなか承知してくれなかった。彼女は泣く泣く従った。
(『告白(中)』岩波文庫110頁)

☆孤児院に預けたのは第1子と第2子だけでは無かった。

◎そういったわけで、三番目の子供も、はじめの二人同様、孤児院にいれられた。その後の二人も同様である。つまりわたしには全部で五人の子供があったのだ。
『告白(中)』岩波文庫129頁

☆5人の子供がどのように成長したかは不明である。

◎すべてを考慮した上で、わたしは子供たちのために最善の方法、あるいは自分で最善と信じた方法をえらんでやったのである。
(『告白(中)』岩波文庫130頁)

☆「最善の方法」は、ルソーの魂に(癒えることのない)深い傷痕を残した。晩年の『孤独な散歩者の夢想』でも苦しんでいる。

◎こんなややこしい家族にかかわり合っているテレーズとわたしとの運命をなげいた。
(『告白(中)』岩波文庫138頁)

☆父権(親権)の由来について、ルソーは『人間不平等起源論』でイギリスのロック(『統治二論(市民政府論)』)を批判している。この問題は後日取り上げる。

☆知人に依頼して孤児院を捜索したことが、『告白』に記述されている。5人の実子の生死すら確認できなかった。

◎しかし、捜索は無駄におわり、なにも発見できなかった。
(『告白(中)』岩波文庫110頁)

◎ずっと以前から、彼女の心が冷えてきているのに、わたしは気づいていた。彼女はわたしにとってすでに、二人がしあわせだった頃の彼女でなくなっているのをわたしは感じた。
(『告白(下)』岩波文庫)164頁)

☆筆者は、今まで何度か『エミール』を手にした。高校倫理の授業で「第二の誕生」について解説もした。蔵書には3種類の訳書がある。しかし、捨て子を悔恨した文章に付箋を付けたことは一度も無い。

◎教育論の構想中、どんな理由からだろうとけっして許されない義務をなおざりにしたことを、痛感せざるをえなかった。とうとう良心の呵責に耐えかねて、『エミール』の冒頭でやっとの思いで、わたしの過ちを公然と告白することになった。
(『告白(下)』岩波文庫164頁)

☆『社会契約論』が刊行されたのは1762年4月、『エミール』が発売されたのは同年の5月である。6月に『エミール』は押収され、逮捕命令が出された。ルソー(50歳)はパリから逃走する。

☆1768年8月、逃走中のルソー(56歳)は、ブールゴアン(フランス南西部)の町役場でテレーズ(45歳)と正式に結婚した。

※ルソーの誕生日は1712年6月28日であり、テレーズの誕生日は1721年9月27日であった。ルソーは1778年7月2日、66歳で他界した。テレーズは79歳まで生きて、1801年7月12日に他界した。(前掲書の年譜参照)

     * * * * *

☆『エミール』に記述されている「過ち」はどのような文章か、確かめなければならないだろう。

◎貧困も、仕事も、世間への思惑も、自分の子供たちを、自分の手で養い育てる義務から免れる理由にはならない。(中略)誰でも子供を持ちながらこれほど神聖な義務を怠る者に予告しておく。その人はいつまでも自分の過失について後悔の涙を流し、しかもけっして慰められはしないだろう。
(『世界の大思想2・エミール』河出書房新社1973年22頁)

☆近代民主主義の思想家ルソーの一側面、最深部である(と考える)。

☆筆者は、『孤独な散歩者の夢想』を執筆した頃のルソーの年齢に近づいた。晩年である。同書をこれまで全くつまらない本と考えて来た。最近は違う。どの文章も共感できるようになった。

☆「第五の散歩」の文章ほど美しい自然描写はない。『告白』の風景描写よりも優れていると思う。還暦を過ぎて、漸く実感できたのだから遅すぎたかもしれない。課題の都合上、「兎」のエピソードだけを引用する。

◎テレーズとわたしは、にぎやかに小さな島にでかけていって、そこに兎を放し飼いにしたが、それはわたしが島を去るまえに繁殖しはじめていたので、冬の寒さに負けなかったとしたら、兎たちはきっとその数を増していったことだろう。
(『孤独な散歩者の夢想』ワイド版岩波文庫85頁)

☆「第六の散歩」では消極的な自由観を記述している。

◎わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行うことにあるなどと考えたことは決してない。それは欲しないことは決して行わないことにあると考えていた。
(『孤独な散歩者の夢想』ワイド版岩波文庫106頁)

☆「第七の散歩」では老化の兆候を記述している。

◎突然六十五歳をすぎたころになって、多少は残っていた記憶力もうしなわれ、それまで野原をかけまわる体力もあったのにそれもなくなり・・・。
(『孤独な散歩者の夢想』ワイド版岩波文庫108頁)

☆未完の遺稿(九)は悔恨と諦観と弁明が混在している。

◎見れば五つか六つくらいの小さな男の子が力いっぱいにわたしの膝を抱きしめて、じつに親しげなやさしい面持でわたしをみつめているので、わたしは深く感動させられた。こんなふうに自分の子供にもしてもらえたのに、とわたしは思った。
(『孤独な散歩者の夢想』ワイド版岩波文庫149頁~150頁)

☆成人したかもしれぬ我が子について、晩年の思想家ルソーは探索の努力をしていない。妻テレーズも生活苦で病んだ。産着の子供達は、孤児院の塀の中に消えたたまま永遠に帰らない。

☆父子の関係について、『社会契約論』の「第1編第2章」には次のような洞察がある。

◎家族において、父親の子供たちへの愛情が、父親の与える養育の労を償うが、国家において、首長は人民にこのような愛情をいだかない。
(井上幸治訳『社会契約論』中公文庫13頁)

☆フランス語原書(当館架蔵)では、「愛情」は amour という語彙である。中江兆民の『民約訳解』では「愛念」、「至情」という訳語が使用されている。

☆父子関係の洞察は、「第1編第4章」にも記述されている。

◎自分の子供たちを譲り渡すことはできない。彼らとて、人間として、自由なものとして生まれる。
(井上幸治訳『社会契約論』中公文庫18頁)

☆中江兆民の『民約訳解』は、「彼らとて、人間として、自由なものとして生まれる」を、「児子亦人也、亦有自由権」と漢訳している。

◎彼ら(子供たち)を取り返しのできないように、無条件で、他人に与えることはできない。
(井上幸治訳『社会契約論』中公文庫18頁)

☆ルソーは、幼児の譲渡を「自然の目的 fins de la nature に反する」行為であると洞察している。中江兆民の『民約訳解』は、「有背天理也」と漢訳している。

☆『社会契約論』と『エミール』が刊行された頃、独学の思想家ルソーとテレーズの子供たち5人は、孤児院の中で離ればなれになっていたと推定する。「底点」の萌芽である(と考える)。

(2013年7月)


☆8月である。ジョン・ロックとジャンジャック・ルソーの「父権論」を比較する。寸時の道草、又は脱線になるかもしれない。

☆ロックの『統治二論』には、捨て子についての記述が1カ所ある。句読点と(   )は筆者、以下同じ。

◎それ(父親の権力)は、子供の実父と同じように、捨て子の養父にも属することになる。
(『完訳・統治二論 Two Treatises of Government 』岩波文庫2010年366頁)

☆『統治二論(市民政府論)』の刊行は、イギリス名誉革命後の1690年であった。長い間、(『社会契約論』よりも)慣れ親しんだ書物であるから、訳書は3種類、原書は2種類所蔵している。

☆ロックの英文はどの文章も長くて、読みやすいとは言えない。 Two Treatises of Government では、「父親の権力」は paternal power、「捨て子」は an exposed Child、「養父」は Foster-Father である。

☆ルソーの『告白』には、5人の「捨て子」の記述はあっても、「養父」についての記述は無い。

☆ロックは「後編、第6章、父親の権力について」で、両親にとって子供の養育は義務であると記述している。根拠は自然法であり、また神である。

◎すべての両親が自然法によって、自分たちが儲けた子供たちを保全し、養育し、教育する義務を課せられることになった。
◎ただし、その場合にも、子供たちは、両親の作品ではなく、両親を創造した全能の神の作品であり、両親は、子供たちのことについて、この全能の神に責任を負わなければならないのである。
(『完訳・統治二論 』岩波文庫357~358頁)

☆原書では、「自然法」は Law of Nature 、「保全」は preserve 、「養育」は nourish 、「教育」は educate である。「義務を課せられる」は、under an obligation である。他の文章では「義務」は Duty と記述されている。「全能の神」は Almighty 、「責任を負わなければならない」は to be accountable である。

☆ロックの「人間観」のパラダイム(基底の枠組み)は、経験論の「白紙状態」というのが定説である。しかし次のような記述もある。ロックには珍しく短文なので原文も引用する。

◎彼(アダム)以来、世界には彼の子孫が住むようになったが、彼ら(人間)は、すべて、知識も知性もなく、弱く無力な幼児として生まれ落ちる。
(『完訳・統治二論 』岩波文庫357頁)
◎From him the World is peopled with his Descendants, who are all born Infants, weak and helpless, without Knowledge or Understanding.
(Two Treatises of Government, CAMBRIDGE UNIVERSITY PRESS 当館所蔵)

☆ロックは(旧約聖書の)アダムの末裔である人類に対して、冷徹な観察をしている。ルソーのパラダイムである「Pitié(ピチエ=憐れみの情)」(『人間不平等起源論』)に通底するような語彙は、ロックには見当たらない。対応するのは「弱く無力な幼児 weak and helpless Infants 」である。

☆「養育」の義務について比較検討するために、桑原武夫他訳の『社会契約論』を引用する。(  )は中江兆民『民約訳解』の漢訳。

◎たとえ各人が、自分自身を他人に譲りわたすことができるとしても、自分の子供たちまで譲りわたすことはできない。
(縦人々得自挙身与人、児子則不得并与之也明矣)
◎子供たちは、人間として、また自由なものとして、生まれる。
(何者児子亦人也、亦有自由権)
◎彼らの自由は、彼らのものであって、彼ら以外の何びともそれを勝手に処分する権利はもたない。
(豈復得恣与人為奴哉)
(現代語訳は『社会契約論』岩波文庫22頁、漢訳は『中江兆民全集1』84頁)

☆「為奴」は兆民の意訳である。「奴(ド)と為(ナ)す」という訳文は、桑原武夫他訳にも井上幸治訳にも無い。しかし、兆民の意訳の方が深いだろう。

☆第1編第4章のタイトルは「ドレイ状態について(奴隷)」である。「為奴」は「捨て子」の将来を暗示する。子供の「自由権」と「処分」についての記述を、ルソーがなぜ第1編第4章に置いたのかを適確に捉えている(と考える)。

☆更に次のような文章が続く。

◎彼らが理性の年令に達するまで、父親は彼らに代って、彼らの生存と幸福とのために、いろんな条件をきめることはできる。
(子之方幼、父代子与人約為図利、固可))
◎しかし、とりかえしのつかぬ仕方で、無条件で彼らを他人にあたえてしまうことはできない。
(至於代子与人約為奴、雖父之尊、無有是権)
(現代語訳は『社会契約論』岩波文庫22頁、漢訳は『中江兆民全集1』84頁)

☆中江兆民は、ここでも「無条件で他人にあたえてしまう」を、「為奴」と漢訳してしている。

☆ルソーが子供の譲渡を不道徳として批判する根拠は何か。

◎なぜなら、そうした贈与は、自然の目的に反し、父親としての権利をこえたものであるから。
(無他、有背天理也)
(現代語訳は『社会契約論』岩波文庫22頁、漢訳は『中江兆民全集1』84頁)

☆ルソーは「養育」の義務を、「自然法 Law of Nature 」や「全能の神 Almighty」 ではなく、「自然の目的 fins de la nature 」であると主張する。中江兆民の『民約訳解』は、「自然の目的」を「天理」と漢訳した。

※高浜虚子には、大自然の「天理」を詠んだような(巨視的な?)名句がある。
 大いなるものが過ぎゆく野分かな (1934年)
 わが終り銀河の中に身を投げん  (1949年)
 去年今年貫く棒の如きもの    (1950年)
 一筋の大きな道や秋の風     (1953年)
 流れ星はるかに遠き空のこと   (1955年)
虚子は、個々の季題と花鳥諷詠の深奥を見据えている(と感じる)。

☆「神」という語彙は、『社会契約論』第2編第6章の「法について」、第7章の「立法者について」、第3編第4章の「民主政について」に登場する。参考までに「民主政について」の章から、「神」という語彙の用例を一つ引用する。

◎もし神々からなる人民ががあれば、その人民は民主政をとるであろう。これほどに完全な政府は人間には適しない。
(『社会契約論』岩波文庫98頁)

☆ Du contrat social では、「人民」は peuple、「神々」は dieuxである。「民主政」は démocratiquement、「人間」は hommesである。第3編第4章「民主政について」の『民約訳解』は残存しない。兆民ならどのように漢訳しただろうか。

☆ルソーは、不完全な人間による民主政は内乱や内紛が起こりやすく、常に警戒と勇気が必要であるというのである。

     * * * * *

☆Du contrat social が、岩波文庫として初めて出版されたのは1927(昭和2)年のことである。訳者は文芸評論家の平林初之輔(『種蒔く人』同人、1931年パリで客死)であった。

☆訳者序文には、自由民権運動との思想史的関連についての記述がある。

◎日本に於ても、本書の一部分は中江兆民によりて漢訳せられ、自由党の運動の経典とされた。
(平林初之輔訳『民約論』岩波文庫1927年7頁)

☆桑原武夫他訳の『社会契約論』が出版されたのは、1954(昭和29)年である。同書の解説において、訳者の一人である河野(カワノ)健二が兆民と自由民権運動について書いている。

◎わが国でも、中江兆民いらい、ルソーの名ははやくから人々の知るところであり、ルソーの政治思想が自由民権運動のささえのひとつとして役立ったことは改めて述べるまでもない。
(桑原武夫他訳『社会契約論』岩波文庫1954年223頁)

☆筆者は18歳の頃に、故河野健二の講義を受講したことがある。「私と見解が異なる人はいつでも話に来なさい」と(驚く程柔軟に?)語ったように記憶している。

☆民主政に関して、戦前の平林訳と戦後の桑原他訳を比較してみる。

◎民主政体の国に於ては、特に、市民は堅忍不抜の力を以て武装し、生涯を通じて、毎日、(中略)「吾は奴隷の平和よりも危険な自由を選ぶ」と心の底で言はねばならぬ。
(平林初之輔訳『民約論』岩波文庫1927年99頁)

◎この政体においては、市民は実力と忍耐とをもって武装し、(中略)生涯を通じて、毎日心の底から叫ばねばならぬ。「わたしはドレイの平和よりも危険な自由を選ぶ」と。
(桑原武夫他訳『社会契約論』岩波文庫1954年97頁)

☆中公文庫の『社会契約論』は、井上幸治(『秩父事件』の著者)訳である。

◎この政体においては、市民は力と堅忍さとをもって身を固め、(中略)生涯のあいだ日々心のなかで唱えていなければならない。「私は奴隷として平穏にすごすよりは、むしろ危険な自由を好む」。
(井上幸治訳『社会契約論』中公文庫1974年90頁)

☆井上幸治は、s'armer を「武装し」とは訳さずに「身を固め」と訳している。また、 quietum servitium を「ドレイの平和」とは訳さず、「奴隷として平穏にすごす」と訳している。流石である(と考える)。

☆世間は狭い。今年4月に平林初之輔の御令孫が、海洋汚染の研究者と一緒に来館された。千客万来、歓談交流、おかげで筆者の知見は広がった。

☆微力ながら「薫陶学舎(いすみ市の民権学校)」の遺志を継承して、民権の壇林(中世・近世の学問所、叢林、学林)、またはデモクラシーのコレジヨ(バリニャーノが設置した高等教育機関、葡萄牙語)を模索すべきか。

☆薫陶学舎には、嶺田楓江(漢学・漢詩人・『海外新話』の著者)、村田峰次郎(英学・歴史学・『高杉晋作』の著者)、若林有隣(数学・漢学)等の教師陣が揃っており支援者もあった。しかし、船越衛(フナコシマモル・広島出身・貴族院議員)県令によって廃校に追い込まれた。

☆房総には、近世の飯高壇林(イイダカ・ダンリン)のような史跡も残存する。

     * * * * *

☆健筆健脚であった桑原武夫の「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来た深淵)観を検討するには、『思い出すこと忘れえぬ人』(文芸春秋1971年初版・当館所蔵)の記述が最適である。

☆同書には、桑原家の両親のこと、親戚のこと、幼少年時代のことが告白されている。購入して通読したのは、水上勉著『古河(フルカワ)力作の生涯』(文春文庫1978年・当館所蔵)に引用されていたからである。

☆古河力作は大逆事件で刑死した。福井県小浜市の古河家は、福井県敦賀市の桑原家の親戚であった。

☆『雲の中を歩んではならない』(文藝春秋新社1955年初版・当館所蔵)にも、自伝的な文章が収められている。大変廉価であったので、古書店で気軽な気持で購入した。この二著に記述された「底点」観について述べる。

☆桑原武夫は病気療養のため旧制中学校を1年間休学している。その頃の直接的な体験に関する告白を引用する。

◎数学者になるつもりだったのが、フランス文学に転進したのは、休学中に(中略)荷風、潤一郎は全部読み、病床で花柳界というものに好奇心をいだいていた。
(『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社1955年232頁)

☆永井荷風の花柳(カリュウ)小説から影響を受けたように記述されている。同書の記述によって、ルソーの『告白』(岩波文庫)の娼妓に関する翻訳と文体について得心が行く。

☆少年時代について次のような告白もある。

◎三高に入学して、島本君を訪ねると、宇治の素封家の息である彼は、花屋敷(山本宣治の実家)へ連れて行って御馳走をし、芸妓を三、四人よんでくれた。当分、日曜日になると宇治へ行きたくて困った。
(『思い出すこと忘れえぬ人』文芸春秋1971年232頁)

☆「島本融(トオル)」は京都一中時代の同級生で、後に大蔵省に入り北海道銀行の初代頭取になる。島本家の家業は製茶業・金融業である。「山本宣治」は生物学者であり、労働農民党の最初の代議士であった。

☆壮年時代の体験も告白されている。

◎私は戦後、深田久弥(キュウヤ)君に案内されて、金沢の東遊郭の、徳川時代からのお茶屋というものに遊んだ。
(『思い出すこと忘れえぬ人』文芸春秋1971年38頁)

☆「深田久弥」は作家で登山家である。石川県加賀市出身であった。

☆『思い出すこと忘れえぬ人』の「第五章、伯父さん列伝」は中々凄い。伯父(実父の兄)の放蕩伝は異色である。伯母の不行跡も(実名で?)記述されている。

◎伯父はまもなく破産してしまった。(中略)放蕩浪費をきわめたからだ。伯父は酒が強かった。晩酌二合を飲みきると、毎晩必ず外へくり出さずにはすまない。悪い取巻きはつねにいる。そして東遊郭の武蔵屋を宿坊にして散在がはじまる。
(『思い出すこと忘れえぬ人』文芸春秋1971年90~91頁)

☆桑原家は代々、和紙の製造業(鳥ノ子屋)を営んでいた。実母の実家である打它(ウタ)家は敦賀の町人頭をつとめた家柄で大邸宅に住んでいた。桑原武夫は、母の里帰り先の打它家で誕生したと云う。

☆桑原武夫の友人にはブルジョワジー出身者が多い。詩人の三好達治は印刷業、中国文学の吉川幸次郎は貿易商、ドイツ文学の大山定一(テイイチ)は米穀商であったと記述されている。 (『雲の中を歩んではならない』222頁)桑原本家は没落ブルジョワジーと呼ぶべきかもしれない。

☆柳田国男との対話で、桑原武夫が学問観を吐露した文章がある。

◎学問は先生(柳田国男)のいわれる「常民」の幸福の総和の増進ということを目標としなければいけないと思う。といいはったところ、先生はそれには賛意を表され、もう儒教の復活などできることではない、といわれた。
(『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社1955年66頁)

☆『遠野物語』(岩波文庫)の解説者らしい日本的な発想である。率直で優れた学問観であったと思う。桑原武夫は、北上山地最高峰の早池峰山(ハヤチネサン、1917㍍)にも登頂している。健脚である。

☆登山と冒険については次のような記述がある。

◎生来無器用な私は、山で二三度死にかけたが、胃弱がすっかり治ったこと、いささか艱難にたえられるようになったこと、山村の生活をのぞき見たこと、人生には冒険によってしか切りぬけられぬ場合のあることの自覚など、登山から学んだことはきわめて大であったと思っている。
(『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社1955年233頁)

☆そして、『社会契約論』と『告白』の翻訳があり、『三酔人経綸問答』の現代語訳もある。

(2013年8月)



☆9月である。相変わらず暑い。『虚子五句集』(岩波文庫)から一句鑑賞する。

◎人の世の悲し悲しと蜩が    (1955年)
 ヒトノヨノ カナシカナシト ヒグラシガ

☆情景を詠むと同時に心根が吐露されている。高浜虚子は、花鳥諷詠の原理をはみ出してしまう抒情句と呼ぶべき秀句も残した。詠まれているのは私的な悲しみであり、人間存在の悲しみである。

☆桑原武夫の「底点」認識についてもう少し考え続ける。

☆注目すべき文章は、『啄木・ローマ字日記』(岩波文庫)の解説である。若い頃古書店で、廉価な『桑原武夫全集』(朝日新聞社)や『啄木全集』(筑摩書房)を購入して通読した。その後古書店に売却し、現在は手許にない。

☆還暦を過ぎて、『啄木・ローマ字日記』を再検討することになった。筆者は、還暦後にまだこの世に生きていることを予想しなかった。未来は不可視で、何が起こるか分からない。

☆桑原武夫の啄木評価について、幾つか疑問を述べる。次のような指摘は妥当かどうか。

◎17の娘の温かな肌において、彼がはじめて満足をかちえるところを読んでいると、私たちも何だかうれしくなる。(中略)共感を禁じえないのは事実だ。啄木の悲惨はそれほどあわれなのである。
(『啄木・ローマ字日記』岩波文庫1977年257頁)

☆「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たデプス)の「民権」という史観のパラダイム(基底の枠組)からは、桑原の見解に同意できない。

☆啄木は日記において、自意識の弱点を記述している。現代文で引用する。

◎心はいつもなにものかに追ったてられているようで、イライラしていた。自分で自分をあざ笑っていた。
(『啄木・ローマ字日記』岩波文庫1977年93頁・205頁)

☆桑原武夫は「文学」の誘惑に耐えかねたのか、そういう啄木を擁護している。

◎啄木の明治42年春の生活は不道徳的であろう。しかし、あの時期に、あの年で、あの悲惨のうちにおいてである。誰がそれを責めることができよう。
(『啄木・ローマ字日記』岩波文庫1977年262~263頁)

☆ドナルド・キーン氏も、驚く程啄木の『日記』を高く評価した。

◎明治時代の文学作品中、私が読んだかぎり、私を一番感動させるのは、ほかならぬ石川啄木の日記である。
(『続百代の過客(下)』1988年朝日選書150頁)

☆ドナルド・キーン氏は、『啄木・ローマ字日記』に記述された数々の「女郎屋通い」(前掲書177頁)を、『植木枝盛日記』について述べた時のように一つ一つ検証することはしていない。

☆『啄木・ローマ字日記』には「底」、「淵」、「暗黒」、「深い所」という記述が少なくない。例証のために列挙する。

◎深い内部の要求
(『啄木・ローマ字日記』岩波文庫1977年24頁・137頁)
◎心の底から求めているものは安心だ
(同書26頁・139頁)
◎深い、恐ろしい失望
(同書29頁・142頁)
◎この人生からかぎりなき暗黒の道へ駆け出した
(同書32頁・144頁)
◎安心の谷の底までも沈んでゆく
(同書33頁・146頁)
◎great pains and deep sorrows (大きな苦痛と深い悲しみ)
(同書69頁・181頁)
◎the bottomless rapture of young Nihilist (ニヒリストの底なしの歓喜)
(同書69頁・181頁)
◎人生の真の深い意味
(同書72頁・184頁)
◎自意識は心を深い深い所へつれていく
(同書82頁・194頁)
◎心は暗いふちへ落ちて行くまいとして、病める鳥の羽ばたきするようにもがいていた
(同書83頁・195頁)
◎小説“底”を書きはじめた
(同書86頁・198頁)

☆啄木は、時代閉塞の思想的な課題として「底点」を凝視しようとしていた(と考える)。しかし、「底点」への通路と明窓を発見していない。前述したように、小林多喜二の「タキ宛て書簡」や水上勉の作品「越前竹人形」にしか糸口がないというのが筆者の直感である。後日、詳述する。

☆桑原武夫は前掲書の解説で、「私たちは、節子がこれを焼かなかったことに心から感謝する」と述べている。

☆石川節子は未亡人になった。歴史の女神「クリオ」は、地上の人間(男女)に対して想像以上に残酷である。

     * * * * *

☆『啄木・ローマ字日記』の記録された1909(明治42)年は、正岡子規の没後である。子規の代わりに、永井荷風の俳句を鑑賞する。桑原武夫は少年の頃に荷風の作品を耽読している(『雲の中を歩んではならない』文藝春秋新社232頁)。

☆先頃刊行された『荷風俳句集』(岩波文庫)から、「傾城(遊女・娼妓)」を詠んだ句を7句引用する。

◎はるさめに昼の郭を通りけり   (1900年)
 ハルサメニ ヒルノクルワヲ トオリケリ

◎傾城の病もいえつ小つごもり   (1901年)
 ケイセイノ ヤマイモイエツ コツゴモリ

◎髪洗ふ水楼の昼や春寒き     (1909年)
 カミアラウ スイロ(ウ)ノヒルヤ ハルサムキ

◎郭出てあき地通るや春の水    (1909年)
 クルワデテ アキチトオルヤ ハルノミズ

◎稲妻や郭の外の田圃道      (1909年)
 イナヅマヤ クルワノソトノ タンボミチ

◎亡八に身をおとしけり河豚汁   (1915年)
 ボウハチニ ミヲオトシケリ カトンジル

◎よし原は人まだ寝ぬにけさの秋  (1938年)
 ヨシワラワ ヒトマダイヌニ ケサノアキ

☆1909(明治42)年の「髪洗ふ」の句に詠まれた「水楼」は「翠楼」に通じ、妓楼を指し示している。

☆1915(大正4)年の「亡八」の句が、荷風の流儀を際だって明瞭にしている。「亡八」とは「仁義礼智忠信孝悌」の徳目を忘れてしまった放蕩者である。同書は「カトンジル」と振り仮名をしてあるが、「河豚汁(フグジル)」は遊女も意味する。

☆1938(昭和13)年の「よし原」の句は、公娼街の東京浅草「吉原」で詠まれている。退嬰的な雰囲気も漂うが、近代俳句史では無視できない。

☆吉原は、1911(明治44)年の大火で焼失した(福田利子『吉原はこんな所でございました』ちくま文庫97頁)。与謝野晶子には、この時の火事を詠んだと思われる短歌がある。

◎吉原の火事のあかりを人あまた見る夜のまちの青柳の枝   
(『与謝野晶子歌集』岩波文庫1943年47頁)

☆1911年は、与謝野晶子が「山の動く日」を発表した年である。

☆桑原武夫の盟友であった鶴見俊輔氏の自伝は、「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たデプス)への眼差しを忘れない。戦中の「慰安所」についての回想がある。

◎私は不良少年であったから、戦中に軍の慰安所に行って女性と寝ることは一切しなかった。子どものころ男女関係をもっていた、そういう人間はプライドにかけて制度上の慰安所には行かない。
(鶴見俊輔『期待と回想(下巻)』晶文社1997年233頁)

☆『期待と回想(上・下)』は鶴見俊輔氏の「告白」に相当する。この本には桑原武夫がしばしば登場し、桑原自身の『思い出すこと忘れえぬ人』(文藝春秋)には書かれていない交友関係や苦労話を明示している。

     * * * * *

☆吉本隆明著『父の像』(ちくま文庫2010年・単行本は1998年刊)には、近現代日本の父子関係について原理的な考察がある。同氏の実父は天草(熊本県天草市五和町)の二江(フタエ)出身であった。「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たデプス)のパラダイムから「父の像」を検証する。

※前述したように、「デプス」は英語の “the depths”で、深淵、奈落、どん底、最深部を意味する。ドナルド・キーン訳『英文収録・おくのほそ道』(講談社学術文庫108頁)の Like fisherwomen, we have dived to the depths of this world. に示唆を得ている。

☆第2次大戦後、卓越した洞察力を揮い続けた詩人思想家の吉本隆明は、桑原武夫とは異なる濃密で潔癖な父親像を提示している。

◎父はおよそ性とかエロスとかを連想させる雰囲気を発散したことはなかった。ただ一度、腰巻をとって上半身を脱いで、うつぶせた母の背中や腰に灸を据えている場面をみたことがあった。
(『父の像』ちくま文庫191頁)

☆最も印象的な叙述である。天草から一家転住して、東京の佃島で造船業を営んできた中年夫婦の日常を、子どもの眼で如実に描写している。

◎父は謹厳でもないし、おしゃれもしなかったが、女出入だけは家庭に持ちこまなかった。(中略)父は幾分その点で侘しかったろうが、子どもにとっては修羅場がなくて住みよいといえた。
(『父の像』ちくま文庫191頁)

☆この回想は吉本にとって、家庭を大切にした「父の原像」と言える。

☆吉本隆明は、『父の像』のなかで1カ所だけ「底点」認識を告白している。桑原武夫のように、少年時代に芸妓を座敷に呼んで同席したというような体験談はない。

◎小学校の低学年までだったが、学校がひけると、ときどき母親が店番をしている深川門前仲町や、ときに三吉橋の近くの貸ボートの店に遊びに行って、ボートを漕いで掘割を上下した。(中略)州崎の遊郭裏の水路を漕いでいて、置屋の裏の窓の手すりによりかかった若い女たちにからかわれることがあった。
(『父の像』ちくま文庫186~187頁)

☆吉本少年が通り過ぎた「州崎の遊郭」とはどのような所であったか。深川界隈は知人が一時期住んでいたので、筆者は訪ねたことがある。しかし不案内である。永井荷風の『日記』や短編小説の描写を参照する。

◎(1931年11月20日)小名木川岸より州崎遊郭前に至る間、広々したる空地あり。(中略)州崎を過る頃日は全く暮れ郭外に軒を連ねし飲食店には燈火燦爛たり。
(磯田光一編『断腸亭日乗・上』岩波文庫234頁)

☆ 吉本隆明は、関東大震災後の1924年11月の誕生である。州崎遊郭周辺の風景は永井荷風と重なると考えて良いだろう。1931年11月、荷風は関東大震災後初めてこの地域を訪れたと『日記』に記述している。荷風は1879年12月の誕生であるから51歳であった。

☆荷風はその後も州崎界隈を歩いたようで、次のように記述されている。

◎(1931年11月27日)豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。州崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し。
(磯田光一編『断腸亭日乗・上』岩波文庫235頁)

☆州崎遊郭の風景描写が大変見事であるのは、短編小説「深川の唄」である。夜間の描写である。(   )のカタカナは筆者。

◎州崎の遊郭に、燈籠の催しのあった時分、夜おそく舟で通った景色をも、自分は一生忘れまい。苫(トマ)のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川沿いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身(ホリモノ)した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。
(『すみだ川・新橋夜話・他一篇』岩波文庫20頁)

☆永井荷風は芸妓や私娼に対して憐憫の情を示している。荷風作の短編小説「妾宅」に明瞭に記述されている。

◎近松の心中物を見ても分るではないか。傾城の誠が金で面を張る圧制な大尽に解釈されようはずはない。
(丸谷才一編『花柳小説傑作選』講談社文芸文庫305頁)

☆この場合の「解釈」は、「理解」という意味である。近松門左衛門の心中物に関する次のような記述は、荷風文学の特色と限界を示している。

◎変る夜ごとの枕に泣く売春婦の誠の心の悲しみは、親の慈悲妻の情を仇にしたその罪の恐ろしさに泣く放蕩児の身の上になって、初めて知りえるのである。
(丸谷才一編『花柳小説傑作選』講談社文芸文庫305頁)

☆アウトロー的で厭世的である。荷風の指摘した「売春婦」と「放蕩児」の連結軸からは、「底点」の問題解決の糸口は見えて来ない(と考える)。

☆吉本隆明の森鴎外論は独特である。

◎鴎外のもつ女性像は、玄人筋の女性像から出来ています。
(『父の像』ちくま文庫)

☆「玄人筋(クロウトスジ)」という表現は独特である。吉本は、『雁』を鴎外の代表作ではないかと評価している。筆者は、『雁』を若い頃に一度読んだことがある。好感の持てる作品であった。『雁』の時代設定は明治10年代で、自由民権期と重なる。

☆『雁』について、吉本は大胆な類推をしている。

◎鴎外は、第一の奥さんと別れて第二の奥さんと結婚するまで、おふくろさんの世話で玄人筋の女の人と関係していたことがあったのではないかとおもいます。その体験は、『雁』という作品の中によく出てきているようにも思います。
(『父の像』ちくま文庫)

☆根拠を示さず推定し、「玄人筋」という表現を連発している。文芸批評家としての直感なのだろう。「玄人筋」というのは芸妓や娼妓の花柳界のことを指すのだろう。

☆他の著作では「傾城(遊女・娼妓)」についてもっとはっきりと語っている。田山花袋の『田舎教師』には遊女が登場する。筆者は、『田舎教師』を若い頃に文庫本で一度読んだことがある。やはり好感の持てた作品である。

◎主人公には遊女に対して、自分と同じような境遇に対する同情心があったのではないだろうか。ただ、遊女はしたたかで、主人公を翻弄するのだが。
(『日本近代文学の名作』新潮文庫)

☆「遊女はしたたか」という洞察は、他の批評家にはない。「傾城(遊女・娼妓)」を憐憫の対象や、被害者的立場として捉えない所に吉本の一貫した主張がある。

☆残念ながら、遊女や娼妓の「自立」の方法については、吉本は一言も述べていない。「対幻想(ツイゲンソウ)」(男女の性的な関係を核とし、個人幻想と共同幻想に対して独自に考察できる幻想領域)というオリジナルな概念を提起したが、『遠野物語』や『古事記』に適用しただけで終わってしまった。

☆吉本は「底点」(身も心も疲れ果て孤立した女性達が集まり肩寄せ合って生きて来たデプス)の解明に何を残したか。

☆庶民的(市民的)知識人の「自立」の方法だけは、様々なニュアンスで語られてきた。

     * * * * *

※9月19日(木)の夜は、雲一つない満月であった。家族と月見団子を食べた後に、人影のない夜道を少し散歩した。佳句を詠みたいと願ったが、寂しい凡句ができてしまった。

◇名月の光降る村静寂にて    凡一(ボンイツ)
 メイゲツノ ヒカリフルムラ シジマニテ  

(2013年9月)


☆吉本隆明の『父の像』に次のような記述がある。

◎父は願望しようとしまいと「遊民」ではなかった。(中略)ひそかに記してみたいのは、「遊民」でないものが、「遊民」以上の視野の可能性をもちうるという場所がありうるのか、ということだ。父性像をその軌道に接続できるかということだ。
(『父の像』ちくま文庫)

☆「遊民以上の視野の可能性」という指摘は、戦後思想にとって大変貴重である。日常性を越える着想を、庶民が持ち得る可能性を示唆している。しかし、老年期の吉本隆明は弱気な発言も残した。

◎権力をもたない「高等遊民」は、もしかすると不可能なのかも知れない。
(『父の像』ちくま文庫)

☆世界大戦の惨禍を歴ても、売文思想家(稼業)の悲哀からは逃れられなかった。

☆吉本隆明と鶴見俊輔氏の父性像を比較してみる。吉本は次のように語った。

◎僕は憎悪を父親に向けたことはないんです。
(『父の像』ちくま文庫)

◎祖父はときどきわけもなく家へ(故郷へということ)帰ると言い出した。・・・すると父はいつも同じように、おじいさん、少し目鼻がついたら連れて帰るからとなだめるのだった。
(『父の像』ちくま文庫)

◎かわらぬ父の態度からたくさんのことを学んだ。そしてじぶんもその真似事くらいはしたいとおもった。
(『父の像』ちくま文庫)

☆「かわらぬ父の態度」が吉本の自立思想の父性像である。

☆吉本家のルーツは天草のようである。筆者の愚妻はルーツが天草なので、この文章のイメージを具体的に思い浮かべることができる。自立思想のルーツに、漠然とした親近感がある。

☆哲学者の鶴見俊輔の父性像も悲劇的に語られているが、まったく庶民的ではない体験談である。

◎私は上層出身です。日本人全体の上位1パーセントの暮らしをして、薄々、まずいなとは感じてたんだ。
(鶴見俊輔『期待と回想』晶文社)

◎親父は後藤新平のお婿さんですが、後藤新平を聖人君子としては書いていない。後藤新平は、それこそ男女関係はたいへんに放縦な人だったし晩年は家の中にお妾さんを入れて暮らしていた。
(鶴見俊輔『期待と回想』晶文社)

◎私は、おふくろが私に残したものはくり返しとらえようとしてるけど、親父が私に残したものについて考えたくない。
(鶴見俊輔『期待と回想』晶文社)

☆かなり違う。対極的な幼年時代である。

☆吉本は、柳田国男が記録した『山の人生』にある、明治の悲劇的な父性像を例示している。炭焼きの父親が、炭が売れず子どもに食べさせるものもなくなって、子どもを殺し自分も死のうとした事件である。

☆原話は、『遠野物語・山の人生』(岩波文庫93頁)にある。

☆吉本は「これは悲劇的で偉大な父性像のようにおもえる」と述べている。筆者には「偉大な」父性像という評価は納得できなかった。「悲劇的」という表現だけで十分ではないか(と考えた)。次のような洞察もあるが。

◎父性像は悲劇によってはじめて輪郭をはっきりさせるものを指している。
(『父の像』ちくま文庫)

(2013年10月)


☆本題の「底点」認識に戻ることにする。『小林多喜二の手紙』(岩波文庫2009年)と水上勉『越前竹人形』(新潮文庫1969年)から受けた啓示について整理する。

☆適確に整理できる自信はない。

☆『小林多喜二の手紙』のノーマ・フィールド氏の解説は大変示唆に富む。外国人女性研究者でなければ提起できなかったアングルである。列記させて戴く。

◎終生想いを寄せた女性田口瀧子宛ての現在伝えられている23通は読み手のこころに訴えることのみならず、多喜二の生涯の中心的課題の検討を迫る。
(『小林多喜二の手紙』503頁)

☆小林多喜二の「底点」認識を(初めて?)中心的な課題として提起した、非常に明晰な指摘である。

◎「政治と女性」が無視できない課題である。
(『小林多喜二の手紙』504頁)
◎身請けが救いになるにはなにが必要なのか、という課題を発見したと言えよう。
(『小林多喜二の手紙』506頁)

☆二つの課題は所与ではなく、発見である。

◎身売りに追い込まれた女性を愛する男性の困惑の話と、(中略)身売りを強いられた女性の視点から他の酌婦や偽善的インテリ客を描いたもの、と二系統の作品。
(『小林多喜二の手紙』508頁)

☆小林多喜二の課題をこのように言い当てた批評を筆者は他に知らない。時代は異なるが、このアングルから『植木枝盛日記』、『詠帰堂日記』、『田中正造日記』の売買春は再検討が迫られている(と考える)。

◎タキは素直に恋のときめきを覚えただろう。・・・多喜二の人懐こさにタキの心が開いたのではないか。そこには愉快さもあれば安堵もあり、これが彼女を彼に生涯惹きつける要因になった気がする。
(『小林多喜二の手紙』510頁)

☆筆者は還暦近くになって、上記の批評に出会えるとは思ってもみなかった。民権家の性倫理批判にとって一筋の光明である。

(2013年11月)



☆小林多喜二に勧められて、田口瀧子が正確に暗記していた石川啄木の短歌64首が、松澤信祐『小林多喜二の文学』(光陽出版社)に載録されている。底点のパラダイムから5首のみ転記する。

◎しっとりとなみだを吸へる砂の玉なみだは重きものにしあるかな
◎やはらかに積れる雪に熱てる頬を埋むるごとき恋してみたし
◎真夜中の倶知安駅に下りゆきし女の鬢の古き痍あと
◎小奴といひし女のやはらかき耳朶なども忘れがたかり
◎君に似し姿を街に見る時のこころ躍りをあはれと思え
(『小林多喜二の文学』光陽出版社160頁~163頁)

☆小林多喜二は田口瀧子宛の書簡に、石川啄木の短歌を暗記し、短歌を作ってみてはどうかと書いてる。

◎僕が一番すうと読んでみて、これならばと思われるのを選んでみた。・・・寝る前に二つ三つ覚え、次の日仕事をしながら、一生懸命暗記するのだ。
(『小林多喜二の手紙』岩波文庫42頁)

☆「小奴(コヤッコ)といひし女のやはらかき耳朶(ミミタボ)なども忘れがたかり」(『新編啄木歌集』岩波文庫122頁)の短歌について少し背景を探る。

☆この短歌を田口瀧子に暗唱させることは適切であったかどうか。小林多喜二は「小奴」をどのような女性像として理解していたか。

☆石川啄木の『明治四十一年戊申日誌』には、しばしば「小奴」という女性が登場する。五カ所抜粋する。

◎小奴のカッポレは見事であった。釧路へ来てから今夜程酔うた事はなかった。(2月22日)
◎小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活溌な気持のよい女だ。(2月24日)
◎芸者といふ者に近づいて見たのも生まれて以来此(コノ)釧路が初めてだ。(2月28日)
◎小奴の長い長い手紙に起こされる。(3月11日)
◎“妹になれ”と自分は云った。“なります”と小奴は無造作に答えた。(3月20日)
(『石川啄木全集第5巻』筑摩書房223頁~234頁)

☆啄木はその後、釧路から東京へ転居した。『啄木ローマ字日記』に「コヤッコ」が登場する。1909(明治42)年5月1日の日記である。ローマ字でしか書けないような作家の告白である。

◎“行くな!行くな!”と思いながら足はセンゾクマチへ向かった。
◎“ああ!コヤッコだ!コヤッコをふたつみつ若くした顔だ!”
◎コヤッコそのままの顔がうす暗い中にボーッと浮かんで見える。
◎今夜のように目もほそくなるなるようなうっとりとした、ヒョウビョウとした気持のしたことはない。
◎夢の1時間がたった。予も女も起きてタバコをすった。
(『啄木ローマ字日記』岩波文庫202頁~205頁)

☆「ヒョウビョウ(縹緲 or 縹渺)」という語彙は難しい。『新明解国語辞典』(三省堂)には「一面に広がっていて、はっきりとは分からない様子」と語義が説明されている。この辞書の発案者は、啄木の友人であった金田一京助で『啄木ローマ字日記』にも登場する。

☆啄木はなぜこんな語彙を使用したのだろうか。同時代の夏目漱石の漢詩で、「縹緲」という表現を何度か読んだことがある。1910(明治43)年10月16日の作と較べてみる。

◎縹緲玄黃外
 縹緲たる玄黃(ゲンコウ)の外(ソト)
 死生交謝時
 死生(シセイ)交(コモ)ごも謝する時
(『漱石全集第十八巻漢詩文』岩波書店263頁)

☆同書の詩注は「吐血直後の漱石は、縹緲とした、あてどもない天地の外、宇宙をさまよっていた」と説明している。

☆白居易の「長恨歌」にも「縹緲」の表現がある。吉川幸次郎は次のように訓読した。

◎山在虚無縹渺間
 山は虚無縹緲の間(トコロ)に在り
(吉川幸次郎・桑原武夫著『新唐詩選続篇』岩波新書60頁)

☆吉川の詩注は「縹緲、この語は俗世間からはるかにかけ離れた距離にあることを意味するであろう」とある。

☆『啄木ローマ字日記』(岩波文庫)の編訳者であった桑原武夫も、5月1日の日記に注目している。

◎その月の月給25円を前借すると、すぐ千束町へゆき・・・小奴によく似た17の娘の温かな肌において、彼がはじめて満足をかちえるところを読んでいると、私たちも何だかうれしくなる。
(『啄木ローマ字日記』岩波文庫257頁)

☆桑原武夫は、「共感を禁じえないのは事実だ」と書いた。しかし筆者は、桑原の指摘をとても首肯できない。この点については既に述べたことがある。桑原の批判精神は顰蹙に対して強靱であるが、啄木の放蕩には矛先が鈍っている。

☆「センゾクマチ=千束町」は吉原遊郭のあった街である。次の短歌の清新なイメージは失われてしまうだろう。

◎浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
(『新編啄木歌集』岩波文庫23頁)

☆上掲の短歌は前述の64首には入っていない。

(2013年12月)



寄贈図書(2013年)】※御協力に御礼申し上げます。
□『近代西洋の光』(日本古書通信社2007年)
□『明治期における日本聖公会の千葉宣教』(三恵社2011年)
□『町勢要覧・昭和30年合併版』(千葉県安房郡長狭町1956年)
□『創立百十周年記念誌』(鴨川市立主基小学校1986年)
□『鴨川市史』(鴨川市)全巻
□『創立百年史』(安房高校)
□『講座明治維新5・立憲制と帝国への道』(有志社2012年,「自由民権運動と憲法論」ほか)
□『田中正造全集』(岩波書店)全巻
□『賀川豊彦全集』(キリスト教新聞社)全巻
銚子市立総合病院休止からリコールへ・マイナスからのスタート(アクセス出版2009年)
□『貝百話』(アクセス出版2009年)
□『続もう一つの銚子市史』(アクセス出版2012年)
□『自由民権運動喜多方事件130周年記念事業集録』(喜多方事件130周年実行委員会2013年)